Cafe Shelly ケンカをやめて
雅彦って、どうしていつも理屈っぽいんだろう。まったく、女心がわかっていないんだから。
日曜の午後、むしゃくしゃしている私は一人でカフェのテラスでアイスコーヒーとケーキのセットをほおばりながら、昨日のことを思い出していた。
昨日は雅彦とのデートの日。私と雅彦は準遠距離恋愛の仲。以前は同じ職場で働いていて、その時に付き合うようになり結婚も意識したんだけど。雅彦が異動で同じ県内の田舎の方に移ってしまった。そのため、デートできるのは月に1回か2回。そんな貴重なデートの時間なのに、雅彦の一言がそれを無駄なものにしてしまった。
昨日は一緒に映画を見に行った。とても感動的な恋愛ストーリー。これを選んだのは、雅彦にそろそろ結婚を意識してもらいたいから。何しろあと二年で私も三十歳になる。できれば二十代で子どもを産んでおきたい。だから結婚を焦っているのは確かである。
そんな思いを抱きながら、映画の後の食事の時に恋愛観について話を振ってみた。
「さっきの映画、泣けたわよね。あんな風に、一人の人に一途になって自分の人生を捧げるなんて、とても素晴らしいじゃない」
だが、この私の感想に対しての雅彦の第一声がこれだった。
「それ以前に、あの主演男優の演技、あれはないね。最近流行りのアイドルを起用したのは明らかに話題性を高めるためだ。女優も確かアイドルグループの一人じゃなかったっけ。せっかく周りの俳優がガッチリと演技で固めてくれているのに、監督は何を考えてあれを撮ったんだろうね」
出た、雅彦の分析ぐせ。何かにつけてこういった評価をするのが雅彦の悪いところだ。その時の食事についてもこんな感じ。
「うぅん、クリームパスタの味は悪くないけれど、このイクラは余計だったな。塩っぱさが増してしまっている。同じ彩りなら、とびこの方が食感と味の面で最適だと思うのに」
どうして最初に「美味しいね」くらいのことが言えないのだろう。だから雅彦の前で手料理なんて作った日には、厳しい評価の嵐を浴びることになる。
そして極め付けがこれだった。
「今日のデートは60点ってところかな。せっかくこうやって遠くから来ているのに、もうちょっと恋愛モードに入れるようなものが欲しかったところだな」
そのつもりで恋愛映画を観に行ったのに。私の気持ちや苦労は考えてくれないんだから。
「もういいっ!さよならっ」
最後は泣きそうになるのを我慢して、そう言って別れた。
あれから、雅彦からの連絡はない。せめてLINEとかで「ごめん、オレが悪かった」くらい送ってくれれば、すぐに許してあげたのに。そもそも、自分の何が悪いのかがわかっていないんだから。
そんな感じで昨日のことを思い出していたら、気分が憂鬱になってきた。ケーキセットをほおばったくらいじゃ、この気持ちはおさまらない。何か他にストレス解消する方法ってないかな。
買い物しようにも、そんなにお金の余裕はないし。一人カラオケにでも行こうかな。そこで大声を張り上げれば、少しは気持ちもスッキリするかも。それとも岩盤浴で汗を流してくるか。
ホントはこの愚痴を誰かに話せるといいんだけど。実のところ、こんな愚痴を話せるような友達がいないというのも悲しい現実である。
友達がいないわけではない。一緒に遊びに行く仲間はいる。けれど、その仲間は仕事の同僚。つまり雅彦のことを知っている連中である。なまじ知っている人だけに、雅彦のことを悪く言うことはできない。それに、雅彦ってきっちりしたところがあるから、仕事ができる人って見られている。だから、私が愚痴を言って雅彦のことを悪く言っても、それを信じてはくれない。なんか八方塞がりだな。
そんなことを考えながら街をブラブラする。やっぱ雅彦とは結婚は無理なのかなぁ。でも、なぜか好きなんだよね。理屈っぽいけれど、いいところもある。
一緒に仕事をしていた時は、ホント優しかった。私に対してだけじゃなく、みんなに対して気遣いができる。周りを笑わせたりもしてくれる。自分から
「何か手伝うことはない?」
と声をかけてくれる。そしてまた、仕事ができる人でもある。
例え上司であろうと、的確に指示を出して業務を遂行させる。だからみんなが一目置いていた。出世コース間違いなしだとも言われていた。
そしてまた、身長が高くてイケメンなんだよなぁ、雅彦って。そんな雅彦の方から私に告白をされた。あの時はもう有頂天になっていたなぁ。まさか、こんな私のことを好きになってくれるだなんて。
だから、あの理屈っぽいところさえなんとかなれば、理想の彼氏であり、理想の旦那になると思うんだけど。
フゥッとため息。いかんいかん、こんな暗い気持ちになってちゃいかん。
そう思った時、目の前にとある看板が目に入った。それは黒板にチョークで描かれている。どうやら喫茶店のもののようだ。私の目に入ってきたのはそこにある、とある一文だった。
「ケンカって、お互いの本音がわかるいい機会なんですよ♪」
ケンカがいい機会?どうして?
