23 オスカー少年
夜。
先日オスカーと涼みながら地図を眺めた椅子に、セシルは座っている。
オスカーに聞きたいことがあったのでここまで来たが、聞く前にあと少しだけ自分で考えてみようと思ったのだ。
「なんだセシル。なんか用だったか?」
声をかけられて顔を上げた。髪をぬぐいながら、オスカーが歩いてくる。
「今日は入るの遅かったんですね、お風呂」
「いや、一回入った後に体動かしたらまた汗をかいたから、また入った」
「忙しい。何してたんですか?」
「小屋の一部に穴が開いていてたから、みんなが寝る前に塞いどいた。気にする奴がいたらかわいそうだからな」
「言ってくれれば、台を押さえるくらいしましたよ」
「下のほうだった」
「そうですか。さすがオスカーさん。よく気付く」
じっと、セシルは隣の椅子に座るオスカーを見る。お母さんみたいな、細やかな男の人。
特にどちらが続けるでもなくふわりとした沈黙が落ちたので、セシルはオスカーから目を外し、星を見上げた。
二人は今日もあそこで、セシルのことを見ているだろうか。
静かだ。星が瞬く音が聞こえそうなくらいに。
星空に浮いているような、吸い込まれそうな気がする。
「……セシル」
「なんですか」
「自分が世話してるランフォルに、逃げられたこと、あるか?」
そう聞くオスカーの声は穏やかだったけど、セシルはなんとなく、オスカーのほうを見なかった。
飼っているランフォルが逃げることを、ランフォル乗りの俗語で『カラスにする』と言う。それは飼育員、乗り手としては最大の恥、そして最も悲しいことだ。
ランフォルには首輪を付けない。足を紐や鎖で結ばない。そんなことしたところで、飛んでるときにランフォルが背中の乗り手の指示を無視して振り落とし、あるいは壁や地面にでもぶつけて細切れにしてから放り投げれば、彼らは簡単に自由だ。彼らは羽根を持ち、大きく強い。いつだって、どこへだって好きなところに飛んでいける。
彼らを愛し、彼らに愛され、彼ら自身にそこにいると決めてもらわなければ、人はランフォルとは生きられない。
「運がいいことに、ありません」
「そうか。俺は、一度ある。生まれて初めて自分が担当した、二歳のランフォルを。俺がしつこく世話しすぎるから、そこにいるのが嫌になったらしい。朝見に行ったらそこだけ厩がぽっかり空いていたときの気持ちを俺はきっと一生忘れられないし、何度だって夢に見ると思う」
「……」
「……」
「僭越ですが」
「なんだ」
「いいこいいこしましょうか?」
「……」
ふっとオスカーが笑ったのがわかった。
「ああ。頼もうかな」
「はい」
手を伸ばし、頭を撫でる。
セシルは撫でる。立派で頼りがいのある大人のオスカーの中にいる、小さいオスカーを。
そのとき彼はきっと泣いて泣いて、泣いただろう。周りに誰もいないところで。
顔を歪めて頬を濡らして、歯を食いしばり声を殺して。
自分のしたことを何度でも思い出し、悔やみ、あのときああすればよかった、こうすればよかったと思っただろう。責任感のある、優しくて細やかな心を持つ男の子だったから。
「いいこ、いいこ。……いいこ」
「……」
「自分にやれることを全部精一杯やって、一生懸命お世話しただけ。まだ、加減がわかんなかっただけだよ。大丈夫。大人になったら、優しくていろんなことによく気が付く、素敵な飼育員さんになるから。いろんな人を助けてくれる、みんなに頼られる立派な牧場主になるから。大丈夫、大丈夫。……大丈夫だよ」
「……」
言いながら、空の巣を前に呆然と立ちすくむ少年の姿を思いセシルも思わずぽろっと泣いてしまった。
今セシルは、まだどこかで泣いている小さなオスカー少年をぎゅっと抱き締めたくてたまらない。
「……どこで泣いてたんですか?」
「……薪小屋の裏。思い出して泣きそうになると薪割りしに行くせいで、一時は小屋に入らないほど薪が増えた。家族から苦情が入るかと心配したけど、一言もなかったよ」
セシルは笑った。きっと家族もみんな気付いていて、何も言わなかったのだと。
成長したオスカーもきっとそれに気付いて、やっぱり何も言わなかったのだろう。家族だなあと思う。
星を見上げながらしばらくそうして、きっともう大丈夫と思ってオスカーを見れば、わずかに潤んだ青い目が、じっとセシルを見ていた。
ああ、大人になったオスカーも泣くんだと思った。当たり前のことだった。
「なんか唐突に情けなさを全開にして悪かったな。ありがとう。セシルは何しにここにいたんだ」
「ちょっとオスカーさんに聞きたいことがあると思ったんですけど、なくなりました。今、ピンと」
「ホントか?」
「ホントです」
「そっか」
「はい。おやすみなさいオスカーさん」
「ああ。おやすみセシル」
オスカーが笑う。照れくさそうに。どこか、すっきりしたように。
「……ありがとう、セシル。ポスケッタの奴らは妙に俺を持ち上げるし、最近はニコルがやたらと俺を尊敬する目で見るだろう。俺は、俺が本当はそんなものじゃない、本当はそんなにたいしたやつじゃないってことを、きっと誰かに聞いてほしかったんだ」
「はい。情けないオスカーさんを聞かせてくれて、ありがとうございました」
また、なんとなく沈黙。穏やかな空気の中で、瞬く星を二人で見上げた。
別れ、セシルは自分の部屋に戻る。
いつもお母さんみたいで、男らしくて力持ちで、立派なセシルの上司。セシルにとって神様みたいなオスカーは、やっぱり神様ではない。何かがあれば傷つき痛む、ただの生身の男の人だ。どんな人だって弱るときもあれば、泣きたいときだってある。
人が、弱さを誰かに見せるには大いなる勇気が必要だ。相手への、十分な信頼も。
いつかセシルがそれを見せたから、オスカーはセシルを信じて今日、自分の痛いところを見せてくれたのかもしれない。信じている相手に弱みを隠されるのは、悲しいことだから。
それを教えてもらえて嬉しいと思うと同時に、ズキリと胸が痛んだ。
「……」
今日はもう寝てしまおう。暗い部屋のベッドに飛び込みもぐりこんで、セシルは目を閉じた。




