7 ため息と虹
アデリナは庭の掃除をしている。春だ。どこからともなく飛んできた花弁が舞っている。
「あら」
ふとそこに影がかかったので見上げた。目じりを下げ微笑む。
青い空を大きな鳥が滑空している。勇ましく羽を広げ、悠々と世界を見下ろしながら。
四羽だ。時折じゃれ合うように交差しながら飛ぶその楽しそうな様子に、若者たちの朝のデートだわと、見ているほうが嬉しくなる。
先日は勘違いしてしまったが、あのセシルちゃんという可愛い子はランフォルの飼育員らしい。女の子で、小さくて細いのに大丈夫かしらと思っていたが、彼女はいつ見ても鳥たちとも睦まじい様子で、鳥たちと遊ぶように楽しそうに訓練をしている。
保護者のようにそれを見守るオスカーの目には優しさが溢れ、セシルはセシルですっかりオスカーを信用している様子だ。本当に、お父さんのように。
お父さんじゃダメなのよオスカー君と、それを見るたびにいつもアデリナは思っている。
ここポスケッタはのどかな町だ。牛や馬、羊を飼っている人がいて、野菜や麦を育てている人がいて、山があり湖がある、これといった名産も名物もないけれど、穏やかで静かな場所。
そこにオークランスの牧場は昔からずっとある。代によって育てている鳥の数は違ったようだが、ずっとあるのに変わりはない。
あの大きい鳥はいろんなものをたくさん食べるので、オークランスに野菜や肉を卸している人たちがたくさんいる。脚が悪くてもう農業をできなくなったお年寄り、家が貧乏で働かざるを得ないまだ年端の行かない子どもを、細かい仕事の作業員として受け入れている。町の外から買い付けに訪れた人が町の宿屋に泊まり、町の食堂でご飯を食べてくれる。
先日の疫病で、オークランスは大打撃を受けた。アデリナも仲が良かったルイス、夫のバジルが病に侵され、ようやく牧場を継いだ長男が、その薬を求め飛び立った先で命を落とした。
町を出て立派に軍の仕事をしていたオスカーは、冷静に葬式の喪主を務めたが、実際のところ憔悴しきっているのは明らかだった。愛した家族を一度に失い、兄に譲ることで一度は諦めた家の仕事とランフォルだけが残った。努力によって得たものを手放し、改めて家を一人で背負い直すと決めた若者の張り詰めたような決意の痛々しさに、アデリナはなんと声をかけたらいいものかと悩んだものだった。
幸い彼は家の仕事を飲み込んでいて頭脳も優秀だし、昔からの使用人もいる。まったくのゼロからのスタートでもない。でも、きっと寂しいだろうと思った。それを弱音や愚痴で言える子じゃないから、余計に心配だった。
そう思っているところに、彼の横に可愛い女の子が寄り添っていたときのアデリナの喜びは仕方がないだろう。あれは本当に嬉しかった。
だがしかし進展がない様子なのはいただけない。どう見ても二人は『良好な関係の上司と部下』、あるいは少年同士がじゃれあっているような、いつ見ても実に健康的な様子だ。
「それじゃいけないのよオスカー君! 若者はもっとただれなさい!」
「また言ってるのかアデリナ。馬に蹴られるからやめておけ」
「邪魔してないわむしろ育もうとしてます。全力で!」
「やめとけ。好いた惚れたなんて、外野が何言ったところでなるようにしかならん」
ふああと夫があくびをした。夫は大工をしている。もう仕事に行くのだろう。
「行ってらっしゃい。夜は早い?」
「いつも通りだ」
「そう。気を付けて」
そっと夫を見送った。アデリナには子がいない。欲しかったが、できなかった。
家にぽつんといるからこんなにあれこれ考えてしまうのかもしれないと反省しながら、新しいベッドカバーの続きに取り掛かる。
今日もいい天気になりそうだと、もうあの姿のない青い空を見上げている。
◇ ◇ ◇
