30 黒色に飛ぶ3
アルコルに跨り、よし、とセシルは笛を吹いた。アルコルは飛ばない。
やっぱり夜だからだろうかと思ってからセシルは、自分が腰の金具を付けていないことに気が付いた。
「……嘘だ……」
十の頃から毎日やっていたことを、初めて忘れた。顔が赤いのが自分でもわかる。
恥ずかしい。ランフォル乗りとしての基本中の基本。息をするようにできるはずのことだった。
だがいつまでも恥ずがしがってはいられない。座り直し、締める。引っ張って念入りに確認する。大丈夫。
ありがとう、とアルコルを撫でる。アルコルが気付いてくれなかったら、セシルはどうなっていたかわからない。オスカーも、ポスケッタの町の人も。
そこまで考えて、ゾクリとした。今自分の肩に乗っているものの、あまりの重さにだ。
セシルがオスカーに生きてほしいと願う気持ち。この何人分、何十人分、いや何百人分が乗っている。どうか愛する人に薬を。一秒でも早くと。
失敗できない。セシルが死ねば、何人の人が死ぬことになるのかわからない。
ぶるぶると腕が震えた。怖い。飛ぶ前に、セシルは初めて、そう思った。
それでもセシルは笛を吹いた。どうしても、手放したくないものがセシルにもあるからだ。
恐れを知らぬように羽根が広がり、一直線に空を縦に切り裂き飛び上がった。
おなかがぞくぞくする。それなのにこんなときでさえワクワクする。やっぱりこの瞬間が、セシルは好きだ。
星が瞬いている。誰かに守られているような気になる。
山が右手、森が左手。前に湖。大丈夫、ちゃんと見える。
見えすぎるこの目は、普通の人には何が見えないのかをセシルに教えてくれなかった。一つ、一つ祖父母と確認し、なるべくぼろを出さないよう、普通の人間のふりができるよう、セシルは頑張った。
見えることが嬉しくなかった。セシルが異端であることを、親に捨てられた子であることを、セシルに思い知らせ続ける嫌な目だった。
それが、今日、役に立つ。それならばセシルは、この目に生まれてよかった。今日まで生きていてよかった。
オスカーと見たあの日の地図を思い出す。目印を確認しながら、正確に進む。恐れずに進むアルコルを見ながら思った。セシルは今ランフォルと同じものを見ているのかもしれないと。
セシルとはなんなのだろう。人か、トゥランか、ランフォルか。あるいはそのいずれでもないのだろうか。
暗い空をたった一人。否、アルコルと飛んでいる。セシルの周りは全部黒ばかりだ。
「痛っ」
何かが顔に当たった。たらっとなんか流れたので多分切れた。カブトムシだったら痛いぞと思う。待ってほしいクワガタだったら突き刺さるんじゃないだろうか。怖い。
勢いよく飛ぶうちに、自分の地図上の最短距離の線に乗っていると気づきハッとする。軌道をオスカーの道に修正した瞬間に、さっきまで行こうとしていた道に、下から何かが吹き上がったのをセシルは見た。
「……底なし沼、伝説じゃなかったですよオスカーさん」
ぽそりと呟く。背筋が寒い。
急ぎすぎるな、急ぎすぎるなと自分に言い聞かせながら笛を吹く。アルコルの冷静さが、熱くなりそうなセシルを冷静なほうへ引っ張ってくれるのがありがたい。
飛んで、飛んで、飛んで、いつかの山の上にセシルは降り立った。洞窟に、アルコルと共に進む。
火を熾し、その光の中でアルコルの体を入念に確認する。
「ありがとう。どこも痛くない?」
ググルゥと鳴いたのち、アルコルが優しくくちばしでセシルの額を突いた。
「あ、そうだ痛いんだった。思い出させてくれてありがとうアルコル」
もう血は乾いただろう。ゴーグルに血が垂れたら困るけど、そういうわけでもないのでセシルはほっとくことにした。
アルコルにごはんを食べてもらい、気持ちいい場所に座ってもらう。虫よけの香と、こよりで下げたコイン。
