21 ニコル
ニコルはこの家の主人の部屋の、扉の前に緊張しながら立っている。
「どうぞ」
ノックをしたら返事があったので、ニコルは扉を開けた。
中では書類に囲まれたオスカーが、いかにも疲れたという様子でぱらぱらと紙をめくっている。
今日は何かお金のことで役人さんが来たらしい。普段の作業着とは違うパリッとしたかっこいい服を着て、髪を全部後ろに流して結んで固めたオスカーはまるで別人のようで、とてもかっこよかった。いや普段だって野性的で男らしくてかっこいいが。今日は別の方向にだ。
タイを緩めシャツのボタンを外し、腕まくりして筋肉質な腕を出している。せっかくちゃんとしていた髪の毛がほどかれ長い指にかきあげられてぐしゃぐしゃだ。それでもやっぱりかっこいい。これが大人の男の色気というものだろうか。
「何かありましたか?」
「ああすまん。この欄にサインをしてくれるか。親のサインだけでいいと思ってたら、本人のも必要になったらしい。ちょこちょこ様式変えられてもこっちはさっぱりわからん」
ニコルとオークランスの雇用契約書らしい。内容を読んでも難しくてさっぱりわからないが、もう母のサインが入ってるし、オークランスがニコルに悪いことをするとニコルは思っていない。ペンを借りサインする。字が汚くて恥ずかしいなと思う。
ニコルの家は貧乏だ。母は朝から晩まで働いているけど、生活はちっとも楽にならなかった。ポスケッタの町には文字や勘定を習うところはあるしニコルも時折通っていたけれど、仕事が入ったら迷わず仕事優先だったので、ニコルの勉強は同世代よりも遅れている。単語の綴りはよく間違うし、勘定だって仕事で使うところだけの我流だから、本当にこれで合っているのかわからない。
「ありがとう。あ、飼育日誌、書いてみたかニコル」
「……」
そのことで呼ばれたのかと思ったので、ニコルはそれを持ってきている。消えてしまいたいくらいの恥ずかしさといっしょに。
俯いてニコルが差し出したそれをめくり、オスカーは手を止めた。青い目がじっとニコルを見つめている。
「すまん。配慮が足りなかった」
「……こちらこそ、すいません」
じわりと視界が歪んだ。それが落ちないように、目を必死で見開く。
『すごいじゃないかニコル』と、家族も、近所の人も、オークランスから声がかかったニコルにそう言った。突然の降って沸いたような幸運に一番驚いていたのはニコルだった。
眠る時間、自分の食事すら削る母親を助けたくて、ずっとその歳その歳で受けられるさまざまな小間仕事、力仕事をやってきた。優しい人もいっぱいいたけれど、難癖をつけて給金を出し渋ったり、失敗も悪いこともしていないはずなのにやたらと叱りつけられることもあった。ときには家族でひもじい思いもしたし、母に言えなかったような痛い思いも悔しい思いもあった。
毎日がいっぱいいっぱいで、これから何になりたいなんて思えるような状況じゃなかった。自分はこれからもただこうやって、日を切り崩すようにして生きていくのだと思っていたところへの、飼育員にならないかというオークランスからの声掛け。青天の霹靂。
オークランスはあたたかい。どこもかしこもお日様の光がいっぱいで、誰もニコルを怒鳴らない。最初の頃はアブラハムが少し怖かったけれど、真面目にやったうえの失敗を怒る人ではないこと、毒舌だけど不条理なことは言わないことに気が付いた。
先輩のセシルは、優しくて明るくて楽しい。ニコルよりも背の低い、どこもかしこも細いお姉さんなのに、彼女はオスカーが称賛するほどのランフォルの乗り手で、ランフォルたちみんなのお母さんだ。手本にと思って見せてもらった彼女の日誌は、よくも毎日こんなに書き込めるものだと思うほどに真っ黒だった。
ただひたすらにランフォルを見つめる、優しくて真剣な水色の目。見る者に伝わるランフォルへのまっすぐな愛情。ときどき見ているほうが何か不安になってしまうほど、セシルは全身でランフォルが好きだ。なんとなく、ある日突然ランフォルに乗って、ランフォルの国にふわりと消えてしまうんじゃないかと思ってしまうくらい。
