9 お花見
クア、クア、クアと、今日も先日生まれた雛、レアンがセシルを追っている。
セシルが足を止め、抱き上げて頬ずりをした。うっとりとレアンが目を閉じている。
オークランスの牧場は、雛からだいたい一年から三年の時期を受け持って育てる牧場だ。まだまっさらな状態のランフォルたちの体を強く大きくし、笛の意味、基本的な動きと人間への愛情を育て、専門的な技術を学ぶための牧場に引き渡すのが仕事だ。
にしてもやりすぎじゃないかと思うほどの愛を、セシルはレアンに注いでいる。しっかりと訓練しながらだから問題はないのだが、うっとりと恋するようにレアンのアホ面を見ている姿を見ると、何かこう、何かこうあるだろうという気持ちになる。
カップルたちの卵も順調に孵化して、ふわふわのが母親、父親の脚にくっついている。皆しっかりと子育てをしているようでホッとする。
あとは孵化箱の二個。オスカーの拾った卵が先に孵りそうだなと当たりをつけている。
「レアン。しばらくオルテンシアのところにいて。レアンはまだ飛べないから」
『クア』
こっくんと頷いているが、本当にわかったのかお前と思う。
ランフォルは卵は捨てるが、一度孵った雛ならよその子でも大事にする。理屈はわからない。母性が強いのか、弱いのかもわからない。そういうものなのだ。
白のオルテンシアがじっとセシルを見て、ググルゥと鳴いた。もうすっかりセシルが自分の味方であることを理解している。
「ありがとう」
ぎゅっとその首に抱き着き、レアンを同じくらいの大きさのよちよちした雛の隣に置いた。
「レアンといいます。よろしくねベガ」
『クアッ』
タイミングよく鳴くもんだなあと思う。
セシルが離れてしまうからだろう。クアックアッとしばらくレアンは鳴いていたが、やがてつんつんされてベガと遊びだした。まったく単純な奴めと思う。
「花を見に行くか? もう満開だろう」
「やった。少し遠くまで行っていいんですね?」
「ああ。誰に乗る?」
「メスたちは昨日の夕方の遠乗りで少し疲れ気味だからお休みですね。今日はアルコルにします」
「じゃあ俺はコールサックか。競争するか?」
「します! やったあ!」
ぴょんと飛ぶ。
細い体にぴったりとした深緑色の騎乗服。長い黒のブーツ、ヘルメットにゴーグル、革の手袋。
「その服新しいな」
「お給料が出たから全部つっこみました」
「少しは別のことにも使え。今後もう一着仕立てていいぞ。コンクール用のも買ってくれ。どっちが出るかわかんないからな」
「やったあ! 雇い主が太っ腹で嬉しい!」
若い娘が、ドレスではなく騎乗服で喜ぶ様子を、複雑な思いでオスカーは見ている。
アルコルにセシルが抱きつく。愛おしそうにアルコルがセシルの短い髪を食む。
セシルはすごい、と、実はオスカーは思っている。
ランフォルは人の心に敏感だ。己を害そう、あるいは力づくでも従わそうとしている人間には絶対に懐かない。『知識は専門家であれ、心は無邪気な子どもであれ』と、オスカーは父に教えられた。どこまでも彼らを知り尽くす深い知識を持とうとも、その技によってランフォルを屈服させるようなことはしてはいけないと。ただ、ただ、心は純粋に彼らを好きであれと。
セシルの飼育日誌は真っ黒だ。色や柄、撫でられると嬉しい場所。気性、好きなもの、嫌いなもの。その日の体重、羽の艶、食べたもの、残したもの、行動が細やかに分厚く書かれている。
ただ純粋に彼らを愛し、細やかに目を配り、どこまでも知ろうとするその心はランフォルたちには真っ直ぐに伝わっているらしい。カップルたちを含め、もうセシルはこの牧場の全てのランフォルに騎乗することができる。
華奢な体が鞍に跨がり丁寧に金具を留めていく。
「オスカーさん」
「ん?」
「この太もものところの金具、ちょっと見てもらえませんか」
言われたので手を伸ばして指で引いてみた。確かに少し緩いかもしれない。
「別のにしよう。これは調整に出そう」
「はい」
一度アルコルの背を降り、その体から鞍を外している。
「トゥランの民は鞍なしでランフォルに乗れたらしいな」
「……どうやったんだろう。紐で結んでたんでしょうか」
「不思議な魔法を使ったんだろう」
トゥランの民。アランが怖がる、伝説の民。
揃いの白い髪に赤い瞳を持ち、一国の王家を一人、一人とランフォルの爪で摘み上げ、落とし、死体の山を築いて皆殺しにして国を潰した、殺戮の民と呼ばれている。
今彼らの名は世界にはない。討ち滅した国に王として定住することもなく、彼らはランフォルに跨って霧の先に消えたという。
「よし。確認お願いします」
「ん、大丈夫だな」
アルコルがクックックと鳴いている。嬉しいときの声だ。飛ぶのが楽しみなんだろう。
黒の羽根がつやつやと太陽の光を反射している。
「お前も鳴いてもいいんだぞ。コールサック」
銀のコールサックがつんとしている。つれない奴だな、と、その首を撫でる。
笛を吹く。セシルも吹いているがランフォルたちは賢い。自分の耳のすぐ後ろで鳴っている笛の音だけをしっかりと聞き分ける。
