11 風邪
大忙しだ。三羽の雛にクアックアッと追われながら、雛たちの分増えた餌を食べさせ、散歩をし、掃除をし、ご飯をいっぱい食べ、日誌をつけ、泥のように眠る。
新しい知識を入れるために本を読み、知識をオスカーと共有する。慌ただしく、幸せな日々。
その日セシルは、今日は少し体が重いな、と思いながら朝食に向かった。いつもの美味しいごはんが、なんだかいつもよりおなかにするすると入らない。無理やりに、ぎゅうぎゅうと押し込んで、ああ、ゼフさんに悪いことをしているなと思いながら必死で飲み込む。
クアックアッと鳴くレアン、ノワを撫でながら、オスカーと雛たちの餌の話をする。
ふっと何かに気付いた顔でふとオスカーが言葉を止め、じっとセシルを見た。
「セシル」
「はい」
「なんか顔、赤いか?」
「……」
ああ、バレちゃったと思った。オスカーの顔が少し険しくなって、セシルの額に手が伸びる。
「……セシル」
「はい」
「何で隠そうとした」
「……」
少し風邪を引いたな、と思った。
これくらい大丈夫。セシルがいなかったら、オスカーは全部の作業を一人でやる羽目になる。散歩だけは何とか理由を付けてうまく回避して、そのほかの作業はいつも通りやるつもりだった。
オスカーの、普段見ない怒ったような表情に、じわじわと涙が浮く。
「……寝てろ。今日は雛たちと遊ぶのもなしだ」
「でも……」
「でもじゃない。応援呼べばなんとかなる。寝てろ」
強く言われそれ以上言い返すこともできず、とぼとぼとセシルは自分の部屋に戻った。
暇だなあと、セシルはベッドの中でぼんやりしている。
最初にセシルを部屋に案内してくれたお婆さんのメイドさんはマウラさんという。週に三回だけ通って、お掃除や、屋敷の中の色々をしてくれる人だ。
セシルのベッドを整え、苦しいだろうと襟元をくつろげ、冷たい水で絞った布を額に置いてくれた。
今頃皆はご飯を食べて、散歩して、訓練をしている。
全部をオスカーが一人で。雛が五羽も増えて、若手がぐんぐん知識を吸収している大変なときに、セシルが風邪なんか引いたから。
十二で保護者を失ってから、セシルは全部のことを自分でやってきた。これくらいの風邪なんて、たいしたことじゃなかったのに。
何もせずぬくぬくと寝ている自分が許せず、つい涙が零れてしまう。
腕の中にあたたかいものがないのが寂しい。寂しさなんて慣れっこだったはずなのに。あたたかくて優しいこの場所に来たせいで、セシルはもしかしたら、弱くなっているのかもしれなかった。
それでもお粥を食べ、水を飲み、ごろごろしているうちにうとうとと眠りに落ちたらしかった。ふっと夕暮れの中に風の動きを感じ、セシルは半分覚醒した。
「勝手に入ってすまん。薬もらってきた。飲めそうか?」
「……」
優しい声の、大きな男の人。
そっと大きな手に抱き起こされ、上半身だけを上げる。ぐらりと倒れそうなセシルの体をオスカーが支える。
「ゆっくりな」
木の匙で、少し苦いものが口に流し込まれた。
「……苦い」
「がんばれ」
少しずつ、少しずつ。それでも零れたものが口の端を伝って流れ落ち、大きく開いた襟元から鎖骨に流れる。
「おっとすまん」
「……」
そっと布で拭いてくれた手に涙が落ちる。役立たずの怠け者の自分が、誰かにこんなに優しくしてもらえる理由なんかない。
失望されていたらどうしよう。雇うんじゃなかった。役立たずだと、お荷物だと思われたらどうしよう。セシルの居場所は、世界でもう、ここにしかないのに。
「……泣くな。苦しいか?」
「ごめんなさい」
はらはらと涙が落ちる。苦しい。
「……」
「風邪なんか引いてごめんなさい。また明日からちゃんと働くから、ここにいさせてください」
「……セシル」
「お願いですやめさせないで……ここにいたい。ここに、いたいんです」
オスカーの顔を見るのが怖い。あとからあとから涙が溢れ、止まらない。
「……」
そっと身をベッドに戻され、布団を直された。ひんやりとした新しい布が額の上に置かれる。
「風邪なんてみんな引くだろう。そんな理由でやめさせるわけがない。何も心配せずに、今日は寝ろ」
