1 面接
セシルは飛んでいる。
目の先には空が、どこまでも青く透明に広がっている。
冬の終わりの空気を胸いっぱいに吸い込み、白い息を吐く。
周囲を見渡し、タイミングを計って人には音の聞こえない笛を吹く。お願いの通りに上手に、彼は風に乗ってその翼をはばたかせる。
世界が回転する。ああ、気持ちいい。最初は少し怖がりな子だったけど、セシルにすっかり慣れてくれた。
楽しげに、生き生きと力強く風に乗る様子を涙が出そうなくらい嬉しく思いながら、セシルは腕を伸ばし、ふわふわな彼の首を撫でた。
「ん?」
ずいぶんいい動きするのがいるな、と思いながら、オスカーは訓練場を見た。
大きな鳥たちと、それに跨る人間、鳥の首紐を引き歩く者たちの姿がある。
その中で、動きがいい一組がいる。騎乗者はまだ少年だろう。背が低く身が細い。息の合ったいい動きで余裕をもって正確に飛び降りるべき場所に降り、ふわりと大鳥-ランフォルの背から地に降りた彼が、そのままランフォルの首に抱きついている。その短い蜂蜜色の髪をランフォルが敬愛の証として食んでいる。お前ら、仲良しか。
彼はそれに応え、愛しげにパートナーを撫でながら、しっかりと翼、足、爪の確認をしている。
ランフォルは賢い鳥だ。心通わす信頼した相手であればすぐに自らの負傷を伝えるが、していない場合は上手に傷を隠す。自分の弱みになるからだ。
おおいに信頼関係があることは伺われるのに、彼はしゃがみこんでわざわざその確認をしている。歳のわりに随分とランフォルの扱いに手慣れながら、基本中の基本をしっかりと守る様子が好ましい。
「あの子は誰だ? ジェフ」
「あの、右端の子かい?」
「うん」
「ラルジュ牧場のセシルだよ。ランフォル大好きないい子だけど、新しい経営者と合わなくて最近大変らしいなあ。まあ跡取りがあの馬鹿坊主じゃ、誰もが大変だろうけどな。ベンノはランフォルを育てるのは上手かったが、子育てはそうもいかなかったと見える」
「そうか……」
顎に手を当て、オスカーは考えている。
牧場ごとに飼育の方針は違う。厳しく、人間に従順になるよう育てるところもあれば、おおらかに、愛を持って育てるところもある。
あの子どもは完全に後者だろう。そしてその方針は、オスカーのものと変わりない。
「ラルジュ牧場のセシル」
忘れないよう、オスカーはその名を頭の中のメモに書き込んだ。
◇ ◇ ◇
「ふう」
セシルは大きな荷物を持って、ポスケッタという町のあるお屋敷の広い庭を歩いている。
セシルはランフォルの飼育員だ。祖父母がやっていた牧場で十二まで育ち、この四年間はラルジュ牧場で働いている。
前の牧場主ベンノさんは厳しいけどランフォルに優しい人で、セシルの言うことも、丸のみにはしないもののよく聞いてくれた。事故で死んだ祖父母の牧場の土地を引き続き借り上げ、負債も飼育中のランフォルたちもそのまま受け入れ、そこにセシルを雇ってくれた、セシルの大変な恩人だった。
歳をとって病気になり思うように動けなくなってしまい、屋敷の一室で静養している。ご飯を運んだり、シーツを変えたり、ベンノさんは気難しく、メイドさんにきつく当たってしまうこともあって、セシルがその役割を引き受けた。
『お前を解雇する。セシル=バルビエ』
呼び出されて向かった主の部屋で、セシルは新しい経営者にそう言われた。
嫌な予感はしていた。新しく牧場主になったベンノさんの息子は、ベンノさんと仲のいいセシルを、昔から徹底的に嫌っていた。飼育の方針もベンノさんとは真逆で、ベンノさんが元気なころはよくぶつかっていたものだ。
最後にベンノさんに会わせて欲しいというセシルの主張が受け入れられることはなかった。荷物をまとめ、セシルが担当しているランフォルの好みや、これまでの記録を牧場の仲間に渡し、皆とランフォルたちに泣きながら挨拶をしてセシルは長年暮らした思い出の牧場を後にした。
風が吹けば飛ぶような、一介の雇われ人。上の方針でセシルの首ごときどうとでもなる。
最後の命綱、受け取ったときは断ろうと思っていた一通の手紙を持って、セシルはこの土地に来た。雇ってもらうために。
大きな屋敷のベルを鳴らす。優しそうなお婆さんのメイドさんが微笑んで、セシルを一室に案内してくれた。
しばらく待って、誰かが入室してきたのでセシルは立ちあがった。
大きな男の人だ。背が高くて足が長くて、腕がとっても筋肉質。茶色の髪を無造作に後ろで束ね、青い瞳を見開いてセシルをじっと見ている。
「セシル=バルビエと申します。お手紙、誠にありがとうございます!」
「……」
男がじっとセシルを見ている。頭から、つま先まで。