今、私と雅彦はまさにケンカ状態。といっても、私が一方的にそう思っているだけなのかもしれないけれど。でも、どう考えても雅彦のことが許せない。なんであんな風に言われなきゃいけないの。そう思うと腹が立ってきた。
その状況を、いい機会だなんてどういう意味だ?ちょっと、これを書いた人に文句を言いたくなってきた。Cafe Shelly、このお店だな。どんな人がこの言葉を書いたのか、ちょっと見てやろう。
そう思って、私は案内のある通りにビルの二階へと向かった。
カラン・コロン・カラン
扉を開けると、心地よいカウベルの音。同時に漂ってくるコーヒーの香り。それだけじゃない、その中に甘い香りも含まれている。さっきまでの怒りが、急激にどこかへ飛んでいく。いかんいかん、こんなのに騙されるんじゃない。
「いらっしゃいませ」
女性の声。続けて反対方向から男性の低くて渋い声で同じく私を迎え入れてくれる声。
「一名様でしょうか?」
「あ、はい」
「それでは、カウンター席でもよろしいでしょうか?」
「はい」
あれっ、なんで?私、急に毒気を抜かれた気がする。
「いらっしゃいませ」
カウンター席に座ると、このお店のマスターから改めて挨拶をされた。この時、思わずこう言ってしまった。
「このお店、なんだか素敵ですね」
言葉の方が先に口に出てしまった。これは私の素直な気持ちなのだろう。
「ありがとうございます。当店はコーヒーにこだわっております。また、クッキーなどの焼き菓子も美味しいですよ」
「じゃぁ、このお店の自慢のコーヒーとクッキーをいただけますか?」
メニューも見ずに注文してしまった。こういうところ、雅彦に怒られるんだよなぁ。雅彦は常に計画性を持って行動する。自分の中できちんとしたものを作らないと動けない、と言った方がいいだろう。
それと対照的なのが私。私は思いついたことから行動を始める。だから仕事の効率が悪い、とよく雅彦に怒られる。仕事の計画性はそれなりに訓練をしたけれど、私生活ではさっきのように思いつきで行動をしてしまうことの方が多い。そんな私が昨日のデートはしっかりと計画を立てて行ったのに。それを頭から否定された感じになったから、雅彦に対しての怒りが湧き上がってきたんだなぁ。
「当店自慢のコーヒーは魔法のコーヒー、シェリー・ブレンドでございます」
「魔法のコーヒー?」
どういうこと?思わず聞き返してしまった。
「はい、シェリー・ブレンドには魔法がかかっています」
「魔法って、どんなのですか?」
こういうのは興味をそそる。理屈っぽい雅彦だと、間違いなくこう言うだろう。
「ふん、魔法なんて非現実的で信じられるわけがない」
けれど私は違う。そもそも、オカルトなんていうのが大好きな人間だから。
「シェリー・ブレンドは飲んだ人が今欲しいと思っている味がします」
「今欲しい味って、例えば甘い恋をしたい人は甘く感じる、とか?」
「そういう方もいらっしゃいますが、中には今欲しいと思っているものが映像として浮かんでくる方も。こればかりは人それぞれなのでわかりませんがね」
なんだか興味が湧いてきた。早くその魔法のコーヒーを飲んでみたい。
「じゃぁそれをお願いします!」
「かしこまりました」
そう言ってマスターはコーヒーを淹れる準備に取り掛かった。その様子をボーッと眺めようと思った時、当初の目的を思い出した。あの下の看板に書いてある
「ケンカって、お互いの本音がわかるいい機会なんですよ♪」
に対して文句を言いにきたんだった。でも今は、文句というよりはその意味が知りたい。
「あのぉ、ちょっといいですか?」
「はい、なんでしょうか?」
コーヒーを準備しているマスターに、恐る恐る声をかけてみた。マスターはニコッと笑って私の方を向いてくれる。
「表の看板に書かれてあった言葉、『ケンカって、お互いの本音がわかるいい機会なんですよ』って、どういう意味なんですか?」
「あぁ、あの言葉ですね。あれはウチの妻が毎日考えて書いているものなんですよ」
「奥さん?」
「はい、今あっちでお客さんとしゃべっている女性です」
そう言われて振り返ってみる。そこには髪が長くて、若くてキレイな女性が笑顔でお客さんと会話をしている姿が見えた。って、あの人がこのマスターの奥さん!?