「……」
頭を下げてからパンをもぐもぐとただかじり、食べ終わって布を広げ横になった。不意に何かに引かれたようにふと見れば、洞窟の出口の近くに石の山があった。平たい石が、崩れたように集まっている。
「うっ……」
ただただ楽しくて、あたたかくて、明るかった。そういう日が、あそこで確かにあった。
目を閉じればちらつく。最後に見たオスカーの顔。
もう発疹が消えてしまっているかもしれない。
もう、息をしていないかもしれない。
考えるな、考えるなと、自分に言い聞かせ、丸くなって目を閉じる。
「休憩するのも仕事」
目を閉じる。何も考えるなと言い聞かせる。
涙が落ちる。荒くなる息を飲み込む。ダメだ。大きな声で叫びたい。
のしりと何かが近づいた。ググルゥと巻くように鳴く。
「……アルコル」
その体を反射的に撫で、ぽすんとうずまった。
うわああああああとセシルは泣いた。セシルの声が洞窟にわんわんとこだまする。
悔しい。無性に悔しい。なんであの町のみんなばっかり、何度もこんな目に合わなきゃいけない。失って、悲しんで、それでも生きようと、みんなが頑張っていたのに。
そして怖い。一人なのがすごく怖い。背中に背負ったものが重すぎて、押しつぶされそうだ。
今、本当に休憩していいのだろうか。ここで時間を取ったせいで、誰かが死ぬかもしれない。それがオスカーかも、ヘレナかも、そのお腹の子かも、ピオの家族かもしれない。セシルには本当にこれでいいのかわからない。飛ぶのが怖くて、不安で仕方がない。
泣いて泣いて、目と鼻が痛くなって、体の位置を変える。鼻が詰まって息ができない。
「ごめんね、うるさかったね」
ググルゥ、とアルコルが答える。いいよ、と言ってくれたということにする。
『休憩するのも仕事』。誰かの声を信じ目を閉じた。すうとあたりが暗くなった。
◇ ◇ ◇
「ふう」
中央薬師所。
備え付けのベッドで短い眠りを終え、まだ日の昇らない真っ暗な外を見てから茶を入れ、所長アーダルベルト=ハーゲンはランプの明かりの中、各地から届いた要望書に目を通していた。
毎日あっちからこっちから、あれが欲しいこれが欲しいと、矢のような催促だ。
まったくこれを実現するのに、いったいどれだけの金と人員が必要か、考えたことがあるやつがこの中にいるだろうかと頭が痛くなる。
日々の業務でさえ回すばかりで手一杯なのに、実に頭が痛い。だいたいこんなものは自分たちではなくお上が考えるべきことだろう。何故自分たちに回すのだ。回すならばそれ相応の予算と人出を併せて回してもらわねば何もできんわと歯嚙みする。
どれも小さな町や村、集落からの要望だ。お偉いさん、権力者の大きな声は命令という形で問答無用で降りるのに、小さな声はこうして『一応は薬師所に回してある』という体だけとって永遠に箱の中だ。アーダルベルトも一応は目を通しているものの優先してやるべきことが多すぎて、それらはこの部屋に吹き溜まったまま片づけられないかさかさの落葉のように折り重なっている。
アーダルベルトだってこれらを燃やすほど人でなしではないが、ただこうしているのは燃やすのと何が違うのだろうと、ときどき思わないでもない。
「所長!」
「なんだこんな時間に騒がしい。何が爆発した」
「していません! ランフォルが来ました!」
「馬鹿を言うなまだ日も昇ってないではないか。こんな時間に飛べるランフォルがいるものか」
「それが飛んできたのです。しかも、ポスケッタからだというのですよ! 夜通し飛んだようで、乗り手が傷だらけなんで今治療中です」
「……」
信じられない思いでアーダルベルトは廊下を進んだ。庭で待つというのを中に通し、治療してソファで休ませたという。扉を開け、正面のソファに眠るものが持ち上げる布の薄さに、アーダルベルトは衝撃を受けた。
