第一話 大樹の根元に住まう者 後編
大樹の根元に住まう者 後編
長老に連れられて向かったのは、年賀の挨拶に使われる大広間ではなく、城の奥にある謁見の間である。大広間と比べれば小さな部屋だが、一つの部屋としてはかなり大きい部屋であった。中には、長老も共に入るものと思っていたが、扉を守る衛兵に止められてしまった。入ったこともない部屋に一人で入ることになったユニは、手汗を裾で拭ってから衛兵に目配せをした。
上座に掛かる御簾は半分ほど開けられていて、ちょこんと座る女王の顔がよく見える。彼女の前にずらりと並んでいるのは、この国の中枢を担う大臣たちである。彼らは皆一様に、値踏みするような視線をユニへと向けた。袂に隠した口元から漏れるささやきは、決して好意的なものではない。だが、面識もない老人たちにまで悪し様に言われるような真似には心当たりがなかった。気にするだけ無駄だと思うことにして、ユニは裾に隠れた手の甲を重ね合わせるようにして掲げ、頭を垂れた。
「ユニ・レイ、仰せに従い、罷り越してございます」
「御足労をかけました。どうぞ、お顔をあげてくださいませ」
鈴を転がすようなかわいらしい声音で声をかけられ、ユニはゆっくりとなるべく優雅に見えるように気を付けながら頭をあげた。年賀の恒例行事で挨拶するときは、他の大樹の御使いも揃っている。単身謁見することなど、これが初めてのことだ。謁見用の礼儀作法は叩き込まれているが、いざ実践するとなると不安が多い。これからはもっと真剣に覚えておこうと心に決める。
ユニをまっすぐに見つめた女王は、年若いというよりも、幼いといった方が正しいくらいの見た目をしていた。事実若い。ユニよりも三つばかり上だったはずだ。この国では十を過ぎたあたりで働き始める者も珍しくないが、一国の長として立つには幼さが際立つ年齢だろう。いくらアラウレナに、記憶を継承するという特異性があるとしても、精神性まで老成して生まれてくるわけではない。
若干の同情を寄せるユニを知ってか知らずか、女王は眉を下げ、済まなさそうにほほ笑んだ。
「あなたには、北の区域へ、視察に行っていただきたく、お呼びたていたしました」
「北の区域、ですか」
思わず復唱したユニに、女王は、ええ、と静かに頷いた。何の気ない動作が、ユニのせいいっぱいよりも格段に優雅なしぐさになる。女王に生まれるべくして生まれた者の気品がにじみ出ているのだろう。対して、ユニを取り囲むように集まっていた臣下たちの態度は、品位という言葉にいささか不似合いなものだった。
「お若い大樹の御使い殿におかれましては、北になんぞ隔意がおありか?」
「女王の御前であるぞ。返事は諾のみと心得よ。年若さでは不敬の免罪符になりはせぬ」
多くの者が、長老のように老成した翁である。重ねてきた年月がそのまま老獪さに繋がればまだましだろうが、彼らの姿は浅ましさをより強調させる結果となっていた。負け犬の遠吠え、という言葉が脳裏に浮かぶ。事実、幾分か年若い―――とはいえ、壮年と初老の狭間のような年齢だが―――大臣は、口さがない様子を見せることなく、静かに事の成り行きを見つめていた。星々を模した特徴的な帽子をかぶっているということは、あれは星読宮の大臣だろう。
(黙っているだけで思慮深く見えるなんて、随分程度の低い職場よね。まあ、苦労は多そうだけど)
この場で三番目に同情を向けられるべきだと評定を下す。勿論一位はこの国の女王で、二位はユニ自身である。ともあれ、我慢が出来なくなったユニが嫌味を囀るだけの老害に呆れた視線を向けることになる前に、女王の涼やかな声がそれを止めた。
「皆様、どうぞ、お静かに」
