第一話 大樹の根元に住まう者
緑の国には女王がいた。女王が守る世界樹は、それはそれは大きく、美しい樹だった。あるとき、平和だった緑の国の豊かさを狙い、隣国の地の国が侵攻を繰り返すようになる。痩せた土地に、持て余すほどの技術力。この世界で唯一石炭による産業革命を成し遂げた地の国は、その科学の力で緑の国を、そして海底にある水の国にまで、さらなる安寧を求めて手を伸ばした。
そんな折、緑の国の女王のもとへ、未曽有の天災が繰り返し報告されるようになる。最初はほんの些細なことだった。女王がそれと気づかぬうちに、見過ごせぬほどの被害が国中に広がっていく。歴史を紐解いてみても、記録にはない。憂えた女王は、大樹へと祈った。
それを聞き届けた者がいる。
少女の名前はユニ。大樹の根の麓で育ち、大樹の御使いとして祈りを捧げる齢十四の少女だった―――。
小高い丘を急ぎ足で登る少女がいた。年のころは十五かもう少し下だろうか。均等に波打つ髪は白。よく見れば毛先が淡い紫色に染まっている。髪の色に倣うかのように白い素肌は、弾む息とともにほんのりと上気していた。山吹色の瞳は、まっすぐに丘の上の大樹を見据えている。もっとも、視線を後ろに巡らせない限り、目の前に聳え立つ大樹が巨大すぎて、大樹を視界から消すことなど不可能なのだが。
少女が足早に目指す大樹こそ、この世界の要である山吹咲萬樹であった。
通称世界樹の名にふさわしく、この世で最も大きな生命である。
少女は、まさにその世界樹の根元に用があった。世界樹の別称は数多くあり、その一つが大樹と言う。それほどに大きな樹が他にないのだから、これ以上なく簡潔な呼び名であろう。ともかく、彼女の意識の中でもっとも身近な呼び名がそれであった。
息を切らせて丘を登り切った少女は、ふわりと髪を揺らして大樹を見上げた。この世で最も美しい樹とも呼ばれる世界樹は、いつも通り神々しい様子で輝いていた。
否、比喩ではない。真に輝いているのである。
遠目に見れば白く光った樹が聳え立っているように見える世界樹は、その実、その幹も枝葉も根も、わずかな先に至るまで全てが淡く輝いている。よくよく目を凝らせば、その輝きはどこか透明で、虹色にも見える。葉の先だけ、ほんのりと淡い紫色に見えるのは、目の錯覚なのかどうか、少女には分からなかった。何せ、葉先が紫がかっているのは葉が枝についている時だけで、一度枝を離れてひらひらと舞い、地に落ちてしまえばその色は消え失せてしまうのだ。間近で見なければ分からぬその美しい色合いを惜しむものの、どんなに言葉を尽くしてもその美しさは言い表せるものではない。その神秘的な色合いは、言葉でもって表現しようとすれば白く輝くとしか言えないのだ。
少女は目に焼き付くような神秘の白を中和させるように目を伏せて、足元へ視線を落とした。ごつごつとした大樹の根は、その巨体を支えるにふさわしく、幾度も隆起を繰り返してから地面へと潜っていた。
少女は隆起した根元の上によじ登った。やがていくつかの隆起を超えて他よりもいくらか平たい場所にたどり着くと、丁寧に衣服を整えてから、その場に額づいた。
地に膝をつけ、座位で大樹を仰ぎ、裾と袂に気を付けながら大樹に手を衝く。不思議と大樹は温かい。熱を持っているわけではないが、冷たさを感じたこともなかった。そのまま、少女の額は文字通りに大樹の根にひたりと付けられる。
世界樹を守る女王アラウレナが国を開いてすでに数千の歳月が流れた。古にあった跪拝の礼はすでに廃れ、即位式ですら起立したままの礼になって久しい中、儀式の中に跪拝が残っているのは、世界樹に祈りを捧げるこの儀式のみである。
しかしながら、少女の心にあるのは奇妙な安堵であって、卑屈さや矮小さはない。この大樹を前にすれば、自然と首を垂れるのが必定なのだ。この祈りの儀式は、大樹に魅入られ、全てを取り払った無垢な心を端的に表すために決められた約束事に過ぎなかった。
意識をして息を深く吐き出し、祈りの文句を朗々と謳いあげれば、儀式は終わりだ。深く頭を垂れ、額づくことで大樹と一体になったような奇妙な錯覚を受ける。最後の一息まで丁寧に唄った少女は、名残を惜しむようにゆっくりと背を起こした。
「ここにいたのですか、ユニ・レイ。探しましたよ」
儀式を終え、裾を糺しながら立ち上がった少女に、声をかける者がいた。少女よりも一回り年が上の、若者である。彼の髪は肩までで切りそろえられていたが、色は白く、やはり毛先だけほのかに紫色をしていた。
「お手数をおかけしました、レテ・ロウ。朝の祈りは滞りなく終わりました」
登るのには骨が折れるが、降りるときは一瞬だ。ふわりと髪を波打たせて飛び降りた少女は、若者を見上げて簡易な礼を取った。
「結構。長老がお呼びです。謁見用に、衣服を整えてから長老のところへおいでなさい」
少女と全く同じ色の瞳で見下ろした青年は、表情を変えることなく淡々と用件のみを告げる。四角四面、不愛想を絵に描いたようなこの若者が、少女はかなり苦手だった。だが今日は青年よりも、告げられた内容の方に意識が行く。謁見、と彼は言った。この国で謁見するべき対象はたった一人、この世界樹と根元でつながっているアラウレナ、女王・愛蓮華音のみである。
世界樹のある丘は、元は丘ではなかったらしい。何万、何十万年という長い年月を経て、世界樹の根元にまで流れ着いた砂塵が固まり、丘になった。つまり、丘全体の地中には世界樹の根が張り巡らされているということだ。
