15.俺の彼女が可愛すぎて、責任を取らされそうになる
久々に稲瀬家が勢揃いで過ごした賑やかな夜が明け、俺は以前もハレさんとの待ち合わせした駅前で、再び彼女を待っていた。
彼女……そう、彼女だ。あの時のハレさんはただの友達だったけど、今のハレさんは俺の彼女、恋人である。そう思うと、弥が上にも期待が高まるというものだ。
しかし順風満帆なはずの俺とハレさんの恋人関係には、重大な懸念点があった。
それは何かと言えば――ハレさんがエロ過ぎるのである。
確かに俺はずっとハレさんのことを魅力的な女性だと思ってきたが、それは性的なニュアンスよりも可憐な花のような愛らしさのつもりだった。いや、そういう部分もハレさんには未だにあるにはあるのだが、付き合ってからは匂い立つような色気も感じさせるようになっている。
俺も双葉との付き合いは長いので、同年代の女性への耐性は人よりある方だと思っていた。だが実際にハレさんと付き合って、そんな経験は全く役に立たないことを知ってしまった。
正直、今日のデートは楽しみであると同時に、とても不安でもある。
何故なら今のハレさんと二人きりで、俺の理性が持つか分からないからだ。
ちなみに今日に至るまでの平日の間、俺は毎日ハレさんとキスしていた。
双葉が先輩のところに行っていたりすると、ハレさんはすぐに俺を人目のないところへ連れ込もうとする。というか、実際に連れ込んでいる。そして時間の許す限り、俺とキスをしようとするのだ。
そろそろクラスメイトにもバレるのではないかと心配しているが、今のところ何か言われるということはない。ハレさんにそういうイメージがないのか、あるいは気付いていて見逃してくれているだけなのかもしれない。
長くなってしまったが、俺が最終的に何を言いたいかというと――要するに責任を取らざるを得ない事態は避けたいということだ。
いや、別に責任を取る気がないとか、ハレさんとそういう関係になりたくないわけじゃないんだけど、俺はまだ高校二年生だし……色々とマズいだろう。
そんなわけで今日のデートに、俺は様々な決意を持って臨むのだった。
「おはよう、京太郎くん。ごめんね、待った?」
俺が決意を新たにしていると、いつかと同じセリフを口にしながらハレさんがやって来た。相変わらずの花のような笑顔に、早くも俺の心臓は早鐘を打ち始める。
「おはよう、ハレさん。俺もさっき来たところだよ」
俺も敢えて以前と同じセリフで返してみたが、声は震えていないだろうか。
改めてハレさんの姿を確かめると、まるで天使のような可愛さ――いや、彼女がただ純粋な天使ではないということを、俺は既に知っている。
今日のハレさんは、全体的には以前のデートと似たような格好をしている。
服装は清潔感があってシンプルだし、以前と違うところと言えば今回は髪をハーフアップにしている点だろうか。
しかし今のハレさんは本人の醸し出す色気が前回とは桁違いなので、服装は同じ系統でも俺が受ける印象は全く違っている。
「ハレさんって普段はあんまり髪型変えないから、デートの時は得した気分になるよね。今日のも凄く可愛いよ」
「ふふ、ありがとう。京太郎くんも、いつもより格好いいよ?」
「そ、そう? ありがとう」
くそう……。前は俺が褒めたら、ハレさんはすぐに恥ずかしがっていたのに。
すっかり魔性の天使になってしまって、俺の方が恥ずかしがる始末だ。
ここはハレさんの可愛いアレを聞かせてもらって、気を取り直すことにしよう。
「今日もいい天気だよね」
「うん、そうだねー。今日は晴れの日、デート日和♪」
ハァ……ほんっと可愛い――などと俺が思っていると、ほんの一瞬だけハレさんの顔が近付いてきて、甘い香りと共に俺の唇を何かが掠めていった。
多分、時間にして三秒もなかっただろう。その短い時間でハレさんは距離を詰めて俺の唇を奪い、またもとの位置に戻って行った。恐ろしく手慣れた犯行だった。
「あと……キス日和♪」
自らの唇に指で触れながら微笑むハレさんの姿によって、俺の理性がドロドロに溶かされているのが分かる。
このまま一方的に押されるのは彼氏としての沽券に関わるので、少しくらいは俺の方からも攻めることにしよう。
決してハレさんの魅力によって、理性がやられてしまったわけではない。
「せっかくのキス日和なら、もっとたくさんしないと勿体ないよね」
俺がそう言うとハレさんは一瞬だけ驚いた後、嬉しそうに笑った。
そしてやり返したと思い上がった俺を、さらに打ちのめしてくれるのだ。
「じゃあ、今日はずっとキスだけしてようか?」
……ごめん、もう本当ムリ。
ていうか一日中キスだけするのって、逆に難しくない?
