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突然のことに慄く私を後目に、老婆は苦しがる素振りを全く見せることなく、引きずるような足取りで足元の血糊をべったりと広げながら、ゆっくりと、バスを降りて、どこかへと去っていった。
「あのご婦人、その昔は映画専門の女優さんでね。有名な歌劇団出身の方で、鳴り物入りでデビューしたんですけど、その割には演技の出来が芳しくなくて。それでも、若い頃から歯並びが美しくて、顔立ちも整っていたから、一定のファンがいたんですよ」
バスが発車した頃合いを見計らうかのように、さっきまで窓の外を見ていた老人が、いつの間にかこちらをじっと見つめて、老婆の個人情報をつらつらと話しはじめた。
「歯科医院の旦那と結婚したっていうのが、あのご婦人の運命を物語っていますよ。引退されてからも、ずっと歯だけは大事にしてきたんでしょうなぁ。なぜなら、拙い演技力を誤魔化すために、歯の美しさを使ってきた人なんですから。ほぉら、よくごらんなさい。歯茎ごと、ごっそりと抜け落ちてしまっていますよ。あぁ、でも少し黄ばんでいますね。コーヒーの飲み過ぎでしょうかねぇ」
普通ではない――ここに至って、遅すぎる確信を私は抱いた。
異常だった。このバスもそうだが、それ以上に、乗客の面々が。私の隣にいる老人も含めてだ。
果たして生きた人間が、抜け落ちた歯の痛みに全く苦しがることなく、歯茎から血をだらだらと流して平然と歩けるのか。
幽霊――しかし幽霊にしては、実在感があまりにも強すぎた。
何も分からなかった。理解がまるで追いつかなかった。
バスはどんどんと先へ進んでいく。気を紛らわせようと窓の外を見る。
さっきより、案山子の数が多くなっている。
「そういえば貴方、案山子の成り立ちってご存じですか?」
平時なら興味を引きそうなその話題も、しかし今の私にとっては、薄気味悪い流れへと誘う、呼び水でしなかった。
どうしてこんなバスに乗ってしまったのか。激しい後悔に苛まれつつ、それでも湧き上がる強い好奇心が、私の耳朶の主導権を握っていた。
「起源については色々あるらしいんですがね、中国大陸なんかじゃあ、藁や獣肉を焼いた時に出る煙の匂いを嗅がせて、水田に群がる鳥獣を追っ払っていたみたいで、それが日本に伝わり、悪臭を嗅がせる行為を『嗅がし』と呼ぶようになり、転じて『かかし』となったそうです」
「それがどうしたと言うんですか」
窓の外へ視線を向けたまま、突き放すように言った。
だが老人の声が止まることはなかった。
「あくまでもこれは一説でしてね。私が聞いた話じゃあ、案山子は蛇の姿を象ったものだとされているんだとか」