2 ごあいさつ
「うわあ……」
広い。広い広い広い。瑞々しい芝生と白い柵が、真っ青な空を横一線に切り取っている。
革で出来た騎乗服に着替え、革のヘルムを被り金属製のゴーグルを額に当てた格好で、セシルはそこを走る。
「ラルジュより田舎で悪いな。おかげさまで土地だけは広い」
「いいところです! 最高」
見渡せば青々とした山が広がっている。あれをよけながらぐんぐんと飛んだなら、いったいどんなに楽しいだろう。
「今うちでは八羽飼育してる」
「こんなに広いのに? 贅沢ですね」
「一度、手放せるのは手放したんだ。家族が死んでな」
「……」
「少し前このへんで伝染病が流行った。それで父と母がやられた。父と母、このへんの人のために薬を取りに行こうと、兄は中央に飛んだ。夜。トゥランの民でもないただの人に、そんなことはできなかった。一晩待てばよかったのに。……真面目で、頑固で、責任感の強い兄だった」
「……」
「俺は軍でランフォルの乗り手をやってたんだが、訃報を聞いて、辞めてこっちに帰って来たんだ。従業員も年寄りが多くて、これを期に辞めたいという人もいて。がっかりさせたらすまない。ここから再スタートのところだ」
「むやみに増やしたって世話が行き届かなくて可哀想なだけです。ここからやってきましょう。がんばります」
「ああ。ありがとう」
オスカーが笑った。なんとなくくたびれてる感じのある人と思ったが、実際のところはまだ若いだろう。
「オスカーさんは何歳ですか」
「二十三だ」
「えっお若いんですね」
「老けてて悪かったな。苦労性なんだ」
「わかります」
「なんでわかった? セシルは十六だったか」
「はい」
「若いな」
「はい。でもオスカーさんは十六のときでも老けてたでしょう」
「なんでわかった」
言いながら歩いている。
「誰か、卵を抱いていますか?」
わくわくして聞けば、オスカーが嬉しそうに笑った。
「ああ。今年はカップルが二組残った。卵が二つだ。新しい飼育員が入ったら、あと二つくらい探しに行きたいなと思っていた」
「楽しみです!」
ランフォルは野生にもいる。用心深くめったに人前に姿を現さないのだが、彼らには不思議な習性がある。二つ以上卵を産んだとき、その中から選んだ一つだけしかあたためないのだ。
何故捨てるのか、何故その卵を選ぶのか、人にはわからない。卵を抱く期間が二月くらいあり、幼体から成体になるまで半年もの時間を要するから、生命力の強いものだけ選別しているのではないかという考えが主流だ。
その見捨てられた卵を飼育員は探し、育てる。牧場内で見捨てられてしまった卵と合わせてだ。
雛はかわいい。でも大きい。腕にやっと抱えられるくらいの大きさの卵から、枕くらいの大きさのふわふわが生まれて、最初に見た人にずっとついてくる。
三羽の雛の担当になってしまったときは大変だった。一日中むくむくのふわふわがクァクァ言って押し寄せてくるのだから。一日に食べる量も半端じゃないし、まだ加減を知らず、親よりは丸いながらも立派にとがったくちばしでつんつんと甘えてくるから傷だらけだった。
でも、幸せな経験だった。彼らが初めて空を飛んだときは、感動で涙が止まらなかったものである。
「じゃあ、ご対面。ここはカップルだ。言うまでもないと思うが許しもないのに近づくなよ。オスがスピカ、メスがオルテンシア」
オスのスピカが縄張りに入ろうとする、見たことのない人間セシルを警戒している。
ランフォルは、似た鳥を探すならば鷲に似ている。鋭い鉤づめ、尖ったくちばし。黄金色の瞳。色は個体によって異なるが、脚の羽根が白く、体の部分が茶、銀、黒が一般的。中には全身金色のものもいると聞くが、セシルは見たことがない。
鷲よりもずっと大きく、ずっと賢く、ずっと強い。目の前で牛を掴んで持って行ったという目撃情報もある。牧場に住まう彼らは人に共生することを許し、自分でそこに住むと決めたからそこに住んでいる。
「失礼」
「はい」
オスカーがセシルと肩を組んだ。彼らにとって信頼する人間であるオスカーが、親愛している人間であると彼らに伝えるためだ。
