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「どこにいるのって、これから取材に行くところだよ。大丈夫だよ。心配しないで。そんなに遅くならないうちに帰るから。そうカッカしないでよ。大丈夫だからね」
興奮した様子の相手をひとまずなだめると、私は電話を切り、光るスマートフォンの画面をバス停の時刻表へ近づけた。
やはり何度確認しても、この時間帯のバスは一時間一本きりだった。東京といえども、ここまで辺鄙な地域とあっては、ほとんど田舎と変わらない。そのことを、よく物語っている、寂れた時刻表だった。
それにしても寒い。妻に買ってもらったばかりのダッフルコートを着込んでいても、なかなかに堪える。特に足先がひどい。地面を踏んでいる感覚がほとんどなかった。天気予報をしっかり確認して、カイロの一つでも持ってくるべきだったか。だが後悔したところで、すでに手遅れだ。
おまけに小雨までぱらつき始めた。当然、傘なんて持ってきていない。雨足がこれ以上強くならないことを祈りながら、かじかんだ両手へ真っ白な息をじっとりと吐きかける。
しかし、指先にほんのりと暖かみを感じたのは僅かの間のことで、気休めにもなりやしなかった。本当に、馬鹿みたいに寒かった。カイロや傘だけでなく手袋も必要だったなと、準備の迂闊な自分に、少し嫌気が差した。
辺りに人家の灯りは一つもない。当然、電柱も街灯もなかった。道路を一本挟んだ向こう側で眠りにつくのは、収穫の時期をとっくに終えた水田だけである。森や林はおろか、木々の一本すら目につかない。
こざっぱりしている、というより、どこか人工的とすら言える夜の風景。本当にここは東京なのか? そう疑わしくなるほど、何もない場所だった。
「(もしもガセネタだったら、どうしようか)」
じわじわと湧いてきた心細さのせいか、そんな疑念が頭を過る。投稿者からの情報によれば、この時間帯で間違いはないはずだった。けれども、もう三十分も待っているのに、いくら待っても、お目当てのバスが来る気配はない。
手ぶらで家路に着くのは、どうにも気が引ける。電車とタクシーを使い倒して、かれこれ三時間もかけてやってきたのだ。それに、編集長に無理を言った手前、どんな形でもいいから、何らかの成果物を手に入れなければ、私の立場というものがない。
もしかして、停留所そのものを間違えているのか。ありえない、と断じることは出来なかった。今日の私はとにかく準備を怠り過ぎている。うっかり目的の停留所を間違えている可能性だってありえる。
ショルダーバッグの中には、現金とカメラ、それにメモ帳だけだ。何度確認しても、カイロも折りたたみ傘も手袋もない。天気予報をしっかり確認しておけばよかった。普段の私なら、遠出の取材に出る時に事前準備はしっかりと済ませてあるはずなのに、今日に限って、まったく注意散漫というほかない。
やはり、停留所を間違えているのか。それらしい停留所が別にあるのか? しかし、この、文字通り何もない風景の、どこにそんなものが? 一キロ二キロ歩いたところで、きっとこの無味乾燥な風景は延々と続くに違いない。ここ以外に目ぼしい停留所があるようには、どうしても思えなかった。
……まぁ、いいさ。
あと三十分待って来なかったら、その時はその時だ。他にネタがないこともない。今日のところは、大人しく家に帰ろう。
ありったけの焦燥感に追われた末に、そんな、どこか諦めにも似た覚悟を抱いたその時、遠くからエンジンの音が聞こえた。
はっとして、沿道から身を乗り出し、音のした方向を確認する。まず、二つの円形の光が目に飛び込んだ。エンジン音がどんどん大きくなる。小雨で濡れた地面を均しつけるように、一台のバスが、こちらへ近づいてきていた。
私は慌てて、さらにもう一度時刻表を確認した。今は夜の七時。この時間帯に来るバスは二十二分のものが一本だけ。だが腕時計の針が指し示す現時刻は、四十五分。予定よりも二十三分も遅延するバスが、果たしてどこにあるだろう。少なくとも私の経験上、そんなバスには遭遇したことがない。
