芍薬
翌日も、イオは朝食後の時間にお見舞いに来てくれて、芍薬を持ってきてくれた。
隣であぐらをかいた彼から花を受け取って眺める。
彼は同じ部屋の入院患者にも「どうぞ」と芍薬を配って回っていた。
私は静寂が好きだ。
だから読書が好きだし女学校時代の趣味会は華道会を選択。
手習まで出来るような、かなり裕福な家ではないけど、華道は難しいことでなければ家で一人でも可能。
授業と趣味会で知識を得られたので、あとは好きなようにしている。
茶道だとお茶、お菓子、道具、趣味仲間など色々必要だけど、華道は追及しなければ、草花を摘んできて家にあるものや身の回りにあるものに生けるだけ。
お気に入りの花を眺めつつ、静かに読書するのが私の贅沢。
今は右手が使いづらいので花カゴに芍薬を思い通りに生けることは難しいけど、今いる場所に花を飾ることが出来るのはとても喜ばしい。
だからこの二度目の芍薬は嬉しいし、一度目は別の人の手から渡されたので、その時とは気持ちが少し異なる自分にも気がついた。
「ほとんど知らないって言われたから色々教えたいんだけどまず俺の何を知ってる?」
「私こそ問いかけたいです。何も知らないはずなのにいきなり結婚したいとはおかしいと思います。少し接して性格が合わないのは明らかなのに、なぜいらっしゃるのですか?」
微笑んでいるイオは右手を軽く前に出して人差し指だけを伸ばした。
「まず命が脅かされている時にミユちゃんは友人を優先していた。俺に助けてと一言も言わなかった。応急処置中もずっと一緒にいたスズさんって子の心配ばかり。人の本性が現れる時に君はそうだった」
自分の何を知っているのかと問いかけたのは私なのに、こうハッキリと伝えられるとなんて返事をして良いのか分からなくて戸惑う。
「八才で火消し見習いになって今日まで色々な現場であれこれ見てきている。似たような人はいるけど沢山はいない。ミユちゃんは本当の意味で優しいと思う。友情に厚いのかもしれないけど、君は相手が他人でも同じことをしたと思う」
「……。そのようにありがとうございます」
「半日ここで休んだスズさんから経緯を聞いたから勇敢なのも知ってる。君は火事場から逃げるよりも友人探しを選んだ。この点でも友情に厚いと思う」
面と向かってこう言われると照れてくる。
他人が自分のことを褒めてくれることはあまりない。
「だからなのかグッと心臓を鷲掴みされて、ミユちゃんの姿がチカチカ光って見える。こういう気持ちが消えても人として尊敬出来る女だろうから側にいて欲しいと思う。身内になったら俺のことも家族のことも大切にしてくれるだろうから」
「そういう方は他にもいらっしゃいますよね?」
「んー、世の中に尊敬出来る女はいるけどこうはならなかった。そこは多分本能っていうか、なぜなんだろうね」
イオは中指も真っ直ぐ伸ばした。
私の何を知っているのかと尋ねたのは私だけど、このように説明されて気持ちを打ち明けられるとは思わなかった。
「次。大人しそうなのに自分の意見をはっきり言えると知った。それでますますええと感じた。周りにそういう人が多いから、ハッキリ言えない人や察してって人は苦手」
「私の長所で短所です」
「うん。人の長所は短所でもあるよな」
彼は今度は薬指を伸ばした。
「あとミユちゃんについて知っていることは親から教えてもらった年齢、家族構成、仕事、区立女学校卒などなど。卑怯者って自分の悪いところを言えること。花が好き。読書が好き。あまり男と接してきていない。貞操観念は高そう。今知っているのはそういうこと」
「私とイオさんの性格は合わないと思いますけど、合うと思うのですか?」
「俺の何を知っていてどこが合わないと思う?」
「イオさんはどうやら貞操観念が低いようですし、私は騒がしいのは苦手です」
「遊びのことは別に説明するとして、昨日楽しそうに俺らを見ていたけどああいうのは嫌い? そうは見えなかったけど」
「昨日のことは喜ぶ方が多かったので尊敬しますし、不愉快とは逆でした。でも私は参加出来なそうです」
「参加したいの? そうなら誘うし、そうじゃないなくて嫌悪がないならそれで良くない? 同じことをする必要なんてないだろう。俺達は別人なんだから」
「それは……そうですね。しかし遊び喧嘩は迷惑です」
「あれは俺も一部の区民には迷惑だと思うけど、売られた喧嘩は買う。組内でするのが常識。でも追いかけてくるし、煩いし、罵倒されて、挑発されて、腹が立って、理性が負けてつい応戦。反省してる」
