27 窓
らんらんらん、と歌いながら、アデリナは夕飯用のスープを混ぜている。
オスカーとセシルが一昨日コンクールから帰ってきたらしい。
なんと二泊したそうだ。二泊だ。若い男女が。
毎日同じ場所で寝起きしてるんだから普段と変わりないではないかと言われてしまえばおしまいだが、やはり開放感が違うだろう。さすがにそろそろ進展があってもいいだろうとアデリナは睨んでいたので、実に嬉しいイベントだった。
あとで何か口実を作って遊びに行かなくっちゃと思っていたところに、ノックの音がした。
「はあい?」
開けると、女の子が立っていた。華奢な体、白く滑らかな肌に、蜂蜜色の短い髪の、目が大きくてまつ毛の長い、ほっぺたピンクの可愛い女の子。
「あらやだセシルちゃん、いらっしゃい!」
勢いよくそう言ってから、アデリナは彼女の表情に気付いた。
眉を寄せ、唇を引き結び耐えている。それでも、涙が頬を伝っている。
「……」
ああ、とアデリナは思った。
窓は、開いたのだ。
静かにその背を、ぽんぽんと叩いた。
「入ってちょうだい。美味しいお茶をいただいたから、いっしょに飲みましょう」
「……」
ぱたんと扉が閉まった。
コンクールから帰って二日。セシルは戸惑っていた。
何かがおかしい。普段通り起きて、食べて、ランフォルたちの世話をすることはできている。なのにオスカーにだけ、今まで通りに接することができないのだ。
ちょこちょこ変だなと思うことはあったが、決定的なのはネルケの二人乗りの訓練だった。前に座ったオスカーの広い背中に、セシルはどうしても、抱きつくことができなかった。
ニコルのための、ネルケのための、大切な訓練だったのに。
混乱しているセシルに、きっとコンクールの疲れがあるんだろうと皆が言った。今日は早めに上がって休んだほうがいいと。
役に立てないのならそこにいても邪魔なだけなので、とぼとぼとセシルは屋敷に戻った。それでも何か役に立ちたくて厨房に行ったら、アデリナさんへのお使いものがあると聞いたのでお使いを引き受けた。他に相談できる人に、思い当たらなかった。
それでもアデリナさんの明るい顔を見たら何も言えなくなった。なんだか自分の今の状態がすごく馬鹿みたいで、とても恥ずかしいような気がして。
お茶と焼き菓子がテーブルのお皿の上にのっている。いつもならぱくぱく食べるだろう自分の指がそこに伸びないことに、セシルはやっぱり戸惑っている。
「コンクールは楽しかった? セシルちゃん」
「はい。楽しかったです。とっても。コールサックがすごくかっこよかったです」
「ふうん。『コールサック』だけ?」
「……」
「かっこよかったのはランフォルだけ? セシルちゃん」
「……」
何を言ったらいいのかわからない。自分でなんにもわかってないからだ。
セシルが答えないので、しばし沈黙が落ちた。アデリナがティーカップを持ち上げて口に運び、置いた。
「嫌なことや、怖いことはなかった?」
問われて動揺した。たくさんあったからだ。でもそれらはやっぱりばらばらで、ぐちゃぐちゃだ。
言ってもいいのかなとアデリナを見れば、焼き菓子を口に運び、あら美味しいわセシルちゃんも食べてと勧めてくる。
おずおずと一つ口に運ぶ。本当だ。美味しい。
甘いものが、少しだけセシルの口を滑らかにした。
「……急に、可愛い服を着た子が、羨ましくなったのが、嫌でした。今までそんなの、全然いらなかったのに」
「そう」
「今までできてたことが、できなくなるのも嫌です。ランフォルがいればそれでよかったのに、そうじゃなくなるのも嫌だ」
「そうなのね」
ぽろぽろと涙が落ちた。
「……ちゃんと一人で、生きられたのに。ちゃんと幸せだったのに。そうじゃなくなるのが嫌だ……」
「ええ」
「……変わっちゃうのが、自分が弱くなるのが、欲しいものが増えるのが全部、こわい……」
「……」
目をぎゅっとつぶってセシルは泣いた。いきなり押しかけられて、こんな支離滅裂なことを言われるアデリナは迷惑だろうと思うのだが、止まらない。
やわらかな手のひらがセシルの背中をさする。優しい。
それ以上続けないセシルを、アデリナの手は優しく撫で続けた。
「私も、少しだけ、怖いものの話をしていい? セシルちゃん」
「……はい」
セシルはアデリナを見た。笑っている。
「昔、若い女の髪結いがいたわ。あんまり家庭に恵まれず、早くに家を出て、早く腕を上げたくて必死で働いて心が疲れているうち、変な男に引っかかっちゃった。初めての男だったから入れ込んで、貢いで、いつの間にか借金だらけ。髪結いの仕事じゃ返しきれなくなって、夜の仕事も始めて、そのうち夜が中心になって、ついに夢だったはずの櫛を置いたわ。必死で働いて貢いで世話している彼女を、彼は容赦なく殴るの。これっぽっちじゃ博打の元手が足りない、もっと稼いで来いって。酒が足りないって。お前が立てる音がうるさいって。目つきが気に入らないって。殴ったあとは必ず猫なで声で、ごめん、愛してるって彼女に囁くの。一度派手におなかを殴られたあとぐんぐん痛くなって血が出ても、彼は丸まって唸っている彼女をほったらかして飲みに行った。彼女が稼いだ金を握りしめて」