まだじっと見ている。鳴かない。ググルゥと巻くように鳴けば近づけるのだが、どうやら初日では無理のようだ。
「今日はここで大丈夫です。ありがとうございます」
「うん。そうだな。去年生まれた奴らのところに行くか。卵がない奴らは穏やかだ」
「はい」
また歩む。
広い場所に、四羽。銀色の個体の体が特に大きくて、立派だ。
「銀のがオスのコールサック。若手のボスだな。力が強くて賢いから、舐められないようにしてくれ。黒がオスのアルコル。穏やかで優しい。実はアルコルのほうがメスにモテる。濃茶のがメスのネルケ。割と暴れん坊。薄茶がメスのフラーゴラ。彼女は少し臆病だ」
つんつんと互いをつつき合ったり、毛づくろいをしたりして遊んでいる。
ああ、いい牧場だなと思った。流れる空気が暖かく、やわらかい。皆の表情が穏やかで落ち着いている。
「乗らせてくれる子はいますか?」
「まあ、アルコルだろうな。アルコル!」
呼べば黒の子がこちらを向き、ググルゥと鳴いて歩み寄って来た。
一歳とは言えもう子どもではない。その巨体を、セシルは見上げた。
「セシルです。よろしくアルコル」
じっ、と、黄金色の目がセシルを見る。
その嘴が近づき、そっとセシルの髪を食んだ。オスカーの意図をくみ取ったのだろう。賢くて優しい子だ。
「ありがとう。アルコル。君の背中に乗ってもいい?」
そっと首を撫でればググルゥと鳴く。オスカーを見れば、いいだろうと頷かれた。
アルコルの背中に鞍を固定する。ぎゅっと締めすぎるとランフォルが苦しいが、緩すぎると今度は自分が危ない。跨って鐙に足を乗せ、ぐるりと体に回した三本の太く頑丈なベルトを確認する。
腰は固定し、上半身は動ける状態だ。上昇するときは風の抵抗を少なくするようぴったりと寄り添い、左右に旋回するときは乗ってる子に合わせて体重を移動する。これはもう、感覚でやるしかない。
どきどきする。牧場を追い出され、ずっと馬車の旅だった。久しぶりにランフォルに触れられるのが、飛べるのが嬉しい。
「笛は教科書通りですか?」
「ああ。そのままだ」
一応口笛で確認。うん、大丈夫だ。
最後に金具を二人で確認。慣れるほどに省略する人も多いが、セシルはできるときは必ずやることにしている。
オスカーも銀色のコールサックに跨ったので、セシルはアルコルに乗った状態で彼の金具を確認した。問題ない。
「よし」
空を見上げた。わくわくするほどにそれは青く、広い。
「お願いアルコル。行こう」
笛を吹けば、アルコルは翼を広げ、一直線に空を縦に切り裂き飛び上がった。
おなかがぞくぞくする。涙が出るほどワクワクする。この瞬間を、セシルは世界で一番愛している。
やがて上昇をやめさせ、穏やかな風に乗った。この世界は広く、美しい。
隣をオスカーの乗ったコールサックが飛んでいる。雲が、下の世界が、後ろに流れて消えていく。
ついてこい、と手振りをされたので手を上げて答えた。まるでセシルを試すように、大きな旋回ののち上下を繰り返し、山を一周ぐるりと回ってから加速した。
それでもまだまったく全力じゃないだろう。ついていくのは難もない。
横に並んで、そのゴーグルの中の青い目を見た。にやりと笑っている。
ああ、楽しい。最高に楽しい。高速で、音のないこの世界。ここは世界の全てを見渡すことができる。
しばらくそうして散歩をし、二羽と二人は牧場に降り立った。
金具を外し地面に降り、セシルはアルコルの翼、足、爪を確認する。ときどき飛んでいる何かが体をかすめ、彼らに傷を作ってしまうことがある。たいていの場合問題なく治るが、変なものが入って、最悪切断しなくてはならない羽目になることがあると聞く。セシルは別の人の担当で、一度だけそうなったランフォルを見た。全てを悟り諦めたような色の金の目が、とても、悲しかった。
「ありがとう、アルコル」
ググルゥという声に、そっと抱きつく。この子は本当に優しい子だ。
「初日はここまでにしとこう。風呂でも入って部屋で休んでてくれ。飯にする」
「オスカーさんが作るんですか?」
「いや、近所の婆さんが通いで作ってくれてる。割とうまいから、楽しみにしてくれ」
