31 赤と約束
オークランスの屋敷は静かだった。
そっと中に入る。ニコルの姿は見当たらない。ランフォルの世話、あるいは夜通しの看病に疲れてどこかで眠っているのかもしれない。
水を汲み、いつかお祭りで当てたコップを持って走る。部屋の扉を開ける。
オスカーは寝ていた。まだ額に若干の発疹が残っている。水の中に薬を入れ、混ぜてから飲ませようとして、どうしようかと思う。相手は寝ているのだ。大事な薬が、このままじゃ顔にバシャーで終わる。
「……不可抗力ですよ」
言い訳してからセシルは薬を口に含み、オスカーの唇にそれを重ね薬を流し込んだ。零してはいけないから少しずつ、何度も何度もそうした。ランフォルの親子みたいだなと思う。
ようやく全ての薬を飲ませ、じっと顔を見る。すぐに効く薬だと言っていたけど、見た目からはあんまりわからない。
最後に、発疹の消えた頬に、そっと唇を当てた。今回セシルは結構がんばったし、思い出としてそれくらいはもらってもいいかなと思ったから。
立ち上がる。この屋敷に来たときに持って来た鞄を取り出し、私物を詰める。私物と言ったってそんなに量はない。最低限の服くらいだ。それに、お誕生日にみんなにもらったプレゼント。水色の石、もったいなくて使えなかった黒色の羽根ペンを、そっと撫でてから鞄にしまった。
へとへとで傷だらけなので最後に温泉に入りたかったけどそんな時間はないだろう。ランフォルたちに挨拶もしたかった。町のみんなにもだ。
だが、そんな時間はない。セシルは早くここから消えなくてはいけない。
セシルは改めて、気付いてしまった。自分の異質さに。セシルはもう自分が人間なのかさえわからない。
後半はもう、ランフォルになってアルコルと一緒に飛んでいるような気さえした。どちらに行けば彼が快く、次に彼の体のどこが動くのかが手に取るようにわかるような気がした。
景色は思っていた以上に遠くまで見えた。昼間のように。やはり自分は、おかしいのだ。このままここにいたら、セシルがおかしなもの、忌まれる種族の血を継ぐことがきっといつかオスカー以外の誰かにバレるだろう。
そのとき、傷つくのはセシルでない。育てたランフォルの名前の横に、セシルの名を入れてくれる優しい牧場主とその牧場の名だ。そしてそこで育てられたランフォルたちの名誉だ。おかしな飼育員を雇っていた牧場。それに育てられたランフォル。オスカーが必死で背負い、守ったものたち。
玄関の扉に手をかけた。ここを、引けばいいだけ。そうすれば一生、オスカーに迷惑はかからない。
手が震える。ぼたぼたと落ちたものが床に丸を描く。嗚咽を飲み込んで、セシルは必死にそこを引こうとした。
「お散歩か、セシル」
背中の後ろに少し掠れた声が掛かった。セシルは振り向かない。
「……はい。ちょっと、気分転換に」
「でかい荷物持って?」
「腕の訓練も兼ねて」
「へえ」
沈黙。
「……なんて言ったら、『散歩』に行かないでくれる。セシル」
「……」
「教えてくれ。……俺はもう、泣きながら薪を割るのは、二度と嫌なんだ」
ぼとぼとぼとと涙が落ちる。振り向けばオスカーだって同じ状況だろう。声が震えているから。
「……オスカーさんに、迷惑がかかる」
「かけろよ」
「また貧乏くじだ」
「引いたことない。俺はそのときに自分が一番好きなものを大事にしただけだ」
「……変な子が生まれるかも」
「そこまで考えてくれたか。話が早くて助かる。大丈夫だ育ててりゃどんな子もみんな可愛い」
「……オスカーさん」
「ん?」
セシルは俯いたまま振り向いた。
傷だらけになった腕を出す。
「なんかいっぱい飛んできて、痛かった」
「夜はそうなんだよ。痛かったな」
オスカーの手が伸び、ブルブル震えているセシルの腕を取る。
「……怖かった。失敗したら、死んだら、みんなが死んじゃうって、ずっと怖かった」
「うん。頑張ったな」
「オスカーさん」
「なんだ」
「……私、もう、一人でごはん食べるの、嫌だぁ……」
どさりと荷物を落とし、声を上げておいおい泣き出したセシルを、オスカーが引き寄せ腕に抱いた。その背中をセシルはポコポコ叩く。
「一人で平気だったのに。ずっと大丈夫だったのに。全部、みんな、オスカーさんのせいなんですよ」
「そうか。なら責任取る。一緒に食おう。オークランスは飯がうまい」
叩くのをやめ、しがみついて泣く。セシルはもうこのあたたかいものを知ってしまった。どうやったらあの扉を開いて一人になれるのか忘れてしまった。
オスカーには本当に申し訳ないと思うけど、とんでもない特大の貧乏くじだけど、セシルはどうしても、ここにいたい。
大きい手が背中を撫でる。優しく、あたたかく。
「ここにいてくれ。泣きたいときは、ここで泣いてくれ。頼むよ、セシル」
うええええんと声を上げる。明るい光が差し込んで、二人の姿を照らしている。
アランは走っている。オークランスの広い庭を。
ヘレナはみるみるうちに回復した。目覚めて一番に気にしたことはやはりおなかの子のことで、産婆さんに来て見てもらった。元気に動いているし、問題ないだろうとのことだった。