静かな水面のような瞳に見つめられると、大臣たちは極まりが悪そうに口を噤む。口は禍の元だ。たしなめられて視線を外すくらいだったらやらなきゃいいのに、と思いながら、ユニは女王をまっすぐ見つめた。女王の隣には、大柄の犬の獣人が立っている。あれが噂に聞こえたかい犬将軍か、とユニは今更ながらに思った。彼がきっと、この場で唯一最大の忠誠を女王に対して持っている臣下になるだろう。巨体をピンと伸ばし、ぴくりとも動かず場を見据えている様子からは、女王を守ろうという強い意志が感じられた。
「この二日で、同じ区域の別の村から、相次いで今年の免税願いが申請されました。食糧庫の蔵の中身が全て消えたため、というのがひとつ、作物が全て消えたという申し立てがふたつ。どちらも看過できるものではありません。大樹の御使いに、調査を依頼いたします」
「大樹の御使いの名において、謹んで拝命いたします」
答えはもちろん是である。それしか許されないのはもちろんだが、免税願いが妥当かどうかの視察に行くのは大樹の御使いの役割のひとつだ。餅は餅屋、ユニが引っ張り出された理由はともかくとして、大樹の御使いの派遣は理にかなっている。
だが、もともと北の区域には多くの大樹の御使いが旅をしているはずである。経験不足のユニなど引っ張り出さなくとも、彼らのうちの誰かに依頼をすればいいものを、どうして大樹の膝元にいる若輩者に白羽の矢が当たったのだろうか。
内心で首を傾げていると、ゴホンと咳払いした犬将軍が、答えをくれた。
「件の地域におられる大樹の御使いたちは、他の任務で多忙と推察される故、大臣たちから大樹の膝元からの派遣が提案された。貴殿には、ぜひここにいる者の総意と思って、真摯に勅命を全うして欲しい」
「かしこまりました。この膝元にいるだけでも、各地の異変を数多聞き及びます。微力が心苦しゅうございますが、全霊をかけて任務に当たらせていただきます」
努めて丁寧に礼を取り、ユニは肯った。うむ、と満足そうに頷き、犬将軍はなおも続ける。
「また、貴殿も承知していると思うが、昨今、隣国から心無い行いを受け続けている土地である。か弱き乙女ひとりを送り込むは心痛であらせられると陛下は仰せだ。したがって、我が国が誇る竜兵二名に、同行させることにする。不服はないか」
「不服」のところで、老人たちの目がぎらりと光った。どういう不服だろうか。ユニに否やがあろうはずもない。ユニが少女であるのに、同行の兵が男性となるからだろうか。しかし、仮にも将軍を組織の頂きに置く竜軍の者が、護衛対象に無体を働くとは思えない。護衛をつけてくれるというのならば、身の安全が国家に保障されたも同然である。それも、竜兵ということは、おそらく竜に乗せて連れて行ってくれるということだろう。たしかに、あの辺はかなり物騒な土地になったと聞く。そこまで考えて、ユニは、ようやく今回のからくりに気が付いた。
「格別のご温情を賜りますこと、身に余る光栄でございます。どうぞよしなにお取り計らいくださいませ」
どうということはない。女王の臣下といえど、その忠誠は多岐に渡る。
地の国からの襲撃に加え、土砂災害や突然の凶作など、近年北の区域から寄せられる陳情は枚挙にいとまがない。それらの全てに対して、対象の村を調査し陳情を述べているのは周辺を旅している大樹の御使いである。あまりにもその数が多いので、彼らは疑ったのだ。大樹の御使いと土地の者が癒着して、虚偽の報告をしているのではないか、と。
北を旅する大樹の御使いのほとんどが壮年の男である。当然、少女のユニとは、あまり接点がない。彼らと仲が良ければ、一緒になって隠ぺい工作をするかもしれず、消去法で中立に居そうなユニにお呼びがかかったのだ。
大樹の御使いの不正を疑われているというのは、はっきり言って不愉快だったが、場所が北の辺境区域とすれば、疑われる要素があるのは確かだ。