今度は思わずマスターの方を向き直す。どう見ても年齢差があるよなぁ。
「驚かれましたか。実は妻とは年の差カップルなんです」
「あ、失礼しました。でもちょっと驚いちゃいました。奥さんがあの言葉を書いたんですか」
「はい。実はここだけの話、一昨日ちょっとケンカをしてしまいまして。些細なことがきっかけだったんですけどね」
そう言いながら、マスターは真剣な目でコーヒーを淹れてくれている。ここでマスターの言葉は少しだけ中断されてしまった。
「はい、お待たせしました。シェリー・ブレンドです」
マスターのケンカの話が気になりつつも、魔法のコーヒーにも興味はある。
「あ、それとクッキーもでしたね。こちらの二枚のクッキーをコーヒーと一緒に食べると、魔法の効果がさらにアップします。まずはコーヒーだけ、そして次は黒か白、どちらかのクッキーをかじってコーヒーを口に含んでみてください」
じゃぁ早速コーヒーだけを口にしてみるとするか。カップを口に近づける。うん、いい香りだ。そしてコーヒーを一口、口に含む。すると、口の中で最初に苦味を感じた。が、すぐに別の味、これは酸味というのか。どちらもコーヒー独特のものだけれど、別々の味が感じられる。
けれど、この二つの味が突然一緒になる。そこには甘みに近い味が感じられた。なんとも不思議な味だ。
この時、頭の中で私と雅彦のことが思い浮かんだ。二人の感情はまさに苦味と酸味のようなもの。どちらも相手に対して攻撃的なものだ。けれど、それが一つに融合すると甘い恋の味がする。私、それを望んでいるのかな。いや、それを望んでいるんだ。そもそも雅彦とは甘い恋愛をしていきたいと思っているんだから。
「お味はいかがでしたか?」
マスターの言葉で、目の前に現実が戻ってきた。
「確かに、不思議な味がしました。最初は苦味と酸味がケンカをしていた感じ。でもそれが融合して甘みに変わっていく。まさに私と雅彦との関係そのものです」
「雅彦さん、というのは彼氏さんですか?」
「はい。昨日デートをしたんです。私、いつも思いつきで動いてしまうので、昨日は映画とレストラン、バッチリ計画を立てたんですけど。雅彦はその映画とレストランにケチをつけるんですよ」
「ケチ、といいますと?」
「映画は恋愛映画を観にいったんです。ほら、今流行りのアイドルグループが主演になっている」
「あまりテレビを見ないのですが、何となく知っています。話題の映画ですよね」
「雅彦、その主演の子の演技に対してケチを付けるんですよ。それに、監督は何を考えているんだろうっていい出すし。こっちはストーリーに共感して泣いちゃったくらいなのに。いきなり興醒めですよ」
「なるほど、理屈っぽい彼氏さんなんですね」
「そうなんです。それにレストランも料理に対してイチャモンつけちゃうし。最後は私とのデートが60点だ、なんて言うんですよ。もう腹が立っちゃって『もういいっ』って言って別れたんです」
「それは大変でしたね。せっかく計画したデートだったのに、彼氏さんにそんな評価をされたのでは悔しさもあったことでしょう」
「そうなんですよ。なのに雅彦はなんの連絡もよこさないし。ホント、イヤになっちゃうわ。おかげで今日のお昼はやけ食いでしたよ」
「それでも、彼氏と元に戻りたい。そう願っているのでしょう?」
マスターの言葉に、さっきまで感じていた怒りの感情がスーッと引いた。そうなんだ、そんな雅彦でも一緒にいたい。だって、好きなんだから。だから、私はうつむいてこう返事をした。
「ハイ」
「それでは私の話をしてもいいですか?」
そういえば、マスターのケンカの話、まだ聴いてなかった。私はコクリとうなずく。するとマスターがニコッと笑って話を続けてくれた。
「一昨日のことです。いつものように店を終えて片付けをしていたんです。すると妻がこう言ってきたんです。今日、買い出しに行った時に素敵なバッグを見つけたって。私はそれをおねだりだと思ったんですよ」
旦那さんにバッグをおねだりかぁ。私もいつかそんな時が来るのかな。そう思ってマスターの話の続きに耳を傾けた。
「だから私、こう質問したんです。そのバッグ、いくらするのって」
ここでマスターのその言葉に、私は違和感を覚えた。私にはわかる、マスターの奥さんが素敵なバッグを見つけたという話をしたことが。なのにどうして値段を聞いてきたのだろうか、と。
「そうしたら、妻が急に怒り出したんです。どうして値段なんか聞いてくるのって」
あ、やっぱり。
「私、その理由がわからなくて。だからこう言ったんです。そのバッグ、買って欲しいのかなって思ったからと。ここで妻がこんな風に言ってきました。『どうして男の人ってそう考えるのかな?』と。まだ妻の真意がわからなくて。その時は妻が怒ったままお店の片付けを終えて家に帰ったのですが、帰りの車の中で妻は私に一言も話をしてくれませんでした。今度は逆に、私がその妻の態度に腹が立ってきちゃいまして」