オスカーと料理人ゼフのおかげで、ニコルの家の皆はすっかり体が頑丈になった。美味しいものをたっぷりと食べられるから母の仕事が捗り、そこにニコルの給金が加わった。明日食べるものの心配がなくなって、弟と妹の顔色も明るくなり、しっかり勉強をしに通えている。
ニコル、いやニコルの家族全員にとって神様みたいなオスカーに、この家の従業員にふさわしくない自分の学のなさがばれてしまった。こんなにもよくしてもらいながら、応えられない自分が恥ずかしくて情けない。涙が零れそうになり、ニコルはぎりりと歯を食いしばる。
「ニコル」
「……」
「アブラハムに言っておく。明日から毎日少し勉強の時間を作ろう。爺さんは皮肉家だけあってえらい語彙が豊富でしかも達筆だ」
ニコルは顔を上げた。
「……クビじゃ……」
「おいおい冗談はやめてくれ。まったくどいつもこいつも。そんなことしたら俺がセシルとアブラハムに袋叩きにされて、雛たちがクァクァ鳴きやまんだろう」
確かに雛たちはずっと地上にいてなんかしらしているニコルにすっかり慣れて、見つければクアックアッと追いかけてきてくれるようになった。ホントはセシルやオスカーと遊びたいだろうけど、二人は忙しい。
オスカーの青い目がじっとニコルを見ている。
「ニコル。真面目な奴は損をするなんて世間の人は言うけれど、いつでも、どこでも変わらずにそうできる人間なんて、そうはいないと俺は思う」
「……」
「優しいところもだ。自分だって腹減ってるのにきょうだいに飯を分けられるようなやつ、ごほうびで貰った一個しかない飴玉を、泣いてる知らない子にあげられるやつがどれだけいる。誰もいない部屋で、腹が鳴ってるのに目の前に積んであるご馳走のひとかけらも口に入れずに広い部屋の床の拭き掃除を隅までできる我慢強いやつがどれくらいいると思うんだ。命を、生き物を育てるんだ。俺はズルや手抜き、暴力、人に隠れたところで悪さをするような人間は絶対に牧場に入れたくないと思ってる。相手を思いやれて、優しくて、何事にも手を抜かない真面目な奴が欲しいと思っている。『それならニコルだ。あの子は優しくて、真面目で我慢強いいい子だよ』ってみんなが口々に言った。だから俺は安心してニコルを雇ったんだ」
「……」
ぼろぼろと、自分の頬を伝っていく熱いものを、ニコルは感じている。
「何も恥じるなニコル。ニコルはずっと、どんな仕事でも真剣にやってきた。本当はもっと勉強したかったんだろう? それでも文句も言わずに我慢して、我慢して我慢してずっと働いてきた。見てないようで、周りの人はやっぱり見てるんだ。どうかこれからも頼む」
「はい……」
大泣きするニコルを見つめてから、プッとオスカーが笑った。目じりに笑いじわを刻んだ、男らしいかっこいい顔で。
「この場面を誰かに見られたら『オスカーさんがニコルをいじめた!』って怒られそうだな」
「すいません……」
「いいさ。じゃあ、これからも頼む。ニコル」
「はい。オスカーさん」
お辞儀をして、扉を開けた。
ノックしようと思ったところだったのだろう、右手の拳を上げたセシルが立っていた。
「……」
「……」
水色の目がニコルを凝視してから、オスカーを見た。かばうように肩を抱かれた。
「……オスカーさんがニコルをいじめた……!」
「これだよ」
オスカーが頭を押さえた。思わずニコルは吹き出す。
「大丈夫?」
「はい。いじめられてません。大丈夫です」
「そっか。すいませんオスカーさん、勘違いでした」
「いいさ」
疲れたようにオスカーが言い、もう一度、セシルが謝る。
オスカーの横に立つとセシルは余計に華奢に、オスカーは男らしく見える気がする。お似合いだなあと思う。
この二人が結婚してくれたらなあと、ニコルはひそかに思っている。
この二人が二人でいると、セシルの唐突にどこかに飛んで行ってしまいそうな危うい雰囲気が和らぎ、オスカーが固い何かがほどけたような穏やかな顔になるから。パズルのピースをはめたときみたいなぴったりしたちょうどいい感じがするから。
恩人たちには幸せに、楽しくなってほしい。子どもが、ただの見習い従業員がそんなことを願うのは生意気だろうかと考えながら、ニコルは廊下を歩いた。
いいにおいがする。今日の夕飯は何だろうと思い、ついニコルはぴょんと跳ねた。