ぴったりとコールサックに身を当てる。上昇のスピードがアルコルの方が上だ。セシルが軽いのと、風を避けるのが上手いからだろう。
ぐんぐん昇って、手綱を引き笛を吹いてコールサックの角度を変える。穏やかな暖かい空気の中に、二羽分の大きく力強い、美しい羽根が羽ばたく。
横を飛ぶセシルを見た。ゴーグルをするせいもあると思うが、ランフォルに乗っているときのセシルはやはり少年にしか見えない。短い髪が靡き、しなやかで華奢な体が軽やかにランフォルと一体になって空を舞う。
軍にいた頃の主な仕事は偵察と輸送だった。飛ぶときは常に任務、一糸乱れぬ連携で、多くの規則、縛りの中を追われるように飛んでいた。
気の良い奴らばっかりだったし嫌な仕事ではなかった。もう少し上に行けばもっと仕事も変わってきたのかもしれないが、とりあえず毎日はそれなりに楽しかった。
それでもやっぱり『育て』は違う。小さくてフワフワの頼りない奴を、立派なランフォルになるように、ただ愛を注ぐこの仕事を、自分は心から大好きだったのだと気が付いたのは、一度それを手放し失ってからだった。
ぐんぐんと景色が後ろに流れていく。アルコルが翼をすぼめるようにして、グルグルと回転し始めた。遊んでるなセシル、とオスカーは笑う。
「俺らもやるか、コールサック」
笛を吹く。銀色の羽根が輝き、世界の上下が変わる。腹からおかしい。楽しい。快い。今自分たちは全力で空を遊んでいる。
抜きつ抜かれつしながら飛んで飛んで、目指す森の上に到着した。
普段なら緑一色の木々が鮮やかに桃色に色づいて、優しく目に染みる。
「きれいだなセシル!」
「はい!」
ゆっくりと、舐めるように旋回した後地に降り立った。桃色の煙に包まれているような光景だ。花見の穴場だと思うが、ここに来るためには険しい山の岩壁を越えなければいけない。地を歩むのならば。
「わぁ……」
セシルが上を見上げ花に見入っている。風に舞う桃色のそれがセシルの蜂蜜色の髪を彩る。
セシルの頬も桃色に染まっている。きれいなものが好きなところは、やっぱり女の子なんだなと思った。
「オスカーさん」
「……」
「オスカーさん!」
「おう。どうした」
キラキラした水色の目がオスカーを見た。
「見つけました」
「何を?」
満面の笑み。細い指が指さした先をオスカーは見た。花に紛れて立つ花のない木に、何か赤いものがついている。
「……パロンか」
「はい!」
頬を染めてやっぱり満面の笑み。ああ、セシルは花より団子、団子よりランフォルなのだ。やっぱり。
「ずいぶん高いところに生るんですね」
「空気の薄さによって変わるって聞いたぞ。これじゃ俺でも届かないな」
じっとセシルがオスカーを見上げた。
「これを見過ごしたら死んでも死に切れません。肩車してください」
「子どもか」
「絶対持って帰りたい! 肩車! 肩車!」
「子どもか」
仕方ないと、両足を開いてスタンバイしているセシルを持ち上げてやった。
「高い高ーい!」
「軽いなあお前」
「オスカーさんの首のために、がんばりました!」
「そりゃどうも」
セシルの足を抱えながら、オスカーは花を見つつ、セシルの体重移動に付き合ってやる。どうやらすごい勢いでパロンを布の袋に入れているようだ。
「もういいか」
「あとちょっと。がんばれオスカーさんの首」
「はいよ」
そうしてセシルを下ろし、袋を覗き込む。
「欲深いなセシル」
「届くのは全部とりました! 二人にあげていいですか?」
「まあ、遠出してるしな。少しなら」
利口に待っていた二羽にセシルがパロンの実を食べさせてやっている。本当に心から嬉しそうに、頬を染め、満面の笑みで。
花には悪いが遠出のかいがあったというものだろう。こんなに嬉しそうなら。
「オスカーさんもどうぞ」
「……」
酸っぱいが人間も食べられる。ランフォルたちにするように口に入れようとしてきたので仕方なく口を開けた。酸っぱい。
オスカーにそれを与えた後自分でも一つ食べ、酸っぱそうな顔をしているので笑う。
「酸っぱいな」
「はい。酸っぱいですね」
温かな風。明るい光。舞い落ちる、美しい花びら。
隣には小さいけれど優秀な飼育員と、愛情いっぱいに育てられた、美しいランフォルたち。
風を頬に感じ花の甘い香りを吸い込みながら、ああ、ここに帰って良かったと、オスカーは今、初めて腹の底からそう思った。
迷わなかったわけじゃない。責任感に押しつぶされそうで、苦しくなかったわけじゃない。寝られない日も、胃が痛くて吐き気がする日もあった。でもいい。歩むのは、飛ぶのは、この景色を見られるこの道で、きっと間違っていない。
「セシル」
「はい」
「ありがとな」
「そんなに美味しかったですか?」
セシルが笑う。降り落ちる桃色の花びらの中で。
ふとその髪についた花びらを取るために指を伸ばしそうになって止めた。なんだか何かが変わってしまいそうな予感がして。
「……セシル」
「はい」
「帰ろうか」
「はい。ありがとうございました」
いっぱいのパロンの実を背負ったセシルがアルコルに跨る。
二人は抜きつ抜かれつ、時折交差しながら飛んで、自分たちの牧場に戻った。