「……」
寂しい、行かないで、と言いたくなった。だが言えるわけがない。彼は忙しいのだ。セシルのせいで。
静かに扉が閉まった。夕暮れの赤の光の中で、セシルは泣きながら、また眠りに落ちた。
「薬飲めたか? セシル」
手土産を持ってタイミングよく遊びに来たアランが、あっけらかんとした顔で聞いたあと、まじまじとオスカーの顔を見た。
「すげぇ顔してるぞオスカー。大丈夫かお前」
「……俺は今、自己嫌悪で死にそうだ。アラン」
どさりと椅子に座り、オスカーは額を押さえる。
オスカーはこれまで、セシルに軍仲間や男同士のように何の気遣いもなく接していた。相手は体の細い、華奢な十六歳の女の子だと知っていたのに。
それを毎日休みなく働かせて、体調悪いのを自分から言い出せないような状況にして、辛そうに泣かせて、あげく言わせるセリフが『やめさせないで』だ。
自己嫌悪で胸がムカムカする。こうなるまで彼女の不安に気付かない自分が、情けなくてたまらない。
十二で保護者を失って、ずっと働き続けた牧場を突然クビになって放り出されたまだ十六の身よりも拠り所もない彼女が、新しい場所と雇い主の下で不安がなかったわけがないのに。
細い首、折れそうな鎖骨。腕に伝わる、細くて軽い体。あんな壊れ物みたいな体で、セシルは必死に毎日働いてくれていたのに。
「弱音も吐かずに無理やり頑張ってたんだ。俺はそれを察して、セシルがどんだけやりたがっても、負担を減らしてやらなきゃいけなかった。俺はいい。ここは俺の牧場なんだから。倒れるまでやったって俺の勝手だ。でも従業員の作業量は、俺がもっと考えてやらなきゃいけなかった。評価してることを、感謝してることをもっともっと伝えてなきゃいけなかった。……馬鹿だ。俺は」
「……なんか違くないか?」
「……何がだ」
「別にセシルは働くの嫌じゃねぇし、風邪引いたのお前のせいだなんて思ってねぇよ。ランフォルが好きで、この牧場が好きで、働くのが好きだから、今思うように働けないのが辛いだけだ。今回のことでお前が自分を責めたらセシルはもっと辛くなる。お前だけが背負うんじゃなく、お前が荷物を分けて、みんなで持てるようにしたほうがいい」
「……」
「苦労性もいいけど、たまには楽することも考えろ。もう少しセシルを安心させてやれよ」
「……」
アランがオスカーの肩に腕をかける。
「アブラハムさんの腰、もういいみたいだぞ。元気になったら今度はうるさくってしょうがないって奥さんが愚痴ってた。あの性格じゃ自分から復帰したいなんて言えないだろうから声をかけてやれ。アレアンさんちの長男も、そろそろ食い扶持を探したいらしい。十三だけど、真面目で我慢強いいい子だ。探せばそんなやつらいっぱいいる。町長さんのとこに行ってみろオスカー」
「……アラン」
「ん?」
アランの茶の目が、穏やかにオスカーを見る。
「……お前がいてくれて嬉しい」
アランが吹き出し、オスカーをじっと見て、笑った。
「セシルにもそう言ってやれ。俺は知ってるから今更だ」
「ああ」
長年の幼馴染の顔を見る。日に焼けて、どこか抜けた、お人好しの顔。
友達っていいもんだなとそれを見て思いながら、ん? とオスカーは思った。
こいつに対して、髪を撫でたいとか、涙を拭いてやりたいなんて微塵も思わねぇな、と。
「……」
「オスカー?」
「……いや、多分、これ以上は考えない方がいいことだ」
「俺は考えた方がいいと思うぞ。すごくいい傾向だ。俺は嬉しい」
にかっとアランが嬉しそうに笑う。それからふっと年相応な顔になった。
「ちなみに俺の妻はご存じの通り隣んちの子で、鼻垂らしてるガキの頃から泥まみれで遊んでたけど、ある日を境に別人に見えた。その日から俺は妻一筋だ」
「……ある日って?」
「たいしたことじゃない。彼女が道で転んで膝小僧擦りむいて泣いてるのを、おんぶして帰っただけだ。いつもはべちゃくちゃしゃべってんのに、その日はなんかお互いなんにもしゃべんなかった。夕日で、小麦畑が赤かった。それだけだよオスカー。きっかけなんて、石ころみたいなもんでいいんだ」
「……」
