07.その空席に、私は手を伸ばす
京太郎くんが西田くんに連れられて行くのを、私は一人で眺めていた。
その背中を目で追っていると、ついさっきから考えていることが口を衝いて出る。
「双葉ちゃん……どうして彼氏なんて……」
「朝からしんみりした顔で、どうしたのっと」
「わひゃっ……」
突然、横から声をかけられて、思わず変な声が出てしまった。
顔を向けてみれば、クラスメイトの女子が面白そうに笑っている。
「もう、脅かさないでよ……。おはよう、東山さん」
「ふふふ、おはよ。いやあ、晴日さんは今日も可愛いねえ」
「またそんな適当言って……」
私に声をかけてきたのは、東山さんという女子だった。
私や京太郎くんたちとは去年から同じクラスで、たまに話す間柄である。
とはいえ特別親しいかと言われると、お互いに名字で呼ぶくらいの距離感と答えれば大体の雰囲気は伝わると思う。
気まぐれで軽い気風が私は嫌いではないけれど、こういう真面目な気分の時は少し話すのが億劫になるような、そんなクラスメイトだ。
「あー、稲瀬か。まあ、晴日さんがあんな熱い目線を向ける相手なんて、うちのクラスじゃアイツくらいだよね」
「熱いって、そんな……」
「あはは、照れない照れない」
そう言いながら、東山さんは私の肩を軽く叩く。
別に痛くはないけど、何だか腑に落ちない気分だった。
「それにしても稲瀬の奴、昨日の今日でもっと落ち込んでると思ったんだけど、意外と普通だね。それとも意外に演技派なのかな?」
教室の隅にいる京太郎くんの姿を眺めながら、東山さんは思い出したように呟いた。
今の状況で京太郎くんが「落ち込む」と言えば、双葉ちゃんの話だろう。
どうやら彼女も、すでに双葉ちゃんに彼氏が出来たのは知っているらしい。
「東山さん、双葉ちゃんの話知ってたの?」
「まあね。昨日はあたしも教室に残ってたし。荒屋敷さんが戻ってきて告白を受けたって報告してくれた後は、みんな揃って帰っちゃったけど」
「みんな揃って? なんで?」
「そりゃあ、可愛い幼馴染に『お前以外の彼が出来たぞー』って報告される、可哀想な男の姿を見ないであげようっていう粋な計らいだよ」
粋な計らいって……本当かなあ。
どうにも東山さんは口調が軽いから、こういう時に殊勝な態度には見えない。
他のクラスメイトも基本はいい人たちだと思うけど、こと恋愛に関しては興味津々な年頃だから、面白半分な部分もあるんじゃないかと思う。
まあ、それは言っても仕方ないから、別にいいとして……。
「双葉ちゃんに彼氏が出来たなら、私に教えてくれてもよかったのに」
「えー? でもあたしと晴日さんって、普段は連絡とか取らないでしょ?」
「それはそうだけど……」
「それに晴日さんって奥手だから、昨日のうちに知ってたって、稲瀬に連絡取ったりはしなかったんじゃない? だったら一緒でしょ」
そう言われて、私は閉口してしまった。
確かに話を聞いてすぐに京太郎くんに連絡するなんて、私には無理だろう。
京太郎くんとは個人的なやり取りもするけど、そういうところで思い切り突っ込んでいけるほど、私は強気にはなれない。
一応、昨日の夜に世間話的なメッセージを送った時は、京太郎くんも相談とかしてこなかったわけだし。
私たちが変に気にし過ぎなだけで、本当に平気なんだろうか。
「でさ、晴日さんはどうするわけ?」
「どうするって?」
「ほら、見てみなよ、あれ――」
そう言いながら彼女は、京太郎くんの方を目立たないように指差した。
「あそこ――空いてるでしょ?」
それは私にとって、まるで悪魔の囁きのように聞こえた。
釣られて見ると、いつもなら双葉ちゃんがいたはずのそこに、今は誰もいない。
そう言われれば、さっき京太郎くんも「彼女を作ろうか」なんて言っていた。
もしこれが真実だとしたら、私にもまだチャンスがあるのだろうか?
「お、やる気になった? 晴日さん」
「っ!? な、なんで……?」
「なんで焚き付けるのかって? 別に変な理由があるわけじゃないけどさ。そうやって要らない遠慮してると、後悔するんじゃないかと思って」
「要らなくはないと思うけど……」
「いやあ、要らないでしょ。だって荒屋敷さん、もう彼氏いるんだよ?」
そう言われると、確かに遠慮する必要なんてないのかもしれない。
彼女がその場所を投げ出してしまったのなら、私が代わりに行っても――。
「まあ、あたしも一年の付き合いがある身として、晴日さんの様子はもどかしく感じて、って……あれ、どういうこと?」
不意に東山さんが、困惑の声を上げた。
彼女は京太郎くんのいる方を見ていたので、私も同じ方向に目を向ける。
そこには、いつも通り笑顔で京太郎くんに引っ付く双葉ちゃんの姿があった。
「えー、彼氏できたんだよね? 荒屋敷さんって。まさかもう別れたの? いや、早過ぎるか……」
どうやら東山さんは、双葉ちゃんの行動が理解できないようだ。
一方で私は――去年から誰よりもあの二人を傍で見てきた私は、完全には理解できなくても少しだけその行動理由が想像できた。
だからって、それが正解だとしても全然納得は出来ないんだけど。
「ちょいちょい、晴日さん。顔が硬くなってるよ? もっと笑顔じゃないと、稲瀬を骨抜きに出来ないぞー?」
東山さんがそんな軽口を言ってくる。
意識してみれば、確かに表情が少し硬くなっていたかもしれない。
私はほぐすように顔を両手で揉んで、笑顔を作ってみた。いつも京太郎くんに見せるような、彼が喜んでくれる笑顔を想像して。
「そうだね。硬い顔してたら、京太郎くんも喜んでくれないよね」
私の言葉を聞いて、もしくは顔を見て、東山さんは「はい?」と驚いていた。
そんなに変なことを言っただろうか、私は。
「は、晴日さん。もしかして、マジでやる気になっちゃた?」
「うん、まあ……。一回くらいは頑張ってみようかなって」
だって双葉ちゃん、欲張り過ぎなんだもの。
――あなたなら、どうする?
目の前にずっと欲しかったものが転がっていて、そこには誰の名前も書かれていなかったとしたら。
それに手を伸ばそうとした瞬間、「やっぱりこれは自分のものだ」って所有権を主張する人が出てきたとしたら。
なのにその人は、ちゃんと名前を書いておかなかったとしたら。
名前が書いてなくても、それはその人のものだと、素直に諦められる?
――私には、絶対にできない。
「……ごめんね」
隣にいる東山さんに聞こえないように、私は小さく呟いた。
私は一度だけ、それに手を伸ばすと決めた。
今回はリメイク版のオリジナルエピソードです。
次回も京太郎視点でもう一回やります。