まるで今の私と雅彦みたいだな。でも、そこからどうやって解決したんだろう。
「晩御飯を食べる時も無言でしたから。このままじゃいけないと思い、すぐに話を切り出しました。私には女心がよくわからない。どうして怒ったのか、そこを教えて欲しいとお願いをしたんです。そうしたらこう話してくれました」
ここでマスター、少し間を置いて確認するように奥さんの方を一度チラリと見た。
奥さんは別のお客さんとの会話に夢中のようだ。これは、今奥さんの話をしているのを悟られたくないからと感じた。
「それで、奥さんはどんな話をしたんですか?」
私も小声でマスターに問いかける。
「あなたはいつも、結論を先読みしすぎるって。私はあの時、いいバッグを見つけたことに対して、ただ共感して欲しかっただけだった。確かに買って欲しいって願望がないわけじゃないけれど、今の自分には不相応なのはわかってる。そんなバッグを買ったところで、持って行くところもないしって」
そうそう、そうなんだ。私も同じ気持ちになっていたと思う。女ってただ共感してくれればそれで満足なんだよなぁ。マスターの先読みって、雅彦と似ているところがあるな。
「でも、仲直りしたんですよね。どうやって?」
「それがあの言葉です」
「あの言葉って?」
「『ケンカって、お互いの本音がわかるいい機会なんですよ』です。だから私も、あの時にどう思ったのかを素直に口にしました。バッグの話をしていた時に、物欲しそうな目をしていたと感じた。滅多に言わないことを口にしたから、きっと欲しかったのだと思った。それに結婚記念日もやってくるから、買ってあげてもいいかなと」
マスターの思い、私だったら嬉しくなっちゃう。だって、相手のことを思っての発言なんだから。
「奥さん、マスターの本音を聞いて喜んだんじゃないですか?」
「いえ、これが違うんです。私の思いを一通り告げた後、妻はこう言ってきたんです。私は常々、あなたの『買ってあげさえすれば相手が満足する』という気持ちが嫌だったって。私が欲しいのは物じゃない。そう言われたんです」
うわぁ、厳しい言葉だなぁ。でも奥さんの気持ちもわかる。欲しいものを買ってあげてさえおけば、気持ちが満足するだろうという安易な考えでは、私も不満を漏らすだろう。そうか、奥さんはずっとそのことを気にしていたんだ。
「私もその時、ついカッとなりそうになりましたよ。せっかく思いやってあげているのにって。でも、その感情を抑えてしばらくすると、別の感情が湧き上がりました」
「どんな感情だったのですか?」
「思えば、妻の話をきちんと聴いてあげたり、妻が今何を求めているのかを知ることをしてあげてなかったなって。欲しいと思ったものを買ってさえあげていれば、満足するだろうという安易な気持ちがあったのは否めませんでした。そのことを妻にも話してみたんです。すると…」
「実は、私も同じようなことを考えたことがある、と告白されました。経済的なことに対して私にばかり頼ってしまい、後ろめたさを感じていたと。でも、欲しいのは本当に物じゃない。安心して生活していける、そんな時間だって。妻は自分の話を聴いてくれて、共感してくれるだけで満足だって。そう言ってくれました」
「じゃぁ、これで解決したんですね」
「いえ、まだまだです」
「どうしてですか?お互いに伝えたいことを伝え合ったから、納得し合えたんじゃないですか?」
「お互いの思いは理解できました。問題はこれからなんです。具体的にどう行動していくのか。これがまだきちんと決まっていない状況です」
そうか、理解し合えても行動を起こさなければ意味はない。けれど、二人の仲が一歩進んだのは感じ取れた。
「だからあの言葉、『ケンカって、お互いの本音がわかるいい機会なんですよ』なんですね」
「はい。妻も自分の今の気持ちを表現したくて、看板にあの言葉を書いたのだと思います」
「いいなぁ。私も雅彦ときちんと話し合えるといいんだけどなぁ」
「大丈夫、それはちゃんとできますよ。その手助けとして、今から二種類のクッキーを召し上がっていただきましょう」
そう言ってマスターがお皿に乗せて出してきたのは白と黒、二種類のクッキー。
「シェリー・ブレンドと一緒に、白い方からお召し上がりください」
マスターの言う通りにしてみた。白いクッキーを口に含むと、舌の上で溶けていくくらいの柔らかさ。そして甘みを感じる。さらにコーヒーを口に含むと、苦味と甘みがいい感じで混ざり合い絶妙な味となる。
この二種類の味の絶妙さ、さっき私がコーヒーを飲んだ時のものに似ているけれど、それがさらに強力になった感じがする。それぞれの個性を活かしながら、一つの味を作っていく。まさに私が理想としている家族の姿を感じさせてくれる。