女王に献上するはずだった税である。物も一級品で、まとまった量もある。何もかもが不足している地の国に売りつければ、そりゃあ高値で売れるだろう。この国から地の国への輸出ルートがあるのも、唯一北の辺境区域のみ。もともとの荷に紛れ込ませるのならば、滅多なことでは検閲など入らない、絶好の密輸ルートである。
そうして私腹を肥やしているのではないかと、大臣たちは考えた、というわけだった。
ユニの予想はそう大きくは外れていないだろう。何しろ、人は自分がしていることは他の者もしていると思うものである。つまるところ、北にいる大樹の御使いを疑ったお歴々は、大なり小なり何某かの手段で私腹を肥やしている、ということでもあった。
(十分いいお給金いただいてるでしょうに……)
質素倹約が基本で、生活のほとんどを大樹に捧げているユニたちには、給金というものがない。女子には機織りや刺繍などの道具が与えられ、上達すれば市で売ってわずかな小遣いにするというのが精いっぱいだ。たまに、大人の御使いと出かけて、お菓子を買ってもらうのが年下の御使いの楽しみである。別段それに不満はないが、業突く張りな老人を見て、思うところがないわけではない、というのが正直なところだった。
大臣たちの思惑はどうあれ、ユニのすることは一つである。与えられた任務だけ見ると、とんだ大抜擢なのだ。今まで近郊の視察に随従していったことしかないユニが、単身辺境地区の視察を行うのである。
(まあ、なんとかなるでしょ!)
何せ勅命である。失敗したら首が飛ぶ……ことはないだろうが、一生の汚点になることは間違いない。しかし、このときユニは、若さゆえにか、それほどまでに困難を感じていなかった。むしろ、まだ見ぬ土地へ旅をする憧れのような感情が、それを上回っていたのである。
***
「待たせたな、ふたりとも。この子が、明日から護衛を頼むことになった大樹の御使いだ」
謁見の後、犬将軍の部下だという鰐の獣人に連れられて引き合わされたのは、ふたりの竜軍兵である。彼らが、明日からの道中、ユニの護衛をすることになるらしい、というのは、この道すがら速足で歩く兵士に聞いた概要であった。
柱にもたれかかるようにして立っていた青年が、こちらを見て背中を浮かして姿勢を正す。それに片手をあげることで答えた鰐顔の兵士は、軽い挨拶と目配せだけで彼にユニを託し、すぐに謁見室へ戻って行った。もともと、扉の前を警護する役目を仰せつかっていたところを、ユニのために抜け出してくれた人である。お仕事お疲れ様です、と心の中で礼を述べ、ユニは目の前の青年に向かい合った。
「お初にお目にかかります。大樹の御使いのユニ・レイと申します」
年はユニよりも少し上だろうが、すらりと背が高い。来ているのは竜騎兵の制服である。思わず見上げた顔は端正で、街を歩けば年頃の少女たちの熱視線を受けること間違いなし、といった顔立ちをしていた。しかし、毎日「この世界で最も美しい」と言われる大樹を間近で見上げて育ったユニは、もはや人間の美醜、とりわけ「美」の方への関心が薄い。キッカの顔を見ても、きれいだなとは思うが、それだけである。
「私がキッカ、こちらはハヤテと言う。」
名乗ったユニに、紫色の髪をしたキッカが生真面目な顔で頷いた。しかし、その場に座り込んで待っていたハヤテは、つまらなさそうに口を尖らせたまま、ぐるりと首をひねるだけでユニを見上げる。ようやく顔が見えたと思ったが、その様子はお世辞にも友好的とは程遠かった。ところどころ泥で汚れた軍服は、竜歩兵のものである。礼儀正しそうなキッカとは違い、ハヤテは獰猛な獣のようだ。ぎろりと赤い目で睨まれ、思わずたじろいだユニを見て、キッカがまなじりを吊り上げた。
「こら、ハヤテ! 初対面で相手を威嚇するなと何度言えば分かる!」