「自分を騙すなよ。苦しくなるだけだ」
そう言って、アランは去った。
「……」
一人になった部屋の中、じっとオスカーは、クアックアッに囲まれながら、自分が考えるべきか考えないべきかを、じっと考えている。
◇ ◇ ◇
「オスカーさん!」
朝。ぐっすり眠った自分の体が軽いことに気付き、セシルは飛び起きオスカーの部屋に向かった。
朝だけど許してほしい。とんとんとノックすれば、それはすぐに内から開いた。
まだ寝ぐせのあるオスカーが、驚いた顔をしている。
「一晩寝たら治りました! お薬のおかげです。ほら元気!」
ぴょんと飛んで見せる。反応が悪いのでもう一回。
オスカーの手が額に伸びたのでじっとした。大丈夫な自信がある。
ほらねほらねと見上げる先で、オスカーがふっと笑った。
「無理してないな?」
「してません。むしろ今日もみんなに会えなかったら死んじゃいます。働かせてください!」
「……わかった。無理するなよ」
「してません!」
「そうか。レアンとノワが昨日の夜クゥクゥ鳴いてたから、朝一に抱いてやってくれ」
「わかりました!」
ダッシュでオスカーの部屋に入り、もぞもぞしているふわふわな塊を見る。
ぴこんと蜂蜜色のノワが飛び出した。セシルを見て、クアッ、クアッと鳴く。
その声につられるようにピコッとレアンも立ちあがった。こちらもクアッ、クアッ。
膝をついて腕を広げる。激突するみたいに二羽が我先にそこに埋まる。
ふわふわで柔らかな体。お日様のにおいと、雛独特の甘い香り。オスカーの部屋で彼にくっついて寝たからだろう、少しオスカーのにおいもする。
「おはよう。寂しくしてごめんね」
撫でていたら涙が出てしまった。大好き、大好きと思いを込めてその体を撫でる。少しだって離れたくない。セシルはこの子たちが大好きだ。
髪を食まれる。まだ手加減がわかっていないから少し痛いけど、その痛みさえ嬉しい。
「大好き」
クアッ、クアッ。可愛い声。今だけの声。ずっと聞いていたい。
「セシル」
「はい」
「これからは週一は休みにしよう。体を壊す」
「……話が違う」
ショックのあまり、セシルは震えた。
「風邪引いた罰ですか⁉ 何でもしますからそれだけは勘弁してください!」
「違う! さすがに毎日はやりすぎだまた病気になる!」
「働かないほうが病気になります! 目の前にランフォルがいるのに触れないなんて死んだ方がましだ!」
「……」
「我慢してる前でどうせ自分は働くんでしょう! ずるい! ひどい! オスカーさんの意地悪!」
「……」
想像してぶわっと涙が溢れた。オスカーが頭を抱えている。セシルは譲るつもりはない。これはセシルの生きがいだ。
「……そうなるのか。うん、そうだよな。わかった。これから何人か人を入れるから、そのつもりでいてくれ。やれることは手分けして、若い奴が入ったら俺たちで育てる。手伝ってくれるか」
「はい!」
にっこりとセシルは笑った。毎日働いてよくて、仲間が増えて、オスカーも楽になるならそれ以上のことはない。
「セシル」
「はい」
「セシルが入ってくれて本当に助かってる。これからもここにいて欲しい。だけど昨日みたいのはもう、なしにしてくれ。弱ってるのを隠されるのは、信用されてないんだなって気になって、寂しい」
「……」
「弱ったり、どこか痛かったら教えてくれ。俺は絶対に、セシルをいきなり解雇したりしない。頼むから、俺を前の上司と一緒にしないでくれ」
痛そうな顔でそう言うこの人を、自分は昨日傷つけたのだとセシルは気が付いた。
ぺスカに痛みの理由を隠されたときの悲しみを、セシルは知っていたはずなのに。
「……ごめんなさい。オスカーさん」
「うん。いい。こっちも悪かった。改めてこれからもよろしくな、セシル」
「はい」
右手を出されたので握った。目を合わせ、微笑み合う。
お日様の光が満ちる。今日も頑張ろうと、セシルは決意した。
くう、とおなかの音が響く。そういえば昨日はあんまり食べていなかった。
「飯行くか」
「はい!」
クア、クア、クアを引き連れて、今日もいっぱい食べるぞとセシルは食堂に進んでいく。