雅彦と結婚をしたとしても、自分らしさを失いたくはない。結婚をする時、お嫁さんは相手の家庭に染まりなさい、なんていうのが昔からの風潮ではある。が、私はそれには反対。私は私らしさを保って生きていきたい。このことを雅彦にも理解してもらいたい。
そういえば、雅彦に対して私は同じようなことを理解していただろうか。ひょっとしたら、雅彦らしさを私が奪ってはいなかっただろうか。あの理屈っぽいところ、これが雅彦らしさではある。それを私自身が否定していたのではないだろうか。
お互いがお互いの大切にしているところを尊重しながらも、一つの形を成していく。これが私が望む理想の家庭像。
「いかがでしたか?」
マスターの言葉にハッとさせられた。
「何か見えてきましたか?」
「はい。私が理想とする家庭像。これが見えてきました。お互いがお互いの大切にしているところを尊重しながらも、一つの形を成していくという姿です。このクッキーの甘みと、コーヒーの苦さ、それぞれが主張しあいながらも口の中で一つに融合していく。まさにこの通りのものを望んでいるっていうことがわかりました」
「理想とする家庭像が見えてきたのですね。こちらの白い方はミルククッキーで、シェリー・ブレンドと一緒に食べると自分が望んでいるものを明確にしてくれるという作用があるのです」
まさにその通りだった。私が望んでいる結婚生活というのが自分でもはっきりと自覚できた。
「じゃぁ、こちらの黒い方は?」
「そちらもぜひ同じように食べてみてください。今度は違うものが見えてくると思いますよ」
今度はどんなものを見せてくれるのだろう?期待しながら黒いクッキーをかじる。すると、口の中で香ばしいゴマの風味が広がっていく。それをしっかりと噛んで味わう。
続けてコーヒーを口に流し込む。すると、今度は風味が一層増していく。何だか後押しされている感じ。
何の後押し?それは、勇気を持って自分の思いを伝えること。私、今まで雅彦に対して自分の意志をしっかりと伝えるだけの勇気がなかった。何しろ雅彦は出世コース間違いなしの、優秀社員だから。世間的に見ても、雅彦の方がデキル人間である。私はそこに負い目を感じていた。
でも、これから結婚を考えるのだったら、夫婦は対等でなくてはならない。学歴とか、能力とか、収入とか、地位とか。そんなことで優劣をつけてはいけない。ちゃんと対等に話し合うべきところは話し合い、お互いの思いを伝えあわなければ。
私が今やるべきこと、それは勇気を持って自分の思いを伝えること。これを改めて感じることができた。
「いかがでしたか?」
またまた、マスターの言葉にハッとさせられた。
「マスター、今度のクッキーはどんな作用があるのですか?私、今やるべきことに気づいたんです」
「まさにその作用です。こちらの黒ごまのクッキーは、欲しいものを手にするために何を行動すればいいのか、それを見せてくれる作用があるのです」
やっぱりそうなのか。私が今やるべきことはこれか。
「じゃぁ、私は今思っていること、考えていることを勇気を持って雅彦に伝える。それでいいんですね?」
「そのような光景が見えたのなら、その通りだと思います。それが理想的な姿を得るために必要なことなのでしょう」
あらためて今までの自分を考えてみた。私は話し合うことを恐れていた。どうせ雅彦には叶わない。そう思い込んでいた。
けれど、夫婦になるのだったらその考え方はやめなければいけない。確かに能力は雅彦の方が上。だからといって、人間的に上であるということとは違う。
「マスター、ありがとうございます。なんだか勇気が湧いてきました。私、しっかりと雅彦と話し合ってみます。ケンカになるのかもしれないけれど、自分の思いを伝えないと。そうしないと、この先、雅彦と一緒に暮らしていくなんてことできませんからね」
「私もそれがいいと思います。頑張ってください」
「ハイ!」
元気よく、そう答えて私は残ったクッキーとコーヒーを一気にほおばった。この時、頭の中ではケンカをしている私と雅彦が浮かんだが、すぐに笑顔になる二人の姿も見えてきた。そうだ、この姿を私は求めていたんだ。よし、やるぞ。
その後、私はお店を出てすぐに行動を起こした。
「もしもし、雅彦?」
昨日あったことを忘れているかのごとく、普通な感じで雅彦に電話をかける。
「なに、どうしたの?」
少しぶっきらぼうな声で応える雅彦。これは昨日のことを引きずっているな。なんとなく直感でそう感じた。
「今から時間ある?話したいことがあるんだけど」
「昨日のことだったら聞きたくない。どうせ愚痴るんだろう?」
まるで駄々っ子のような口ぶり。カフェ・シェリーに行く前の私だったら、ここで黙り込んでしまうところ。けれど今はそんな気になれないし、それよりも大事なことがあるのでこう切り返した。
「昨日のことだったらごめんなさい。私、雅彦のことをきちんと考えずに自分勝手な計画を立ててた。そのことは謝るわ」
「あ、あぁ、そう、そうなんだ」