「威嚇なんてしてねーよ! いーっだ! キッカのバカ! アホ! オタンコナス!」
座ったまま地団駄を踏むといった器用なことをして見せたハヤテの行動はまるっきり子供のそれである。ユニは目を丸くしてキッカを見上げた。
「……すまない。見た通り、竜人族だ。こいつは特に血が濃くて、大樹の御使い殿からすれば不愉快な態度を取るだろうが、悪気はない。護衛の任務は責任もって行うから、安心してほしい」
どうやら彼のこの態度は通常のようだ。ユニが特に嫌われているわけではないらしい。諦めの濃いキッカの表情を見るに、ふたりの仲は良いのだろう。単なる呆れよりは、長い付き合いの中で得た諦念のような気安さが見えた。
同じ竜族といえど、どの部分に竜の特色が強く出るかは人による。ハヤテは背中に翼が生えているところを見ると、竜人と呼ばれる類の半人半竜のようだった。竜人はその力が竜そのものに近いため、尋常な脚力や頑丈さを持つ。かわりに、感情などの感性の部分も獣の質に引きずられるのか、ハヤテのように子どもっぽい言動をするものが多い。
対してキッカはと言えば、頭の角以外、見目はほとんど人と変わらない姿をしていた。竜騎兵と名乗ったからには、竜使いということだろう。竜とは本来誇り高く従属を望まない生き物である。その竜を完全に使役することが出来るのは竜族の中でもほんの一握りなのだと聞く。滅多なことではお目に掛かれない竜族を前に、ユニは慌てて頭を下げた。
「こちらこそ、至らぬ身ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
たった二人と思っていたが、これは思ったよりも少数精鋭のようだ。
名目上は、該当地の視察である。今なお侵攻を繰り返している地の国の脅威がある土地ゆえに、護衛をつけるというならば相応の処置だろう。実際のところ、大樹の御使いであるユニが虚言をしないかどうかの見張り……と言ったところか。年の頃をそろえてもらっただけ、女王や犬将軍の気遣いが感じられた。
「ハヤテ! 挨拶くらいしろ!」
「ええ~? さっきお前が言ったんだからいいじゃん! あんた、大樹の御使いなんだって? へえ~! 大樹の御使いって、ほんとに世界樹と同じ色してんだな!」
「きゃ!」
じろじろと不躾に見上げてきたかと思えば、折りたたんでいた背中の翼をばさりと広げる。気分屋を絵にかいたような言動はまさしく子どものそれだ。
ぶわりと舞い上がる風で視界が遮られ、気が付いた時には、ハヤテはすでに見上げるほどに高いところに飛び上がっていた。さっきまで座っていたというのに、なんという跳躍力だろう。
「おい、ハヤテ!」
長い謁見服の裾が風をはらんで大きくたわむ。慌てて裾を押さえるユニの横で、キッカが咎める声をあげた。
「へんっ! もういいだろ! だいたい、なんで俺がこんなちっこいのの護衛なんだよ! 俺はなぁっ! 地の国の奴らをぶっ潰すために軍に入ったんだからな!」
言うが早いか、ハヤテは一度強く羽ばたき、あっという間に飛んで行って、姿が見えなくなってしまった。
「すまない、悪いやつではないんだが……」
「い、いえ、お気になさらず!」
安易に他者に従属しないドラゴンが色濃く混ざった獣人が竜人族である。それが軍に所属して、竜軍が出来た。地の国と違い、なんの科学技術も持たない緑の国が、小手先の侵攻程度では小動もしない理由はひとえに彼らの戦闘能力にある。
その彼らの護衛対象が、こんな小さな少女ひとりでは、気に入らないのも当然だろう。矜持の発露が子どもっぽいのは否めないが、面と向かって文句を言うだけ、先ほど謁見室で並んでいたお歴々よりははるかに信用できる相手だった。