水の出る管を、セシルは掲げている。
ランフォルたちが、それを並んでじっと見ている。
「どうだ?」
「まだ出ません」
「わかった」
遠くの井戸の前で、ぎゅっこんぎゅっこんとオスカーがポンプの取手を動かしている。
やがてその先から、しゃわわわとシャワー状になった水が噴き出した。
どうかな? とわくわくしながらランフォルたちを見ると、コールサック以外の三羽が進み出て、楽しそうにその水を浴び出した。
水を好きな子もいればそうでもない子もいる。うんうんとセシルは頷く。
「どうだ?」
「コールサック以外は好きみたいです」
一度通ってしまえばあとはずっと出るのだろう。歩み寄ってきたオスカーをセシルは見た。
相変わらず、少し老けているがいい顔をしている。
ここに来て二月経った。相変わらずランフォルはみんないい子で、可愛くて、かっこよくて、ご飯が美味しくて、温泉があったかくて、雇い主が優しい。セシルは毎日が最高に楽しい。
「わあい虹が出た」
「ホントだな」
オスカーがさわやかな顔で笑う。皆が楽しそうで、コールサックが少しだけバツが悪そうだ。
「少し交代してもらってもいいですか?」
「ああ」
オスカーに管を渡し、セシルはコールサックに歩み寄って腕を伸ばす。
「何も気にすることじゃないよコールサック。気持ちいいことはみんな違うんだ。今日もかっこいい。綺麗な羽根だねコールサック」
抱きつき、首を撫でれば気持ちよさそうに目を細めた。可愛いな、大好きだなと思う。
ぐいぐいと体を押し付けられ、セシルは笑った。一見ツンとして見えるコールサックが意外と愛情深いことに、セシルはもう気づいている。
「あっこらネルケ! それは噛むな!」
「ん?」
そんな声に顔を上げれば、びしゃあっと水が降って来た。ネルケが管を嚙み千切ってしまったらしい。ばしゃばしゃと水をまき散らしながら、管が暴れている。
「そっち押さえろセシル!」
「逃げます! 生きてますこの管!」
「生きてない生きてない! ああもう踏め!」
「はい!」
びしゃびしゃになってはあはあ言いながら足で押さえた。何か楽しそうだなと思ったのかもしれない。フラーゴラがそれをつんつんする。穴が開く。止まっていた分、爆発的に水が出る。オスカーも派手に濡れる。虹がきれいだ。
「ダメだこれ生きてる! 元だ! 元を断ちましょう!」
セシル、井戸に向かって猛ダッシュ。すぽんと刺さっている管を抜いた。
はあはあ言いながらみんなのところに戻る。全員びしょびしょ、濡れたコールサックが何かショックを受けたような顔をしている。
ぽたぽた水を落としているオスカーを見て、セシルは笑ってしまった。
「ぶっ……」
「こういうときは、水も滴るいい男ですねって言うんだセシル」
比較的濡れていない中のシャツを引き出して顔を拭っているせいで、見事に割れたおなかが日のもとにさらされている。
「はい。水も滴るいい男ですねオスカーさん」
二人とも固めの生地の上着を脱ぎ、絞る。暖かいから、逆に気持ちいい。
「一度着替えるか。丁度昼飯の時間だ」
「おなか減りましたね。今日はなんだろうな」
「だいたい二回りしたな。今までので何が好きだ?」
「うわあ選べない! ええと、揚げたお肉がリーソの上にのってるの好きです」
「ああ。あれは美味い」
「リーソにちょっと辛いシチューかけたみたいのも! あれは飲み物ですよね。いっそのことあれの上に揚げたお肉乗せてくれたらいいなって思います。衣に絡んで絶対に美味しい!」
「すんごい名案だぞそれ。今度ゼフ爺に言ってくれ絶対名案だどう考えても美味い」
「よだれ出てますよオスカーさん。すぐ言います! おなか減ったなあ!」
二人びしゃびしゃになって雫の痕を地面につけながら、楽しく食堂に向かって歩いている。