電話口の向こうで拍子抜けしている雅彦の顔が浮かんだ。まずはこちらから謝ってみる。これも作戦の一つであることを、マスターの話から学び取った。
「で、話したいことって何?」
今までの私だったら、「それは会ってから話す」なんて言っていたと思う。けれど雅彦は結論を先に知りたがるタイプ。ここは雅彦に合わせた方が良さそうだ。
「二人の将来についての話。これからのことについてなの」
「これからのことって、別れ話!?」
電話の向こうで、雅彦の声のトーンが変わったのがわかった。焦りを感じたようだ。
「そ、そんなことさせないからな」
さらに焦る声でそう言う。その言葉を聞いてちょっと安心した。そんなことはさせない、つまりまだ私と付き合っていたいという意思表示でもある。
「そうじゃないの。私、この先もきちんと雅彦と付き合っていきたい。だから、今これからのことを話し合っておきたいの」
「そうなんだ。脅かすなよ」
脅かしたつもりはない。雅彦が勝手にそう思っただけだし。でも、電話口の向こうで雅彦が焦っている姿を想像したら、なんだか笑えてきた。いつもはクールなくせに、こんなことで慌てちゃうんだ。
「これから雅彦のところに行っていい?」
「あ、あぁ、わかった。待ってる」
電話を切った後、ちょっとだけ優越感に浸っている自分に気づいた。いつも口では理論家の雅彦に負けちゃうけれど、今回は口で勝った気分だ。うん、気持ちいいな。
でも、これからやる話は勝ち負けを争うケンカとは違う。お互いの気持ちを理解しあい、新しい生活を築いていく。そのための話し合いなのだから。ケンカっぽくなるかもしれないけれど、期待は高まる。
雅彦のマンションに到着。オートロックの前に立ち、一度深呼吸。そして部屋番号を入力。
「はい」
「私、ついたよ」
雅彦、何も言わずにドアを開けてくれる。エレベーターに乗り込み、再び深呼吸。さぁて、まずはなんて切り出そうか。そう思いつつも雅彦の部屋の前に到着。呼び鈴を押す。
カチャリ
鍵が開く音。いつもならここで雅彦がドアを開いてくれる。が、今日はなかなか開いてくれない。勝手に入れ、ということか。ならばと思いドアを自分で開こうとした時、同じタイミングで雅彦がドアを開いたのでちょっと驚いた。
「あっ!」
「ごめん、入って」
雅彦、ひょっとしたら私を部屋に入れるのをためらったのかな?でも、ここまで来ているのにそれはないだろう。
私がソファに座ると、雅彦は向かい合うように床に座った。いつもなら私の横に来てくれるのに。確か聞いたことがある。向かい合って座るというのは、相手と対立をしようという時の姿勢だって。雅彦、私とケンカをしようとしているのかしら。
「で、これからのことってどんなことを話したいの?」
恐る恐る口を開く雅彦。いつものシュッとした、堂々たる態度は何処へやら。私の方が見下ろす形になっているせいかもしれない。
「まず、私の今の思い、考えを何も言わずに最後まで聞いて欲しいの。途中で口を挟まずに。いい?」
雅彦は黙って下を向いていたが、わかったという意思表示で首を縦に振った。よし、ここからスタートだ。
「今日ね、ある喫茶店に行ったの。そこでいろんなことを学んだ」
魔法のコーヒーのことを話そうかと思ったけれど、今これを話すととても信じてもらえなさそうだったからやめておいた。それよりも、私がカフェ・シェリーで何を学んだのかを知ってもらう方が大事だ。
「そこのマスターと奥さん、歳がすごく離れているんだけれど、とてもいい夫婦なの。でも、この前ケンカをしたの。奥さんがいいバッグを見つけたのに対して、マスターはその値段を聞いたんだって」
「あの…だから…」
雅彦が口を挟もうとした。が、それを私は目で牽制した。雅彦が言いたいことはなんとなくわかる。そんなことよりも結論を先に言ってほしい、ということだろう。私も回りくどい言い方をしているなって、さっさと自分の思いを伝えればいいのになって、心の中では思っていた。けれど、私自身の頭の中を整理するために、回りくどくても今日体験したことから話さないといけない。だから話を続ける。
「それで奥さんは怒り出したの。どうしてかわかる?」
雅彦は黙って首を横に振る。あのマスターでさえわからないものが、理屈屋の雅彦にわかるはずがない。
「奥さんはバッグが欲しくて話をしたんじゃないの。ただ共感して欲しかっただけ。マスターは年齢差の負い目もあるから、欲しいものは買ってあげたいという気持ちが強いの。奥さんが本当に欲しいのは、バッグじゃないのよ。安心して生活していける、そんな時間が欲しいんだって言ってきたんだって。そこでマスターは思ったの。今まできちんと、奥さんの気持ちをわかってあげようとしていなかった。本当に欲しいものがなんなのか、ちゃんと理解していなかったって」
一気にしゃべった。これで私が言いたいこと、雅彦は理解してくれたかな?
