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「ひっ……!?」


 引き攣った声が飛び出た。女の股から堕とされたそれ(・・)には、あるべきはずの腕がなかった。血と粘液に濡れて柔らかそうな両足をばたばたと震わせ、一、二回、産声を上げると、それきり、力無く黙ってしまった。


 この世で、一番おぞましい、あってはならない忘れ物のかたちが、そこにあった。


「あの女性は、さっきの二人よりも、いちだんと可哀想な人でしてね」


 女性を降ろして発車したバスの中で、老人が口にした。さっきより、ずっと無機質な感じのする声音だった。


「結婚詐欺に遭って財産のほとんどを巻き上げられた挙句、詐欺師と肉体関係を持ってしまったようでしてね。運悪く子供を身籠って、ずいぶんと苦悩した結果、育てようってことを決めたらしいんですが。これが不具の子だと診察で分かってからノイローゼになってしまったんですわ」


「一番、一番大事な存在なんじゃ……」


「と同時に、一番気がかりだったんでしょうな」


 あっけらかんと口にする老人の顔を、私はまともに見る事ができなかった。床で、ただの肉の塊と化したそれを直視するのが嫌で嫌で仕方がなくて、私は俯くしかなかった。


「なんなんだ……」


 問いかける。誰に対してでもない。この状況に対してだ。


 しかし当然、返ってくる声はない。


「なんなんだ、一体……」


 黄泉に通じるバス、なんてものではない。噂には全く別の、それ以上に恐ろしい尾ひれがついて回っていたのだ。


 眩暈がする。頭が、鉛を乗せられたように重い。吐きそうになる。


 いっそこのまま気を失ってしまい気分になる。


「必ず忘れ物をするってのは、言い方の問題でしてね。正しくは、本人が捨てたいと本心から自覚した物を、捨てているだけなんですな」


 老人が、また何事かを喋りはじめた。最初は親切に接してくれていたこの人物が、今では同じ人間とは思えない、不気味な存在に思えてならなかった。そんな人物と隣同士で、同じ空気を吸って生きていることが、恐ろしくてたまらなかった。


 だが、だからと言って、今の私に何が出来るのか。


 状況から逃げるための手札など、どこにも残されていなかった。


「みんな、何かを捨てたいとか、縛りから抜け出したいとか、そんなことを思って生きているじゃないですか。金、地位、名誉……たしかにそれは人生を豊かにしますが、一時的なものですよ。本当はみんな、逃げたくて仕方ないんです。金や名誉に追い回されるくらいなら、いっそのこと、案山子みたいに何も考えず、ひっそりと暮らしていきたい。人生という閉じられた道を死に物狂いで走りながら、誰だって心の奥底では、そう思っているんですよ」

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