「誰かの作ってくれたお料理はひさびさです。楽しみだな」
「一人暮らしだったか?」
「はい。小屋を一個借りて。自分で適当に作って食べてました」
「そうか」
屋敷で別れ、セシルは自分の部屋だと案内された場所に入った。
屋敷自体が古いので、ほこりだらけだったら掃除しなきゃと思っていたが、中は掃き清められ清潔だった。古びた家具の間に石と木のぬくもりがあって、飾り気はないけど暖かい。
「なんだかオスカーさんぽい」
言ってセシルは笑った。こういうものに囲まれて育ったから、きっとあんな風になったんだなと。
口頭で説明されただけだったので少し迷ったが、お風呂場も見つかった。
薪で沸かすやつかな? と思ったら、お湯に独特のにおいを感じた。
一度だけ祖父、祖母と行った旅行先で入ったあれだとセシルは気付く。温泉。地面から湧き出る天然のお湯だ。体の疲れを取ったり、傷を早く治してくれる効能がある。
「……ここに来てよかった!」
感動に打ち震えながらセシルはその恩恵を、遠慮なく頭の先まで味わわせていただいた。
また『女装か?』と言われても困るしセシルも慣れてるので、男性と同じような服で食堂に向かう。椅子が四つ並ぶテーブルが六つ。あと二つくらい置けるだろう広めの間隔を開けて並べられている。
いいにおい。バターの香りだ。ぐうと見事におなかが鳴った。
「なんかすごくわかりやすい奴がいるな」
後ろから来たオスカーが笑っている。
「いっしょに食べるんですか?」
「そっちのほうが、出すのも片づけるのも楽だろう」
「本当だ」
オスカーが厨房の奥に声をかけた。
にこにことした、可愛いお婆さんだ。ワゴンを引いて、オスカーとセシルの前に湯気の出る料理を並べてくれる。
焼き目の付いた鶏のもも肉。レモンと焼き野菜がカラフルに添えてある。具がゴロゴロ入ったトマト味のスープに、こんがり焼かれたパン。チーズを添えて。見た目だけでもう、美味しそう。
よだれを零さないよう飲み込んで、セシルはじっとオスカーを見た。
「食前の祈りはするタイプか?」
「はい」
「そうか。俺もだ」
今日もパンを与えてくれた大地の神と、戴く命に、二人は胸に手を当てわずかに頭を下げた。
「いただきます」
「いただきます」
そうしてスープ、パン、鶏肉。塩と胡椒だけのシンプルな味わいがパリパリの皮に絡んで、それはもう美味しい。セシルはにっこりした。
「美味しいです。本当にここに来てよかった」
「現金なやつだ」
「ランフォルはみんないい子で、可愛くて、かっこよくて、ご飯が美味しくて、温泉があったかくて、雇い主が優しいなんて最高です」
「雇い主の位置づけが低いな。まあいい。いいならよかった」
「牧場はこの二人だけでやるんですか?」
「何人か声をかけてるけど、返事がないな。餌作りとか、ごみの処理とかそういうのは近所の人に手伝ってもらって、しばらくそれでやるしかないだろう。家のことは何人かやってくれる人がいるから、セシルはランフォルに集中してくれ」
「最高ですね。夢みたいです。ありがとうございます」
じっとオスカーがセシルを見たので、セシルは見返す。
「その代わり休みはない、素敵な服や可愛い靴を買い物できるような店もない。毎日毎日労働労働、ランフォルランフォルランフォルだ。荷物まとめて帰るなら今だぞ。後になればなるほど俺のショックが大きくなるからな」
「死んでもまとめません。望むところです。幸せな生活すぎて想像するだけで死にそうです」
「そうか」
心からそう思いながら言うと、オスカーが笑った。誰かと笑いながら食べる食事は、美味しくて楽しい。祖父と祖母を失ってから、セシルはずっと一人でご飯を食べてきたのだ。
「オスカーさんはいっぱい食べますね」
「体が資本だからな。セシルもいっぱい食え。大きくならないぞ」
「……ッバーンと?」
「背のことだ」
食べ終わっても、ランフォルのことで話は尽きない。
この人は本当にランフォルが好きなんだなと嬉しくて、話し疲れてその日セシルはあっという間に、気持ちよく、深く眠った。
久しぶりに、青い空を自由に飛ぶ夢を見た。