「つまり君もそうだってこと?」
「そうって、どういうこと?」
「君も、その奥さんと同じように、欲しいのは安心して生活できる時間だってこと」
そこじゃないんだよなぁ。やっぱり理屈屋の雅彦には、私の気持ちはまだ理解できていないか。ここはきちんと話すべきかな。
「雅彦にわかって欲しいのは、奥さんの気持ちじゃないの。マスターの方なのよ」
「マスターの方?意味わかんないよ」
雅彦、徐々にイラついてきているのがわかる。とにかく結論が先に欲しい、それが顔色と態度で見え見えだ。これ以上雅彦をイラつかせてもメリットはない。じゃぁ、そろそろ答えを伝えるとするか。
「私がわかって欲しいのは、もっと相手の気持ちを考えて行動をするというところなの。雅彦はいつも、自分の理屈が正しいと思っているでしょ。昨日見た映画も、ストーリーじゃなくて女優の演技力のことを言ってきた。これって、私の映画のチョイスを避難しているのと同じだってことに気づいていないじゃない」
「だって、それは事実じゃない」
「黙って最後まで聞いて!それにパスタのこともそう。私が選んだお店なのに、厳しい味の評価しかしないんだから。結局、私のセンスを疑っているとしか思えないのよ。そういう私の気持ち、わかってないでしょ」
「だから、それは事実を述べただけで…」
「事実を述べることが全て正しいこととは違うのよ。雅彦は相手がどんな思いで、どんな気持ちでいるのかなんて考えてないでしょ。私、いつも行き当たりばったりだから、デートプランを一生懸命考えて、雅彦に喜んでもらおうと思って必死だったのに。それをなんでわかってくれないのっ!」
喋り出したら止まらなくなってきた。最後の方は、気づいたら涙を流しながら感情を荒げてしまった。
「ご、ごめん。君がそんな思いをしていただなんて知らなかった。あの時、言ってくれればよかったのに」
「だからぁ、それを察して欲しいの。私の気持ち、わかって欲しいのっ!」
しばらく沈黙が続く。口を開いたのは雅彦。
「それは無理だよ。エスパーじゃないんだから。きちんと言ってくれないとわからないよ。君が自分の思いを察して欲しいというのであれば、こちらも今の自分の思いを察して欲しい。思いは口にしてくれないとわからないんだから」
そう言われればその通りだ。今まで雅彦に自分の思いや考えていることを伝えてこなかった。これは私が悪い。だからこそ、今日こうやって話をしようって、そう思ってやってきたんだった。
「ごめんなさい。自分の思いばかり口にしちゃって。自分のことをわかって欲しいって、一方的に言うんじゃなくて、雅彦のこともきちんとわかってあげないといけないよね」
「じゃぁ、ちょっと話を整理してもいいかな?」
そう言って雅彦は紙とペンを取り出した。これは雅彦が会社の中でもよくやるやつだ。
「まず、昨日のことから振り返ってみよう」
雅彦、昨日の行動を紙に書く。そして、そこで起こったこと、というか雅彦が感じたことを書き出す。映画では女優の演技がつまらない、レストランではイクラが余計だ、と。
「これが自分が感じたこと。じゃぁ君はこの時どう感じたのかを教えてくれないか」
「正直に言うね。映画については私はストーリーに感動した」
今度は赤色のペンを取り出し、私の気持ちをそこに追加した。
「パスタは正直、美味しかったと思う」
さらに文字を追加。
「そしてもう一つ書いて欲しいの。最後に雅彦、今回のデートが60点って言ったよね。それはショックだった」
黒文字で60点、これは雅彦の言葉。そして赤文字でショック、これは私の言葉。
「あ、さらに追加して欲しいことがある。帰ってから私、かなり泣いちゃった。せっかく雅彦に喜んでもらおうと思って計画したデートなのに。どうして私の気持ちをわかってくれないのかって。それに、なぜあんな別れ方をしたのに連絡もしてくれないのかって」
赤文字で「泣いた」「私の気持ちをわかってくれないの?」「なぜ連絡もしないの?」と追加。
「じゃぁ、この時の自分の気持ち、これを今から伝える。ちょっとショックかもしれないけれど聞いて欲しい」
雅彦、改めて私と向かい合い、大きく深呼吸をした。そして口を開く。
「まず恋愛映画。これは正直なところ仕方なく付き合ったというのが本音。どちらかというとアクション映画やコメディの方が好きなんだよね。恋愛映画ってなんだかむず痒くなってくるんだ。だからストーリーよりも演技の方に目がいってしまう。そしてパスタ。同じようなパスタを別の店で食べたことがあって。その時の味がすごく印象に残っていてね。この時上にトッピングしてあったものが『いくら』じゃなくて『とびこ』だったんだ。だからそのことを思い出して、つい口にしてしまった」