「……」
「私は彼を愛してる。私は彼にちゃんと愛されてるから大丈夫。彼は本当は優しい人なんだもの。私しか彼を理解できないのだものと、彼女は自分にそう言い聞かせた。ある日職場に、彼女の給金を前借りさせろと男が乗り込んだ。必死で止めようとする彼女をいつも通りその男は殴ったわ。倒れた彼女の顔を男が蹴とばそうとしたとき、男は吹っ飛んだ。客の男が、たった一発のパンチで彼をぶっ飛ばしたの」
「……」
「ぶっ飛ばしたのは、都会で出稼ぎ中の田舎者の大工さん。いかにも垢ぬけていなくて、商売女に向けるべきじゃないきれいなものを自分に向けてくる彼が、彼女は少し苦手だったわ。それがあんまりにも白くて眩しくて、純粋だったから。自分には無縁のはずの、まっすぐなそれが、彼女はなんだかずっと、怖かったの。それなのにその瞬間、大好きだったはずの男がくだらないカスに見えて、少し苦手だった男が逞しい頼れる男に見えたの。さんざん殴られても蹴られても変わらなかったものが、一瞬で。窓が開いて部屋一面に光が差したみたいに、ものの見え方ががらりと変わったのよ。彼女は今まで自分が暗い部屋にいることさえ気づいていなかった。本当に馬鹿みたいでしょう」
アデリナの右手が、自分のお腹を撫でた。
「……あたたかい家、おだやかな生活、まっすぐできれいな本当の愛をもらったのに、彼女はその人の子を産んであげられなかった。過去に愚かな恋をしたせいで。そのとき賢い判断ができなかったせいで」
「……」
セシルはアデリナに抱きついた。必死で首を振る。そんなセシルの背中をアデリナが撫でる。
「馬鹿だった。もっと早くに気づいて、引き返すべきだった。でも、そうしてたら、彼女はきっと今、ここにはいないの。この幸せはなかったの。それならあの間違った恋にも少しは意味はあったのかもしれない。そう思える場所に今いることが、彼女はとても嬉しいのよ」
どんな言葉を返したらいいのかわからない。セシルはこれまで、人とあまり関わってこなかった。
「誰かを想うことは、とても怖いものだわ。人の生活を、性格を、考え方をびっくりするほど簡単に変えてしまうもの。想いすぎれば何も手につかず、周囲のことを考えることのできない馬鹿になる。嫉妬で誰かを憎んだり、驚くほどちょっとしたことで泣いてしまう。本当に困った、怖いものだわ」
「……どうしたら、いいですか?」
アデリナは笑った。
「どうしようもないわ。だって何をしようと勝手にそうなるんだもの。世界は何も変わっていないはずなのに、急に自分だけに見え方が変わるの。それが道ならぬもの、どうしようもない相手なら、物理的に距離を置くしかない。そうでないなら、それができないなら、思いが叶う幸運を願いながら、また自分の見え方が変わる瞬間を待つしかない。本当に、どうしようもないものなの。みんなそうなのよ、セシルちゃん」
両手を取られた。ぐるっとアデリナが家の中を見渡す。
丁寧なキルト、素敵なレース。隅々まで可愛らしく、溢れんばかりの愛を持って整えられた部屋。
「このお家が、愚かな恋のあとに優しい恋を見つけた彼女の答え」
「……はい」
「心が向くのが、初めから優しい人だといいわね。誠実で真面目で、自分を大切にしてくれる人だったら、そしてその人と同じ思いで向き合えたなら、それはとても幸せなことだわ」
「……」
また、ぽろりと涙が落ちた。
ある誠実で真面目な優しい人に、セシルは隠していることがある。
じっとアデリナがセシルを見ている。何か言いたそうで、でもきっとアデリナはこれ以上言わない。
なんとなく、全てではないけれど、ぐちゃぐちゃしていたものを言葉に出せて、聞いてもらえて、胸のざわざわがおさまったような気がする。
「お料理の邪魔して、すいませんアデリナさん。これ、マルガリタさんから先日のお礼にって」
「あら、お気遣いいただいてありがとう。お礼を言っておいてもらえるかしら」
「はい」
玄関まで見送られた。
「それではまた。今日の大先輩のアドバイスは何だったかしらセシルちゃん」
「はい。『どうしようもない』です」
「大正解。どうにかしようとしちゃだめよ。だって、どうしようもないんだから」
くすくすと笑って、別れた。
なんだろう。この家を目指したときと、状況なんて何も変わっていないのに、不思議に足取りが軽い。
パラパラと雨が降って来たので慌てて走る。セシルは足が速い。
牧場の長い道を軽やかにセシルが走る。
雨が、ポスケッタに降り始めている。