「君には俺と一緒に私の竜、カトルの背に乗ってもらう。明朝、日の出とともに出立するが、構わないか?」
「恐れ入ります。手持ちの荷物はいかほど載せられますか?」
「君が一抱えできる程度ならば問題ないだろう。他に質問は?」
「ございません」
ともあれ、キッカはきちんと話をしてくれるようだ。おそらく、この人選はそのあたりのさじ加減も込みのものなのだろう。まったくもって、女王の心遣いが身に染みる。
「ああ、ひとつだけ、注意をしておこう。明日はそのような裾の長い服は、危険だ」
竜に乗るとは言え、宙を飛ぶ。生真面目な顔で注意をしたキッカに、ユニは表情を緩めて肩をすくめた。
「ご心配なく。こんなずるずるした長い服、謁見でもなきゃ着てませんから」
顔には動きにくい、と文句が書かれてあるだろう。心の底からしみじみと言ったユニを見て、キッカと名乗った青年はククッと笑みを落として頷いた。
「そうか、すまない。明日はよろしく頼む」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
ユニは里にある自室に戻るべく、なるべく優雅に見える動作で礼をした。
***
ふわふわのくせっ毛をふたつの三つ編みにしたユニは、言われた通り一抱えほどの荷物を布で包んで背中にしょい込み、まだ夜が明けきらないうちに部屋を出た。昨日の謁見服とは打って変わって動きやすさを重視した旅装である。生成りの丈夫な生地に、薄紫一色で刺繍を施したその衣装は、大樹の御使いが旅に出るときに身に着けるものだ。袖は手首を覆うまであるが、袂はない。裳裾も膝丈で、中には洋袴に似た内履きを身に着けている。革ひもで結い上げて脛まで覆う長靴に、上空の寒さを考慮して薄手の綿入れも羽織っている。
ユニとしては自分が旅に出る予定もなかったが、他の御使いたちの助言を得て、ひと揃え作っておいたのだ。亀の甲より年の劫とはよく言ったもので、普段は小言が多い大人たちの言うことも、たまには役に立つものである。刺繍は基本的に自分で刺すものだから、そう何度も作りたいものではないが、使わないまま着られなくなるよりはこうして着る機会がある方が嬉しいものだ。
指定された場所まで行くと、キッカとハヤテはすでにそこにいた。
昨日の態度を見る限り、ハヤテはいないのではないかと思ってたが、任務はきちんとさせるといったキッカの言葉通り、仕事はちゃんとこなすらしい。
近づいていくと、未明の薄暗がりの中、大きな竜が地に伏せて目を閉じているのがはっきりと見えた。
遠目から見ると小山のような黒い塊が見えているだけだったが、近くで見ても大きい。確か、昨日キッカはカトルと呼んでいたから、それが名前なのだろう。まだユニが一人前の大樹の御使いになる前に、象という鼻が奇妙に長く、大きな動物を見たことがあるが、カトルの身体はそれと同じか、それよりも大きいのではないかと思われた。
象は大人しい動物で、象使いを名乗る男が指示したとおりにぴたりと動かなくなり、おもったよりも優しい様子に安心したユニは、鼻を撫でさせてもらいに行ったのだが、巨大な竜が微動だにしない様子は、むしろ警戒心を抱かせた。ひとたびユニが彼らを害そうと境界を犯せば、うわべの大人しさを脱ぎ捨てた獰猛な竜はあっという間に咢を開くのだろう。
キッカに呼ばれるまでは離れて待っていた方がよさそうだと判断したユニは、おはようございます、と声だけかけてから、少し離れた場所にある木の下に移動した。
竜の背には、布でできた鞍がつけられており、さらにその上に木の皮で編み込まれた篭が固定されてつつあった。
キッカは、最後の固定用の縄を竜の首につけた金具で固定し終わったところらしく、つややかな竜の鱗をひと撫でして、具合を尋ねるように竜を見上げる。竜の声はユニには聞こえなかった。おそらく、キッカにしか伝わらない念のようなもので意思の疎通を図っているのだろう。