助かった、と思った。情報はガセではなかったのだ。
夜の帳を切り裂くようにヘッドライトを照らしつけてやってきた、その真っ白な新車めいた、広告のラッピングがまったくされてないツルツルのバスは、長く大きい空気音を出してブレーキをかけ、目の前で停車した。
がたり、と、そっけない勢いで乗降口のドアが開いた。固唾を飲んで見守るが、意外なことに、降りる乗客は一人もいなかった。
そっと乗降口に足をかけた。後ろで、やはりそっけなく、ドアの閉まる音がした。
「運賃は後払いです」
バッグから財布を取り出そうとしたところで、運転士が不愛想な口調で言ってきた。
黒い運転士だった。顔も、ハンドルを握る手も、なにもかも、それこそ全身が黒かった。
服装や肌の色が、という意味ではない。全身をくまなく影で覆い尽くし、明度とコントラストを何段階も下げたような、そんな風に黒い運転士だった。おかげで、表情というものが全く伺い知れなかった。
車内には、私を除いて四人の乗客がいた。手前の席に、恰幅の良いサングラスをかけた半袖の男。そのすぐ後ろの席には、うたた寝をしている小洒落た身なりの老婆がいた。
バスの後方に目をやる。段差を一つ上がってすぐの席には、眉間に皺を寄せてスマホを見つめる若い女性。そして一番後ろの四人掛けの席には、眼鏡をかけた杖持ちの老人が座っていた。
この中の誰でも良い。すぐにでもインタビューしたい。
はやる気持ちを抑えつつ、私は吊り革を避けながら、一番後ろの席まで行くと、その老人の隣に、人ひとり分が座れるくらいの距離を置いて腰を下ろした。
「発車します」
運転士の無機的な声がして、バスが再び動き始めた。
落ち着いて車内を観察してみると、やはりこれが普通のバスでないことはすぐに分かった。車内のどこにも、広告のポスターやステッカーが貼られていなかったからだ。だかかえってそれが、私の中で確信を強めていった。
時刻表通りにやってこないバス。
真っ白な塗装のバス。
運転士の顔が見えないバス。
広告の一切ないバス。
編集部に送られてきた投稿者の情報と、寸分違わず合致している。
このバスに、まず間違いはない。
私はバッグを隣の席に下ろすと、チャックを開いてカメラを取り出し、レンズキャップを外そうとした。が、指が思うように動かず、なかなか外れない。
それもこれも、この尋常じゃない寒さのせいだ。てっきり暖房が効いているのかと思っていたが、空調の調子が悪いのか、車内は外と同じくらい、ひどく冷え冷えとしていた。
当たり前だが、時間は無限じゃない。特に、仕事とはいえ、いや、仕事だからこそ、こんな得体の知れないバスに乗り込んだ以上、出来る限り多くの情報を写真に収めておきたかった。レンズキャップごときに手間取っている場合ではないのだ。
「これ、お使いになりますか?」
もどかしさを感じていると、隣に座る老人が、不意に何かを差し出してきた。見ると、未使用のカイロだった。
「え、でも……」
意外なかたちでの厚意に、とっさに何と返答して良いか分からなかった。老人は、にこりと笑いもせず続けた。
「この寒さです。遠慮なさらず、お使いください」
「あ、はい。ありがとうございます」
感謝の言葉に老人は軽く頷くと、わざわざ気を遣ってカイロの袋を破き、中身だけを私に差し出してくれた。
カイロを手に取り、しばらく揉んでいると、たまらない暖かさが、じんわりと指先を包み込んできた。バスの異様な雰囲気に気圧され気味だった心が、ふっと、軽くなったような気がした。
一通り手が温まったところで、カイロをコートのポケットに入れる。
ようやくカメラのレンズキャップを取り外すと、私は他の乗客に悟られないよう、股の間でカメラを挟むようにして、何度かシャッターを押していった。昨今はプライバシーに煩いため、乗客の後ろ姿すら映さないよう、注意しなければならなかった。