勝手知ったるオスカーの家。勝手に玄関を開けてオスカーの部屋に向かったアランは、ドアの前に少年が立っていることに気付いた。ニコルだ。
「ニコル、オスカーは」
振り向いた子どもが、唇の前に指を立てている。
扉の隙間から、アランはそっと中をのぞき込んだ。
大きなソファの上。オスカーとセシルが互いにもたれ掛かりながら、穏やかな顔ですうすうと眠っている。
「……」
「……」
無言のハイタッチ。男に言葉はいらないのだ。
あの後、コールサックはあの日決めた通り、アーベントロート牧場に買い取られていった。
アーベントロート牧場の飼育員が一週間ほどオークランスに泊まり込みで、コールサックに自分が敵ではないことを教え、オスカーとその人の二人乗りで アーベントロートの牧場へ飛び、帰りはアルコルに、セシルとオスカーで乗って帰った。
広くてきれいで、ごはんが上等。どこもかしこもお金のかかってそうな牧場だった。それが見た目だけの張りぼてではないのは、飼育員たちのきびきびとした動き、的確な声がけでわかった。目つき、手つきから、ランフォルへの愛情も。ここなら大丈夫だと、セシルはほっとした。
別れるとき、コールサックは珍しくセシルに甘えた。セシルは何度も何度もその首に抱きつき、体を撫でた。離れがたくて、別れがたくて、どれほど『やっぱりおうちに連れて帰ります』と言いたかったかわからない。『こんなに涙を誘う別れは久しぶりに見た』と、涙もろいらしい牧場主がおいおい泣いていた。
振り向き、振り向きしながらオスカーの背中につかまっていた。涙が空に舞っていた。
買い取られたランフォルが『育て』の牧場に戻り、粘り強く同じことを何度も繰り返さなければならないこともあるが、コールサックは一度も戻らなかった。そう。コールサックは賢く、誇り高い。
ニコルは最近一人で飛べる距離が増えた。目をキラキラさせてネルケやレアンの背中に跨るニコルの金具はいつもきっちりと固く留められていて、降りた後はランフォルの体の確認を忘れない。
それを見て『オークランスの飼育員になったな』と目を細めるアブラハムに、セシルは自分が一度金具を留め忘れたことがあることをまだ言えていない。
今年の卵探しはセシル、オスカー、ニコルで行った。ランフォルはネルケ、フラーゴラ、ノワ。
ひびのない卵を四つ見つけて、まだかなまだかなとみんなで待つのは楽しかった。今はもう、全部、ほわほわのクァクァクァクァに変わっている。毎日大変だ。
なんと薬師所の支店が、これから国中に作られるらしい。
ポスケッタから一番近いところは馬で往復一日の距離。これまでの十分の一、ランフォルならすぐの距離だ。
ポスケッタの温泉施設も造られることになった。『死にかけたらチャレンジしてみたくなった』と、今はおじいさんたちのほうが若者たちより張り切っている。
「セシル」
「はい」
今日は花まつり。今年セシルは自分用に作ってもらった、青いポルチャを着ている。もちろんポスケッタの青だ。
隣を歩く背の高い人をセシルは見上げる。去年よりも間の距離が、一歩近い。
「似合ってる」
「ありがとうございます」
「セシル」
「はい」
「フォルトナを贈る。挿すから、目、閉じてくれ」
「はい」
止まって、素直に目を閉じた。耳元がくすぐったい。
「いいぞ」
そっと目を開ける。視界の端に、赤が揺れる。セシルがかつて、大嫌いになった色。
「……」
セシルは笑う。顔が勝手にそうなってしまうのだから仕方ない。
「私も」
セシルが差し出し、受け取られた赤いフォルトナが、オスカーの胸ポケットで揺れる。
オスカーの手がセシルの手を取った。なんだろうと思って見ていたら、オスカーが指輪を取り出した。
「結婚してくれ」
「……よくよく考えましたか。本っ当に、それで後悔しませんか」
「そんな返事があるか」
オスカーが笑う。苦労性でよく貧乏くじを引く、優しい人。セシルの大事な人。
きっともうこれはオスカーさんの業だ。ならしょうがない。セシルは貧乏くじを代表して、素直に引かれようと思う。
きっと肩が重くないと歩いた気がしない人なのだ。この人は。
オスカーがセシルを見て、じっと答えを待っている。
「確認していいですか」
「何なりと」
「オークランスに、ランフォルはいますか」
「ああいる。また増えた。みんないいランフォルでお世話し放題」
「温泉は?」
「ある。入り放題」
「美味しいごはんは」
「ある。おかわり自由」
「……」
「ちなみに俺もいる。ずっとな」
「じゃあ、いいですよ」
「よし」
笑う。指に指輪を通され、手をつないで歩く。
道の向こうからアランが走ってくるのが見える。その後ろでヘレナが赤ちゃんをおんぶしている。
「絶対バシバシ背中叩かれますよ、オスカーさん」
「まあ、許してやろう。あいつときどき役に立つからな」
今日は花まつり。
ポスケッタの町に、さまざまな色の花びらが舞っている。
鳥を育てた。恋をした。~飼育員セシルのぽかぽか牧場日誌~ Fin.
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