29 黒色に飛ぶ2
「オスカーさん」
「ん……どうだったセシル。町」
「あっちもこっちも病人ばっかり、って、ピオが」
「……あいつ、家族は」
「お母さんと弟さんが罹ったそうです」
「そうか……」
見ているセシルの前で、オスカーの顔に、発疹がじわじわと昇っていく。
怒りが沸く。涙が止まらない。やっと元気になって、頑張って、楽しいことが増えてきたのに。どうしてこれはオスカーをしつこくいじめるのだと引っ搔いて引っぱたいてやりたい。それをやれば痛いのはオスカーだから我慢する。
セシルは今、心に決めたことがある。それはセシルがこの嫌な奴に対して投げられる、唯一の石だ。
手首を取られ、ハッとする。オスカーの手が、セシルの手首を握っている。
「ダメだ、セシル」
「……何も言ってません」
「飛ぶのは必ず、朝になってからだ。約束してくれ」
「……」
「セシル」
どうしようもない怒りと悲しみがセシルの中で渦を巻いている。
セシルはオスカーを見た。オスカーが目を見開く。
「セシル……」
「目、赤いですか」
「ああ。まるで……」
殺戮の民、トゥランのようだろう。ランフォルに関わる人なら、皆がその伝説を知っている。
「……私の母、すごい行動力のある人で、ずっと冒険者になりたくて、十四歳のとき家から一羽ランフォルをかっぱらって、家出したそうです。何年も経ってから急に戻ってきて、じいちゃんとばあちゃんに、赤ん坊を差し出したって。『私は今、霧の先、トゥランの里で暮らしてる。自分は好きでそこを選んだけれど、この子から人の世界で生きる可能性を奪えない』って。勝手ですよね何言ってるんだろう。どうせ、いらなかっただけに決まってる。自由な……勝手な人だから、子どもが邪魔で、いらなくて捨てたかっただけに決まってる!」
捨てられたランフォルの卵を見るたびにセシルは悲しくなる。どうして見放したのだ。愛し、包み、育ててくれなかったのだと。
セシルの涙をオスカーの指がすくった。手のひらには発疹が出ないんだなと、妙なことを思った。
「すいません。あと……『トゥランは殺戮の民じゃない。歴史に都合よく利用されただけ』『もしその子が人の世界に馴染めなかったなら、これを吹くように伝えて。迎えに来る』って、笛を一本」
「……吹いたのか」
セシルは首を振る。
「一度だけ、じいちゃんとばあちゃんが死んだとき考えました。でも、牧場に、ランフォルたちがいたから」
顔も知らない父母よりも、目の前のランフォルたちのほうがセシルには大事だった。
オスカーが笑った。
「またランフォルか」
「はい。……そんな感じの理由です。気持ちが高ぶるとこうなります。気持ち悪いですか」
「……いいや」
じっと青い目が、セシルを見る。
「うさぎみたいで可愛い」
セシルは笑った。また涙が落ちた。
「セシル」
「はい」
「……ちょっと抱き締めてもいいか。全身ぶつぶつで悪いが」
「……」
オスカーが上半身を起こしたので、慌てて支えようと手を伸ばす。
「……返事は?」
「どうぞ……」
「ありがとう」
ぎゅっと抱かれた。顔が熱い。いや、今まで肩を組んだり肩車だったり二人乗りだったりさんざんやってきたのだから何を今更だ。だが、やっぱり顔が熱い。
「セシル」
「……はい」
「頑張ったな」
「……」
「隠して生きるの、ずっと辛かったな。これまで、よく頑張ったな」
「……」
ぼろぼろぼろぼろ涙が溢れる。
人と違う自分が嫌だった。母親に捨てられた自分も。大好きな人たちを殺した自分も大嫌いだった。
ランフォルがいればいい、ランフォルだけが自分を受け入れてくれる。そう思って生きてきた。
なのに、あったかいなあと思う。人の腕、人の体、人の声って、あたたかい。
「だからって、トゥランの魔法が使えるわけじゃないです。本当ですよ」
「うん」
「ズルもしてません。不思議な力なんてありません。信じてください」
「うん。わかってる」
ぎゅっと腕に力がこもる。
「わかってるさ。ズルしてる奴に、あんな真っ黒な日誌は書けない。ランフォルに乗るのが上手いのも、ランフォルに好かれるのも、全部、ずっと、セシルがランフォルを好きで、一生懸命頑張ったからだ」
この人が好きだと、セシルは思った。
このまま朝まで腕の中にいられたら、どんなに幸せだろうと思う。
だが、セシルは飛べる。今ポスケッタで、いや全ての牧場の乗り手の中で、唯一セシルだけが。
「でも、この目、一つだけいいことがあるんです」
「なんだ?」
見上げたらびっくりするくらい顔が近かった。
胸が跳ねたのを感じたけれど、セシルはオスカーの腕を振り払い、身を離した。
「夜目が利きます。暗い部屋、ランプなしに字が書けるのがひそかな自慢です。昼と変わりありません」
「……行くな」
「いいえ行ってきます。大人しく寝て待っててください」
「セシル」
