7→8
「ひっ……!?」
引き攣った声が飛び出た。女の股から堕とされたそれには、あるべきはずの腕がなかった。血と粘液に濡れて柔らかそうな両足をばたばたと震わせ、一、二回、産声を上げると、それきり、力無く黙ってしまった。
この世で、一番おぞましい、あってはならない忘れ物のかたちが、そこにあった。
「あの女性は、さっきの二人よりも、いちだんと可哀想な人でしてね」
女性を降ろして発車したバスの中で、老人が口にした。さっきより、ずっと無機質な感じのする声音だった。
「結婚詐欺に遭って財産のほとんどを巻き上げられた挙句、詐欺師と肉体関係を持ってしまったようでしてね。運悪く子供を身籠って、ずいぶんと苦悩した結果、育てようってことを決めたらしいんですが。これが不具の子だと診察で分かってからノイローゼになってしまったんですわ」
「一番、一番大事な存在なんじゃ……」
「と同時に、一番気がかりだったんでしょうな」
あっけらかんと口にする老人の顔を、私はまともに見る事ができなかった。床で、ただの肉の塊と化したそれを直視するのが嫌で嫌で仕方がなくて、私は俯くしかなかった。
「なんなんだ……」
問いかける。誰に対してでもない。この状況に対してだ。
しかし当然、返ってくる声はない。
「なんなんだ、一体……」
黄泉に通じるバス、なんてものではない。噂には全く別の、それ以上に恐ろしい尾ひれがついて回っていたのだ。
眩暈がする。頭が、鉛を乗せられたように重い。吐きそうになる。
いっそこのまま気を失ってしまい気分になる。
「必ず忘れ物をするってのは、言い方の問題でしてね。正しくは、本人が捨てたいと本心から自覚した物を、捨てているだけなんですな」
老人が、また何事かを喋りはじめた。最初は親切に接してくれていたこの人物が、今では同じ人間とは思えない、不気味な存在に思えてならなかった。そんな人物と隣同士で、同じ空気を吸って生きていることが、恐ろしくてたまらなかった。
だが、だからと言って、今の私に何が出来るのか。
状況から逃げるための手札など、どこにも残されていなかった。
「みんな、何かを捨てたいとか、縛りから抜け出したいとか、そんなことを思って生きているじゃないですか。金、地位、名誉……たしかにそれは人生を豊かにしますが、一時的なものですよ。本当はみんな、逃げたくて仕方ないんです。金や名誉に追い回されるくらいなら、いっそのこと、案山子みたいに何も考えず、ひっそりと暮らしていきたい。人生という閉じられた道を死に物狂いで走りながら、誰だって心の奥底では、そう思っているんですよ」