何かそんなに見られるほど変な格好をしているだろうかとセシルは焦る。普段作業着か騎乗用の服しか着ていないから、スカートを履くのはセシルも久々なのだ。
それから彼の目がふと自分の前髪を見たのがわかった。そこは何故か一束だけくるんと上に向かってしまうのだ。揺れるからつい見たくなるんだろう。
「……君は」
「はい」
「女装癖があるのか?」
「………………はい」
ああ、絶対勘違いされたんだなと思ったので、セシルはなるべくきりりとした顔をして声を低くして答えた。ここで職にあぶれるわけにはいかない。セシルはもう、帰りの馬車代すら持っていない。
男が頭を抱えた。あ、この人苦労性だなと思った。なんとなくだ。
「なんで今いけると思った! ……女子だったか……」
「……ごめんなさい」
「……髪が短いのは?」
「ランフォルにかじられると痛いので、昔からずっとこうです」
「そうか。……いや、そうだよな俺が悪い。思い込みで、確認しなかった。……そうか。いたっておかしくないんだ。そうだよなよく考えれば少年にしたって、小さすぎるよな……っていうかどう見たって女子だろう。なんだ俺の目腐ってんのか。ダメだもう自分に自信が持てなくなってきた」
「……」
彼が激しく自分を責めている。真面目か。自分のせいではないぞと思うものの、こんな立派な男性がこうなっているのを見て、セシルはなんだかとてもいたたまれない。
「ええと……小さいですが力はあります。餌を運ぶのも、糞の掃除も、羽根や爪のお世話も、なんでもできます」
「……それは心配していない。それができない人間にランフォルが懐くわけがない。能力のことは飛んでる姿からわかってるつもりだ。……ただなぁ……」
がしがしがしと頭をかいている。手が大きいなあと思う。伏せられていた顔が上げられ、青い目がセシルを見た。
「……俺は独身だ」
「へえ」
へえ。
「そして君の部屋は、屋敷の中に一室整えた。一つ屋根の下、嫁入り前の若い娘が男と暮らすのか?」
「あ、だったら厩で寝ます。ランフォルと一緒に寝れば寒くもないですから!」
「そんな劣悪な職場環境があってたまるか! 夏は暑い、冬は寒い、糞もするし虫は出る! 羽根で放り出されて風邪ひいたらどうする!」
名案でしょうそうでしょうと身を乗り出したセシルの前で、男の手のひらがテーブルを叩いた。なんだこの人優しいな、怒るところがお母さんか。
正論で善意がありすぎてつけこめず、ぐぬぬぬぬとセシルは唸る。
待遇、労働環境、どれも魅力的なこのオファー。セシルはどうあっても手放したくない。
何より方針が魅力的だった。祖父と祖母が考えていた、ランフォルの気性を優先させる、自由な飼育。前のような、方針の違う牧場じゃもう嫌だ絶対にここで働きたい。
「わかりました。じゃあいいですお手付きにしていただいても大丈夫です! ランフォルのためならちょっとくらい嫌なことがあったって、血の涙を流して歯を食いしばって我慢します!」
「そこは我慢しちゃダメだろうもっと自分を大事にしなさい! 君はさっきから本当に! まったくもう!」
すごい怒った。ああ、この人絶対いい人だ。ちょっと面白い。
お互いテーブルに手を突き、譲らんぞという顔で互いを見ている。
やがて男が息を吐き、諦めたような顔で、椅子に腰かけた。
「まあ、そこは大丈夫だろう、とは、思う」
「ほう。ちなみに好みのタイプは」
「こう、……なんだ。……ッバーンとした、婀娜っぽい……」
「初対面で性癖の全開示ありがとうございますやったあ正反対! ちょろりんでよかった! 何も問題ないですね採用ですね! 『うちに来い』ってお手紙を信じて、行きの馬車代に有金全部はたいてもう帰るところのない可哀想な人間はどこにもいませんね! よかった!」
「……一人で全部出来る奴は正直喉から手が出るほど欲しい。まあ、……うん。採用する。俺が頼んで、わざわざ来てもらったんだから」
「やったあ!」
両手を上げてセシルはぴょんと飛んだ。神様ありがとう天国のおじいちゃんおばあちゃんありがとう。今度の主人が、すごくいい人そうでよかった。
「跳ぶな跳ぶなすごいな君のジャンプ力。今スカートなんだからやめなさい。やめなさい。やめなさい。……よし。早速騎乗服に着替えて来てくれ。牧場と、皆を紹介しよう」
「はい!」
嬉しい。楽しみで仕方ない。セシルはホッとして、満面の笑みを返す。ふっと男が笑った。
「申し遅れた。オスカー=オークランスだ。よろしくセシル。遠くから、うちに来てくれてありがとう」
「セシル=バルビエです。お声がけありがとうございます。これからよろしくお願いしますオークランス様」
「固い」
「じゃあ、……オスカーさん」
「一気に飛んだな。それでいい」
雇用成立と親愛の握手。やっぱり大きい手だなとセシルは思った。