竜軍のための竜舎がある訓練場の一角である。すぐそばにある建物から、誰かがやってきてキッカに話しかけた。ユニは軍服に詳しいわけではなかったが、おそらくキッカの随従をやっている見習い兵だろう。少年特有の華奢なシルエットは、キッカに指示を仰ぎ、一礼した後またすぐに建物へ向かって走って行った。
やがて、竜との対話を終えたらしいキッカが、ハヤテに向かって何か声をかける。ユニの方を見たからには、出立を促したのだろう。竜の尻尾に背中を預けて居眠りの体勢を取っていたハヤテが、くわりとあくびをしてのそのそと起き上がった。
「待たせた。大樹の御使い殿、こちらへ」
「あ、はい!」
出立の挨拶は、ほとんどなかった。先ほどやってきていた少年兵が、建物の陰から敬礼をして見せているだけである。今回の任務が独断行動を許されているのか、竜軍がそういうものなのか、それともキッカとハヤテが特別なのかは分からなかったが、急ぎ出立したいというハヤテの思いは伝わって来た。
もちろん、一刻も早く現地に着きたいのはユニも同じである。否やがあるはずもなく、キッカに促されるままに手を取った。ぐいっと引っ張り上げられた力は、やはり人のそれよりも力強い。正常な成長をしているはずのユニでも軽々と持ち上げて、あっという間に篭の中に入れられた。大樹の根のように自力で登ろうと思っていたユニは、少し拍子抜けしてしまう。
「なんだ?」
「いえ、なんでもないです」
「カトルは大人しいが、飛んでしばらくは安定しないから、しっかりと篭に掴まっているように」
「はい。よろしくお願いします」
言われた通りに前を向き、篭の中にあった取っ手のような箇所をしっかりと握った。キッカが乗るのは鞍の上、つまりは篭の後ろである。ユニ一人がゆったりと入ることができる大きさの篭は、座り方さえ決めてしまえば案外居心地がよさそうだった。
ごそごそとスカートの裾を直し、荷物を肩から外して前に抱え込むと、ユニの準備が整ったのを見計らったキッカがぴゅい、と笛を鳴らした。
竜がその巨体を持ち上げるのと同時に、篭がぐらりと大きく揺れる。ユニは慌てて身を固くしたが、手綱を握ったキッカは慣れたように笛を長く吹き、上昇を促した。
ふわりと、思っていたよりも優しい風が巻き起こる。
(あ、案外大丈夫かもしれない……?)
さすが、大人しいと評価されるだけある。昨日のハヤテを思い描いていたために、覚悟していた半分の衝撃もなかった。
しかし、安心するよりも先に、耳鳴りが聞こえ始める。なんだかお腹の中心がぞわぞわして、自分が妙に浮き上がっているような、奇妙な感覚がして、ユニは思わず目を閉じた。決してどこかが痛いわけでも冷たい風が吹きつけてくるわけでもなかったが、たとえようもない現象にぎゅっと強く手を握りこむ。
(え、どうしよう、これがずっと続いたら、辛いかもしれない……っ)
しかしながら、ユニたちを乗せた竜は、ぐんぐんと高度を上げている。風の抵抗がないことに気付いて薄目を開けても、もはや周囲には何もなくなり、遠目に山の影が見えるだけだ。いまごろ、誰がユニの代わりに大樹へ祈りを捧げているのだろうか。そういった采配は全て長老がするものだから、若輩者のユニは何も聞いていない。とにかく、この奇妙な感覚をやり過ごそうと、心の中で祈りの文句を唱えていると、短く区切られた笛の音が二度聞こえた。竜の上昇が止まり、翼の音が滑空に変わった。
祈りの文句が全て唱え終わるころには、浮遊の奇妙なざわつきがなくなっていた。どうやら上昇の時にかかる負荷だったらしい。
時は払暁。太陽が山嶺に添って、その暖かな光の色を人々の住まう麓にまで届かせようとしていた。