イオはバツの悪そうな表情で髪を掻いた。
「理性だけで生きていけたらええけど難しい。酒を飲んで悪いことは沢山あるけど、一時の快楽の為についついとかさ。法律は守りたいし自分なりに規則や道徳も気にするけど完璧ではいられない」
「全てに対して正しくなれないことは分かります」
「育ちが違うしそもそも別々の生き物だからあらゆることが異なるだろう? 合う合わないじゃなくて、合わせる気になるからならないかだと思う」
「それは……。そうかもしれません」
明日のことは分からない、という言葉に続いて目から鱗みたいな気持ちが湧いた。
「だから門前払いは嫌だった。こうやって話さないと溝は埋まらない。なんで門前払いをやめてくれたの?」
私を揶揄って楽しむ遊び人と思ったけど、それは誤解だったと伝わってくる。
「噂の火消しの女遊びの対象にされたと思って嫌でした。でもそれとは異なるようだと分かってきましたし、断固拒否なら方法があるのに自分はそこまでではないと考えたからです」
「結婚したいって言うたのに遊び相手と思われるのは心外だった。違うって言い続けたら伝わるからええと思ったけど伝わって良かった」
にこやかにではなくて微笑まれて、こういう話し方や表情ならそんなに苦手ではないなと感じた。
「結婚したいって言うて口説き落として使い捨ては詐欺だ詐欺。俺は詐欺師は嫌い。金を巻き上げたらそれはもう犯罪。仕事として提示していれば別だけど」
「詐欺師になるからそういう言い方はしないという発想はなかったです」
「発想はなくても違いはなんとなく分かるから信じてもらえたと」
「家と家はどうなのか親同士でも話し始めていますし、私には気がつかないことを見抜こうと家族が調べたり考えてくれています。その辺りからも悪ふざけではないようだと思いました」
「うん。ありがとう」
イオの人差し指が私が手にしている芍薬にそっと触れた。
「シャクって男が始皇帝陛下のお后様を治した時に使ったかもしれない花だからシャクの薬で芍薬。薬になるのは根っこだけど。気にしたことがなかったから芍薬の漢字を今回覚えた。根っこが薬になるのは扱うから知ってたけど、芍薬のヤクは薬って考えはなし。そういうことは考えて生活していない」
「芍薬の名前にはそのような由来があるのですか」
「おっ。読書家らしいミユちゃんも知らない話なんだ。芍って漢字は草冠と残り部分はこう手で水を掬ったり物を掬った時の形。それか物で何かを掬った時の形。目立つ物を捕ったってことだから、目立つものって意味がある」
「どちらで習ったんですか?」
「賢い人から教わった。ネビーが芍薬を選んだからなんでって聞いたら意味は後から付けろって言うから調べたり教わった」
「えっ。選んだのはネビーさんなのですか?」
「あっ。友人の後押しだから黙って俺の手柄にして今日追撃のはずが失敗。俺は良いことも悪いことも隠し事は苦手」
立てば芍薬って言葉はイオからではなくて、ネビーが友人の為に言ったことだったのか。
「まぁ、とりあえずネビーが選んでくれた芍薬はそういう怪我や病気時に快方を願う花だった。立てば芍薬って言っておいたって言われたけど、他にもええ意味を発見。だから今度は自分で持ってきた。意味も教えようと思って今話した」
「良くなりますようにとはありがとうございます」
「庭にあるなって思った家にこんにちは〜って貰ってきた。制服姿の火消しはたまに得」
「芍薬の根が薬だとは知りませんでした。薬という漢字は何とか、芍の漢字が何かなんて考えたこともなかったです」
「ねっ。俺は君のおかげで一つ賢くなった。興味のない花にも興味を抱いて面白い。ありがとう。君の親に縁談用の釣書を読ませてもらったけど、なんで趣味は生花なの?」
ごくごく自然なありがとうという言葉に面食らう。
「何? どうしたの? 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているけど」
「いえ、ありがとうと言われたので驚きました」
「えっ? なんで?」
「いえだって、私は何もしていません」
「そう? 趣味は生花って釣書に書いたしエリカの花をすずらんっぽいからって渡した時に笑ってくれたけど。だから俺は花に興味を持ったし勉強もした」
「それはイオさんの為にしたことではないです」
「その人の為にしていないことでも相手の役に立つことはあるし、逆に親切心でもそんなはずではなかったって事は起こり得るよ」
「そう、ですね……」
「それでなんで生花が趣味なの?」