少女だ。布から覗く手首が折れそうに細い。長いまつげが折り合わさって震え、白い肌のあちこちに傷があり、薬が塗られている。
見つめるアーダルベルトの前で少女の眉がピクリと動き苦しげに寄り、閉じた瞳からつうと雫が落ちた。
「……所長」
「なんだ」
「その子の落とし物です。首から下げてたようですが、紐が切れてたみたいで」
「……」
受け取った小さな布の袋から、かしゃんと何かが落ちた。拾う。
「……髪飾り……?」
もう少し小さい女の子が喜ぶような、貝と石でできた素朴な髪飾りだった。
「……」
呆然とまたソファの少女を見る。
ポスケッタから、彼女は飛んだ。夜の空を、命を懸けて。
こんな華奢な少女が、こんな小さな、何かの思い出なのだろう素朴なものをお守り代わりにして握りしめて。
彼女が持って来たという書面に目を通す。内容は記憶にあるものだった。何年に一度のその偶然のためにそんな金がかけられるものかと思った自分を思い出す。
それはまた起きた。逃れ生き延び、なんとか生きていこうとしていた人々を、再びそれは襲った。だからこの少女は飛んだ。薬が欲しくて。誰かを助けたくて。傷だらけになって、町の命を背負って一人、命懸けで泣きながら。
アーダルベルトは眉間を押さえた。
「職員を起こして製薬に入れ。超特急だ。遅れるだけ人が死ぬから、この子は夜を飛んだのだ」
「……はい」
慌ただしく職員が走る。
苦しげに眠る少女をアーダルベルトは、老いた瞼を震わせて、じっと見ている。
朝を迎えたポスケッタの町は、静かだった。
夜のうちにオークランス牧場のセシルが中央に向かったと聞き、人々は複雑な思いを抱いた。同じことが過去にあり、それは大きな悲劇になったからだ。
もちろん建前を取っ払えば、飛んでくれるなら一秒でも早く飛んでほしいという思いが、患者の家族にはある。誰だって身内が大事だ。
だからと言ってそのために他人に死ねと言えるほど、この町の人間たちは悪ではない。できるなら無事に帰ってきてほしい。できるならほんの少しでも早く。
だが歴史あるオークランス牧場の長男にもできなかったことを、あの華奢な女の子にできるのだろうかと、皆、不安と期待、贄を捧げたかのような罪悪感の入り混じった気持ちで、空を見上げている。
ポスケッタ中央の広間に大きな丸が描いてある。町のちょうど真ん中なので、薬を降ろすならここでと、町長がセシルに伝えていた場所だ。セシルが戻ったら一斉に配達するために、馬をあっちからこっちからかき集めて用意してある。
じりじりと過ぎていく時間に俯き言葉もなく座り込んでいる人々の顔に、影がかかった。顔を上げる。太陽を遮る大きな羽根。
ポスケッタの人々は、他の地域の住人よりもランフォルを見慣れている。古くからオークランス牧場があり、日常的にその飛ぶ姿を目にしているからだ。
だからこそ彼らは思った。『野生のランフォルが人里に現れた』、と。
その黒いランフォルがあまりにも悠々と、あまりにも自然で自由であるように見えたためかもしれなかった。
「セシル!」
声を上げたのは野菜屋の小僧ピオだ。泣きながら両手を振り、ぴょんぴょんと跳ねている。
「セシル!」
声が上がる。家々の窓が開く。人々が天を見上げる。
風が起こり、丸の真ん中に黒が降り立った。漆黒のランフォルの背中に華奢な少女が跨っている。
「お待たせしました! 薬! 一匙を苦いから水で薄めて飲んでくださいだそうです! ハイお願いします! オークランスの分はもらっていきます!」
歩み寄った町長に袋を渡すが早いか、笛を口に当て彼女は飛び去った。一瞬あっけに取られたような空気のうち、わっと歓声を上げて人々が町長のもとへと走り寄る。




