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Dirac

掲載日:2021/04/01

「森はまだだな」旅人が呟く。

「ああ」言っている意味が理解できないので、私は適当に返事をする。

 私と旅人は、乾ききって遙か彼方までひび割れた大地を歩く。赤い砂が舞う。

「ここに生き物はいないのか?」旅人が訊く。

「生き物、とは何だ?」

「生きているものだ」

「生きている、というのはどういう状態なんだ?」

 旅人は口を噤む。どうやら答えられず、気分を害したようだ。自分が分かっていると思っていたことが実際にはよく分かっていないというのは、別段珍しいことではない。私には旅人の心情とその原因が、やはり理解できない。

 頭上の空に浮かんでいる、白い強光を放ち続ける球体は、依然としてその位置を変えない。以前やって来た別の旅人は、あれは暗い真空の大いなる空間に浮かび燃えているのだと言った。私はそれを聞いたときひどく驚いたし、疑問が次々と湧いた。私は、それはどこから来たのかと尋ねたが、その旅人の答えは要領を得ないものだった。恐らく彼自身理解できていなかったのだ。

 どれ程歩いただろうか。我々は時間を、変化をもとにして感じ取る。動かぬ球体は、我々の感覚を麻痺させる。その不在性を明らかにするという者もいる。いずれにせよ、感じ取られ得る変化というものが、ここには存在していない。

 いつから見えていたのか、水平線には海が浮かんでいた。地面から背の丈ほどの高さに群生した黒い木本が、見上げるほどの高さまでその手を伸ばしている。

「黒い森とは珍しい」旅人の、驚きの混じる声がする。

「これを森と呼ぶのか」

「私たちに馴染みのあるものとは少し違うが」

「我々はこれを海と呼ぶ」

「海」

 海。ディラックの海。

「ああ」

「私たちの海もまた、別に存在する」

 旅人の言う海は、黒いのだろうか。しかし私はその言葉に、隔絶と相反の気配を感じ取る。

 この森もやはり、変化を知らない。ただ黒々とそこに在り、在らぬことはない。何をも必要としないこれらは、如何やら旅人の言う生き死にとは全くの無縁であるようだ。輪廻とは変化そのものである。

「あそこだ」私は海の向こうを指差す。マチが見える。旅人らの住む世界の一角を、我々はマチと呼ぶ。

 旅人が小さく歓喜の声を上げる。Freude.

 我々の世界と旅人らの世界の間において最も尊重されるのは、基本的な不干渉である。これは、双方の世界で共に結論した、自他の間の諍いの最たる原因による。他者との不寛容や理解不能性の苦しみ並びに引き起こされる憤慨が、それによって少なからず緩衝されるからだ。

 よって、我々の世界に迷い込んだ”旅人”は、そっと送り返してやることになっている。全ては暗黙の内に了解される。

「ところで」徐に旅人が口を開く。務めを為し終えて帰らんとしていた私は、些か不快になる。

「何だ」

「先刻、生きているとは何だと訊いたな」

「ああ」

「私なりの答えを教えよう」

 私は目を細める。知は至上の喜びに他ならない。

「生きているということは、死ぬ能力を持つということだ」

 私は落胆した。真新しい知見ではない。

「つまり?」

「私には、お前が生きているのかが分からない。それを確かめる絶対唯一の方法が、お前の死の能力を照らすことだ」

「私を絶つのか」

「ああ」

「過大な干渉だ」

「お前の持つ知への渇望と何ら変わりがない」

 成程、言われてみればそうかもしれない。

「されど如何にして殺す?」

「分からない」旅人は口ごもり、突如絶叫する。「分からない」

「分かることのほうが少ないというものだ」

 旅人は跪き、腰に携えていたいかにも凶悪そうな、不快な刃のついたナイフを高々と掲げ、ゆっくりと口から喉へ差し込む。何かが溢れる音がする。声はしない。旅人の目に浮かぶ涙。苦悶、そして浄化。

「その死を以て、己の何たるかを証明せよ」

 魂の向上を放棄することを、我々は死と呼ぶ。よって、それは他者より与えられるものではない。この旅人のように、自ら捧ぐものなのである。

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