「あまりお金が掛からなくて色々楽しめるからです。家の中で自分が眺める為の趣味ですので、自分好みに生けられます。自分がええと思った草木や花を眺めて、静かにのんびり読書をするのが私の贅沢です」
彼は相変わらずお喋りだけど、私が無視をやめて他の人がいないと一方的ではなくて会話になると判明。
「今は手が痛いから難しいね。早く良くなりますようにって副神様にお祈り。シャクは龍神王様に良くやったって言われて医学の副神様の遣いになったんだって。それで国中に芍薬を咲かせて魔除けをしてる」
私が手に持っていた芍薬がそっと奪われて髪に飾られた。
「病院のあちこちに芍薬紋が刻まれているのはそういう事だと思う。目から鱗。これで魔除けになるし願掛けにもなる。なおかつ似合っていてかわゆい」
「……ありがとうございます」
勝手に髪を触られた! と怒るべきところなんだろうけど、お礼の言葉しか出てこなかった。
手慣れているので、こういうことを何度も何度も繰り返してきたのだろう。
「いえ、勝手に髪を触らないで下さい。破廉恥です!」
「えー。今、かわゆく照れたのになんでいきなり怒るの? 怒るべきって理性とか世間体ってこと? ノノさん、ノノさん。今のは悪い口説き方でした?」
イオは私の向かい側に入院している中年女性に話しかけた。
娘と孫らしきお見舞い客が来ていて、三人で朗らかに話しているところだった。
「突然なんでしょうか」
「今日は顔色がええですね。そんなに美人だったとは知りませんでした。彼女の髪に芍薬を飾ってかわゆいって褒めたら怒られたんです。照れたのに怒るってなんだと思いますか?」
「あらあら。火消しさんはお口がお上手。照れ隠しではないですか?」
一般区民男性がこういう感じだと変人、破廉恥みたいになるはずなのに、火消しが美人と褒めると照れで終わるという。
火消しかつお見舞いしてくれる美形男性だから?
私がノノの立場ならどうかと想像すると「火消しさんは優しくて親切」で終わりな気がするから納得してしまう。
火消しは区民の味方で英雄で気さく。
女学生時代の集団下校時にも、幅広い年齢層の火消し達から「かわゆいお嬢さん、火の用心に警戒心!」って言われて育っている。
彼らは他の女性達にもそういう感じだ。
「照れ隠しか。そうですか。意見をありがとうございます」
私に後頭部を見せていたイオが、こちらに顔を戻した。
「照れ隠し? 世間体は大丈夫そうだぜ」
「でも破廉恥です」
「嫌悪じゃなくて拗ね顔に見える。嫌って手を払ったり睨まないで黙って受け入れてありがとうだったし。雰囲気を無視して強行したら口説きじゃなくて強姦魔の仲間になるから様子見はしっかりした」
「……。このように揶揄って楽しいですか? どうせすぐに他の方へ心を移すのに」
「ありがとう、嬉しいじゃ終われない減らず口め。そこはかわゆくないぞ。また一つミユちゃんの事を知った」
イオは楽しそうに肩を揺らして笑っている。
「そうですか。かわゆくないのでもうええって事ですね」
「なんだそれ。どうせもそうだけど、俺に興味ありで去らないで欲しい、一途に想われたいってことみたいに聞こえるけど、それなら浮かれてええ?」
「……えっ? 違っ、違います!」
「どうでも良かったら、俺がどこの誰を口説こうが次の女に行こうが何をしようがどうでもええだろう?」
指摘されたらその通りで私は愕然とした。
「それは……」
「脈ありならお父さんから俺の釣書を貰って火消しの嫁について聞いて。その後、俺が君にしたみたいに質問してくれ。本当に門前払いは終わりみたいだな。いよっしゃあ! 勉強と鍛錬と仮眠をして働いてくる。今日はここまで」
また明日、と手を振られたのでつい手を振り返す。
ドッ、ドッ、ドッと心臓がうるさくなってきて顔も熱くなっていく。
姉に目がイオを追っているから抵抗は無駄と言われたけどこういうこと?
世に言う恋穴落ちがこれなら、私はいつその穴に落ちたのだろう。
(違う。男性に慣れていないだけ……)
結婚は家と家の結びつきで、嫁ぐならその家の嫁仕事をこなさないといけない。火消しは婿入りするのか知らない。
我が家は平家の単なる奉公一族で跡継ぎどうこうはないから、火消しが婿入りしたら父の息子になるってことだから、イオの特殊平家扱いは無くなるので、そんな我が家にも彼にも損しかない選択肢は無い。
(火消しの家に嫁入りは特殊な世界そうで馴染めないからって言って、嫁入りだけど我が家に同居とかこちら側の生活に近寄ってもらう?)