雅彦は自分が言ったことを、私が言ったことに対比させるように紙に書き出した。
「60点と言ってしまったこと。これは失言だったと思う。君の気持ちを考えずに、自分の評価だけを口にしてしまったから。けれど、そのあと連絡を待っていたのは、君と同じ気持ちだ。自分も君からの連絡をずっと待っていた。けれどなんの連絡もなく今日を迎えたんだ」
「じゃぁ、私のことが嫌いになったとかじゃないってこと?」
「もちろん、君のことは大好きだよ。けれど、趣味嗜好が合わないところもある。これはどうしようもないところだ」
じゃぁ私と雅彦は価値観が合わないのか。だったら結婚はしない方がいいのか。そのことが頭をよぎった。が、雅彦の方から意外な言葉が飛び出した。
「そもそも人って、趣味嗜好、価値観がまったく同じ人っていないよね。十人十色、それぞれがそれぞれの考え方を持っている。夫婦って、そういう違いを持つ二人が一緒に暮らすものだろう?」
そう言われるとその通りだ。マスターと奥さんだってそうなんだから。似ているところもあれば違うところもある。だから意見を交わし、そこから同じ価値観を作り上げていく。それが正しい夫婦喧嘩なんだよな。
「じゃあ、今回の場合はどうするのがいいと思う?」
「今回、自分の悪いところ、至らないところを改めて自覚できた。自分でもわかっているけれど、すごく理屈屋で自分の価値観に合わないところはすぐに口にしてしまう性格だってこと。これが相手を傷つけてしまうということを今まであまり考えてこなかったのは確かだよ。ここは治さなきゃいけない。けれど君も同じように自分に気づいたことがあるんじゃない?」
そうだ、その通りだ。
「私は今まで、自分の思いや考えを口にしてこなかった。それが私の悪いところだってのはわかってる」
「じゃぁ一つ提案があるんだけど。これから一緒に過ごしていくためには、お互いの思いや考えをしっかりと伝え合うことが大事だと思うんだ。そして、お互いに至らないところやできていないところは素直に反省をして治していく。だから、きちんと話し合う場を作って欲しい。どうかな?」
「雅彦の考え方に異論はない。でも、そのために一つお願いがあるんだけど、いい?」
「どんなこと?」
「まずは私の考えを伝えた時に、それを理論責めで言い包めないようにして欲しいの。雅彦、相手を論破するの好きでしょ?」
「好きでしょって言われると、それはちょっと違うかなって思うけど。まぁ得意なのは得意かな。そもそも好きと得意は違っていてね…」
「ほら、それ。言葉の揚げ足を取るようなこともしちゃうでしょ。それをやめて欲しいの。そもそも本題じゃないところに対しての間違いを指摘して、相手を負かせたようなつもりになるところ。これをやめて欲しいの。私た伝えたい気持ちを、まずはしっかりと受け止めて欲しい」
「そうだね、これは悪い癖だな。早速そうやってくれてありがとう。すぐには治らないかもしれないけれど、そこはガマンして欲しいかな」
「わかった、協力する」
雅彦、心なしか前よりも丸くなった気がする。
「ところで、君は僕とこれからも一緒にいてくれる。そういうことでいいのかな?」
「えっ、うん。そのつもりがあるから、今日はこうやって雅彦のところに来たんだけど」
「そうか、ということはこの先ずっと一緒にいてくれるってことなんだよね?」
「まぁ、そうなるよね」
「これって、逆プロポーズってこと?」
そう言われて、急に顔が火照ってきた。えっ、私ってそんな大胆なことしちゃったの?
「そ、そ、そんなこと言われてもさ…」
「ま、これで僕も安心できた。いつこれを君に渡そうか、ずっと悩んでいたから」
そう言って雅彦、バッグから小さな箱を取り出した。
「開けてごらん」
もしかしてこれって…期待しながら箱を開く。するとそこには、期待通りのものが入っていた。
「うそっ!」
「うそじゃないよ。君にいつ渡そうか、ずっと迷っていた。ひょっとしたら嫌われたんじゃないかって、昨日から悩んでいたんだ。でも、そうじゃないってわかったから。だから、結婚しよう」
ここから二人の新しい生活がスタートした。
この先、雅彦とは何度もケンカをするだろう。でも大丈夫、それは新しい価値を作り出すきっかけなんだから。
<ケンカをやめて 完>