「必ず帰ります。コールサックの牧場、ゆっくり考えててください」
「セシル!」
逃げようとしたがぎりぎり手首を捕らえられた。真剣な青い目が、セシルを射貫く。
「俺はセシルにだけは死んでほしくない!」
びっくりして目を見開いた。くしゃりと彼の顔が歪む。
「……そうだ。俺は、優等生でも大した奴でも人格者でもない。ただ、惚れてる女にだけは死んでも死んでほしくないって、こんなときにそれだけを願ってるただの自分勝手な馬鹿男だ。頼むから、飛ぶのは朝になってからにしてくれ。夜の空は本当に危険なんだ。……頼む」
涙で前が見えない。こんな言葉を、この人にこんな顔で言ってもらえると想像したことすらない。
力で敵うわけがないので、ちゅ、とその手に口づけしてみた。びっくりしたようで離れた。ぴょんと跳ねて距離をとる。足には力が入らないらしい。
「セシル……」
「お互い様です。私だって、死ぬかもしれなくても、オスカーさんに、死んでほしくありません。だから飛びます。……最初の発疹、消えてますよ、オスカーさん」
オスカーが右手の甲を見る。真ん中だけ白い。セシルは泣きながら、微笑んだ。
「『町のために飛んでくれ』ってオスカーさんに言われたら、きっと私、飛べなかった。元気出ましたありがとうございます! もう一回、治ったら聞かせてください。行ってきます!」
それ以上聞いたら決意が鈍りそうだったから、慌てて扉を閉めた。自分の部屋に走る。
ポスケッタの雨は止んだが途中で降ってるかもしれない。着替えが何枚かいる。食料、水、炎を熾せるもの。地図。あれやこれやと鞄に詰めて、着替える。あの日の青い騎乗服にした。ポスケッタの青。
裾をひらめかせて外に出ると、人がいた。たいまつを持った、見たことがある人たち。町長と町の人数名だ。その中にアランがいた。
アランがセシルの前に立った。騎乗服を纏い荷物を持つセシルの頭の先から、爪先まで見て、がばと地面に座り頭を地に擦りつけた。雨でぬかるんだ泥が跳ねる。
「アランさん!?」
「……俺は、飛ぶなと、……セシルに言わなきゃいけないんだ」
「アランさん……」
「『飛ぶなセシル』って言わなきゃいけない。オスカーの代わりに、そう言わなきゃいけないんだ。……なのに……すまん、セシル」
震えるたくましい肩。あのアランがこうなる理由を、セシルは一つしか思いつかない。
あの日揃って揺れていた、赤いフォルトナの花が脳裏に蘇る。
「……ヘレナさんも?」
「……もう、発疹が消えてきた。……もうすぐ、予定日なのに……ちくしょう……」
アランの逞しい右腕が地を打ち、力なく垂れる。
「すまん……すまん……セシル。俺たちはいつもこうだ。いつもいつも最後はオークランスに頼って。責任全部押し付けて。いつも、いつもいつもいつも!」
セシルはしゃがみ、アランの震える肩をぽんと叩いた。
「アランさんのお野菜は美味しい。アランさんはお野菜作るのが上手いから、お野菜を作る。いっしょだよ。オークランスは飛べるから飛ぶ。アランさんだって自分が飛べるならきっと今、飛んだよ。……やることを、必要なときに、できる人が、やるだけだよ」
「……」
「私は飛ぶ。だって、私は飛べる。……それしかできないから。だから、飛ぶね」
町長が紙をセシルに差し出した。
「今のポスケッタの情報を書き出した。薬代の請求先もだ。印は押してある。渡せばわかる」
「わかりました」
「……すまない」
「いいえ」
「セシルさん!」
そこに、少年の声がした。ニコルが走って来た。
「ニコル、大丈夫?」
「はい。運がいいことに家族もです。患者さんを集めたところで手伝いしてます。お前はオークランスに行けって母が。これまでオークランスにもらい続けたたくさんのご恩を、今少しでも返せって。どうか俺に、オスカーさんとランフォルのお世話させてください」
「……ありがとう」
ぎゅっとニコルを抱き締めた。身を固くしたものの嫌がられはせず、ぽんと背中を叩かれる。
「……朝まで、どうしても待てないんですか?」
「うん。……オスカーさんの発疹が、消えてきちゃったから」
「……そうですか」
遠慮がちに、それでもぎゅっと抱かれた。
「気を付けてください。……こんなことしか言えなくて、役に立てなくて、すいません」
「ううん。来てくれて嬉しい。ニコルなら任せられる。ありがとう。みんなをお願い」
「……はい」
皆と別れ、セシルは牧場に走る。
誰に頼むか、迷うまでもなかった。
まるで呼ばれたかのように、一羽の黒いランフォルが、厩の中から出てきた。
立派になった。優しいのは初めからだった。
首を撫でる。髪を食まれる。
「……行ってくれる?」
ググルゥ、ググルゥ、と優しく鳴く。いいよ、と言ってるみたいに。
「アルコル」
ググルゥ、ググルゥの声を聞きながら、ぎゅっと抱き締める。