そこまで考えて、こういう具体的な事を考えている時点で私はイオを意識しまくりだと身体は動かさずに心の中で悶絶。
この日のお昼に、家の事を一旦終わらせた母がお見舞いに来てくれて、髪の芍薬を眺めて微笑んだけど、何も言わないから私も無言。
「イオさんが今朝のミユさんの様子を教えに来て下さって、門前払いは終わって少し脈ありそうなので家と家の検討や自分についての質問を受けたいから、ミユさんに釣書を見せたり家の話をして欲しいと頼まれました」
「……そうですか。その。多少です。脈ありどうこうではなくて縁談練習です。そうです。縁談練習です」
「文通お申し込みがあった話をカヨさんが教えたって聞きました。いっそ会うのはどうですか? その方が比較になります。もちろん釣書や家の話が先です」
「えっ? 両天秤にするってことですか?」
「当たり前です。選べるのなら選択肢は多い程良いです。両天秤どころか、別の知らない方がミユさんのお見舞いをしたいという話も来ましたよ」
「えっ?」
あの日、助け出されたスズはあの後この病院へ運ばれて、怪我はなくても煙を吸って具合が悪いので半日休んだそうだ。
それはもう知っていたけど、その前にあの現場で私の火傷に動揺して泣きじゃくって火消しに宥められいたところを見ていた男性がいたという。
火消しの指示て火事処理に協力する一般区民は多くて、彼はそういう人の為に動ける男性。
スズが自分を助けにきた私を心配して泣いているのを見て、あの火傷をした女性は優しいのだろうとか、勇敢みたいに思ってくれたそうだ。
「今、お店はどんどん片付け作業をしていて、お店を建て直す準備中でしょう? お店の関係者がいるから聞いて回ってミユさんに辿り着いて、お見舞い出来るような状態のようなのでお見舞いしたいってお手紙をいただきました」
「そんな事もあるのですね」
「若い男性が若い女性に、なのでお見舞いだけで終わらないと思います」
「……はい」
「そろそろ縁談と思っていたら意外な話ばかり。小屯所勤務の新人事務官さんですって。お役人さんなんて、ツテコネがないから普通は縁なしなのにまさかですね」
こういう者ですと先に親宛に手紙があって、素性は確かだとすぐ簡単に調べ終わったので、母か姉と時間が合う時にお願いしますと日付と時間帯を提示するそうだ。
日付といっても提示したのは毎日。時間帯はお昼頃か夕方。
イオと同じく、格上相手で、これも縁談練習と思ったけど、お見舞い可能の返事で良いか私にも一応確認。
「その顔は勧めていますよね?」
「ええ。ミユさんの姿形ではなくて優しさなどを気に留めた方ですから、イオさんと同じく性格良しそうです」
「今日はスズさんやご友人達へのお返事を書きましょう。その手では辛いですから、私が代筆しますね」
「はい。お願いしようと思っていました」
そこへお見舞い客が三人きて、同年代に見える彼女達は「ハの花組です」と名乗って、神社の井戸水を病室内の皆で使って下さいと、竹筒製の水筒を差し出した。
「ありがとうございます。ハの花組とはなんでしょうか」
「ミユさん、先日教わって火消しの娘さん達を花組と呼ぶんですって。お嫁さん達は水組だそうです」
「はい、そうです」
「お茶を淹れてきます」
「ありがとうございます」
母が去ると「そんなことも知らないんですね」と、名乗らない女性に鼻で笑われた。
「ふーん。こんななんだ。意外というか不釣り合い」
「怪我は良くなって欲しいけどそれはそれ。これはこれ。イオのお嫁さんの座は私達のものなんで花組でもない女なんて許しません」
「そうそう。イオがそろそろ落ち着くかってなった瞬間、どの順でお見合いなのかもう決まっているのに横入りなんて許しません」
なんか面倒くさい人達が来た!
「本人に言うて下さい。私の意志ではありません」
「……はぁ? 何なのその勝ち誇った顔!」
「落ち着いて落ち着いて」
「とにかく、私は一番乗りでお出掛けして、そのまま多分気が合ってトントン拍子だから! 私よりもブサイクで良かった」
「そう? そうでもなくてかわゆいから驚いたけど」
「ちょっと! どっちの味方なの?」
「あんたみたいな性悪よりも、この子みたいな火消しに無知そうなのよりも私がきっと選ばれるって意味でしょ。つまり私の味方」
先程なだめに入ったり、私をかわゆいと言ってくれた真ん中の子の両隣二人が睨み合いを開始。
「怪我が治ったら勝負してもらうから! 花組の掟は自力で調べて練習しなさいよ」
「魔除けのお水は渡せたから帰ろう〜。この子に宣戦布告しても無意味なのにバカだね。本人と親に取り入らないと」
「今は結婚する気がないから花組とお出掛けしないって言うていたけど、ついに好機がきたから負けない」
呑気そうにじゃあね、という子が「怪我の治療の迷惑だから」と私を睨む二人を促して部屋から出て行った。
私は静かに暮らしたいから、今みたいに妬まれるのは嫌だけど、困ったことに髪に飾られた芍薬を外す気にはなれなかった。