その巨大な世界樹の根は、地中奥深くまで延び、王宮の最奥にあるアラウレナの根株がある地底湖に繋がっている。
その地底湖には、一面にアラウレナの株が伸び、それはそれは美しい光景なのだということだが、大樹の御使いはそこへ入ることを許されない。話に聞いて想像することしかできない場所である。アラウレナという特殊な種族は、基本、根株のある場所から動くことは出来ないのだが、女王となった彼女だけは、アラウレナの葉で身をくるむことで王宮の中だけは移動が可能なのだという。その彼女に呼ばれている、ということだ。もちろん、ユニに呼ばれる心当たりなどない。
詳細の説明が欲しいと思ったが、目の前の若者がそんな質問に答えてくれるはずもなかった。現に今も、早く行けとばかりにこちらを冷たい目で見降ろしてきているのだ。彼が望む答えは是の返答のみ。少女は嘆息をお辞儀の中に押し隠し、言葉少なに辞去の挨拶を述べると若者に背を向けた。
何はともあれ、着替えである。謁見用の衣服は着るのも整えるのも難しいのだ。それでなくとも、この奔放な髪をひっつめなければならない。神にも等しい女王の御前に侍るのに、こんなくせっ毛のままでいられるわけがなかった。
「あーもうっ! 年始の挨拶でもないのに謁見って、どういうわけなの~!」
半泣きで自室へと駆け込んだ少女の後を追うように、朝日が差し込んで温かくなった野原で小鳥の群れが鳴いていた。
大樹の御使いと呼ばれる者たちがいる。彼らは揃って大樹の葉と同じ色の髪と大樹の名と同じ色の目を持ち、大樹に祈りを捧げ、大樹のために生きていた。彼らの多くは、国中を歩き、各地に異常がないかを見て回り、この場から動くことができぬ世界樹や女王の代わりの耳目の役割を担っているが、ほんの一握りの者は丘の麓の小さな集落に質素な居を構え、大樹を見守りながら日々を過ごしていた。
その、ほんの一握りの中に含まれているのが、少女ユニ・レイである。
年は十四、小さな集落に住む者の中で、三人の子どもを除けば、最も若い大樹の御使いであった。
大樹の御使いは、みな少女と同じ色をしている。まるで世界樹に染められたかのような白い髪に、山吹色の瞳。それは集落に住む者の誇りでもあった。彼らは皆、生まれが同一というわけではない。その集落に住み、大樹に祈りを捧げていると、大樹の御使いと認められる頃にはその色に染まってしまうのだ。事実、ユニ自身も子どものころは別の色の髪と目をしていたが、祈りを覚え、大樹の御使いの仕事が出来るようになるころにはこの見目になっていた。
国の乱れは大樹の乱れ。国の様子に揺らぎが出るということは、大樹に揺らぎがあるのと同義。大樹の御使いたちの役目は、諸国を歩く者たちからの情報から異変をいち早く察知し、大樹に祈りを捧げて国を整えることである。
大樹の御使いと呼ばれる者たちが、いつからここに住むようになったのかは誰も分からない。この国の女王アラウレナと同じである。そこに住み、何をしているのかは知っていても、果たして千年前からいるのか、二千年前からいるのか、そういった正確なところは分からないのだ。
ともかく、重要なのは現在のところ大樹の御使いはこの国の女王の耳目として存在しているということである。
身支度を整えたユニは、謁見用の衣装に身を包み、香油でまとめた髪を固く三つ編みに結い上げて、しずしずと長老のいる奥の間を目指していた。
柱と屋根だけの回廊からは、どこからでも世界樹の丘が見える作りになっている。朝の太陽光を受けて煌めく世界樹の美しさは自然と背中が伸びるものだったが、今日のユニの背中はいつもよりもまっすぐに伸ばされていた。
女王にお目見えする緊張もあるが、謁見服のせいでもある。うち履き用のやわらかな布靴がすっぽりと隠れてしまうほどに丈の長い裳裾に加え、袖も長いのだ。まだ成長途中の身、せめて来年の年賀の挨拶にも着られるようにと、少し大きめに誂えた衣装の袖は、めいいっぱい肩を上げ、背筋を伸ばしていないと床に落ちてずるずると引きずってしまうのだ。
すでに裳裾は引きずっているようなものなのだが、これはそういうものらしい。丁寧に縫い込んだ刺繍が床と擦れて毛羽立ちはしないがひやひやしたが、ユニの到着を待ち構えていた若者は、ユニのささやかな乙女心など意に介さず、冷たい視線で早くしろと訴えてくるばかりだった。
とはいえ、慣れぬ長裾の謁見服で歩くには難儀する。服をたくし上げてバサバサ歩いていいのならばいざ知らず、しずしずと歩くのが関の山だ。ユニは努めて視線を気にしないようにしながら、長老の前で立礼の形を取った。
「ちと面倒なことになっておるでの。すまんが、ユニ・レイ、お前さんに頼みがある」
この国の朝は総じて早い。いささかくたびれた面持ちの長老は、すでに謁見を終わらせてきた後のようだった。
「それが大樹の思し召しでしたら」
「うむ。詳細は、主上や大臣様方から聞かされよう。さあ、ついておいで」
長老からだろうが、女王からだろうが、頼みも命令も同様にユニに拒否権はない。彼女に許されているのは従順な態度だけである。だが、難題と分かりきっている事柄を、できれば快く聞き入れたいと思う程度には、長老の人柄は好ましかった。
季節柄、この時期の大樹の御使いはやるべきことが多い。皺の多い顔に疲労をにじませた長老をいたわるように、ユニはせめてと笑みを見せるのだった。