そんなのどう考えても、途中でもっとエロいことするに決まってるじゃん。
待ち合わせは俺の完敗に終わったが、無事にデートは続行された。
ハレさんとキスだけして過ごす一日という、あまりに強烈な誘惑に敗北しそうになったものの、どうにか理性を振り絞って出発することに成功した。
俺の男としてのプライドは、無事に砕かれてしまったが。
今日のデートの内容は、映画鑑賞がメインとなっている。
半年くらい前に話題になったドラマの続編が、劇場版として公開されたらしい。
俺はそのドラマを観たことはないのだが、ハレさんや双葉から何度か話は聞いていた。特に双葉はネタバレとか気にせず喋りまくるので、大体それを聞いて満足した俺が実際に作品を見ることなく終わるというのが、定番パターンだったりする。
「映画館に来るのって、結構久しぶりだな」
「そうなの? 双葉ちゃんとは来ないんだ?」
「前に言った美術館と同じだよ。騒げない場所は、あんまり来たがらないんだ」
あれ、でも先輩とは映画館に行ったんだったか?
前も思ったけど、やっぱり彼と幼馴染だと見せる態度も違うってことなのかな。
「ハレさんは? よく来たりするの?」
「うーん……私もそこまでじゃないかなあ。年に何回かくらい?」
「それでも年に一回も見ない俺よりは、よっぽど多いね」
「これからは私と一緒に、たくさん見に来ようね?」
ちょっと……可愛すぎない? この子、俺の彼女なんすよ。
チケットや飲み物を買ってシアターに入ると、久々ということもあって少しばかり俺のテンションも上がってくる。
年に何度か足を運ぶハレさんは飽きているかもしれないが、俺からすると大スクリーンで見る予告編だけでも興味をそそられるのだ。
あと頭がカメラのアレ。俺は子供の頃から、妙にアレが好きだったりする。
「……ん?」
相変わらずのキモい動きを楽しんでいると、左手に触れられた感覚があった。
顔を横に向ければ、俺の顔を見つめながら自分の右手を俺の左手に重ねている、ハレさんの姿が目に映った。ここまでだと微笑ましい高校生カップルに見えるかもしれないが、問題はハレさんが重ねた手を撫で回すように動かしていることだ。
手のひらで甲の部分を撫でられたかと思えば、今度は手を重ねて俺の指の間にハレさんの指が入ってくる。その状態で手を握ったり開いたりされると、何だかとんでもなく淫靡なことをされているように錯覚してしまう。実際は手を触られているだけのはずなのに。
「あ、あの……ハレさん?」
「……ダメ?」
流石に落ち着かないので勘弁してもらえないかと思ったが、暗がりの中でスクリーンの光によって照らされたハレさんの切なげな表情を見ると、何も言えなくなってしまう。
「だ、ダメじゃないけど……」
どうにかそれだけの言葉を絞り出すと、慌ててスクリーンに向き直す。
このままずっとハレさんの顔を見ていたら、どうにかなってしまいそうだ。
「ふふっ、よかった……」
本気で安堵したような蕩けた声が、左耳から俺の脳を犯してくる。
本当にスクリーンの方を向いていて良かったと思う。
こんな声を出すハレさんの表情を直視したら、きっと俺の脳は跡形もないほどに溶かされてしまうに違いない。
気付けばスクリーン上では宣伝が終わり、映画の本編が始まろうとしていた。
多分、ドラマを観ていない人にも分かりやすいように、冒頭でこれまでの解説がされていると思うんだけど、内容が全く頭に入ってこない。
何故かと言えば、本編が始まってもハレさんの手が止まってくれないからだ。
さっきまでは手のひらへのアプローチが中心だったが、今はハレさんの手が俺の指を一本一本握ったり、さすったりといった動きに変わっている。
いや、ちょっと待って。ここ本当に映画館だよな? 卑猥な店じゃないよな?
こういう時は関係ないことを考えて、気を逸らすのが得策だろう。
ええと、なんだろう……羊を数える的な? いや、あれは眠れない時だったか。
でも試しに……双葉が一人、双葉が二人……地獄絵図じゃねえか……。
一瞬、気を逸らすことに成功したものの、次の瞬間にはハレさんの手が俺の手首をさするという新技を見せてきた。
理屈は分からないが、とにかくエロいことだけは分かる。
結局、最後のスタッフロールが流れ出すまで、俺はスクリーンの中で何が起こっているのか理解できないままだった。
「京太郎くん、久々の映画はどうだったかな?」
「……凄く、良かったです」
映画館を出ると、ハレさんが楽しそうに声をかけてきた。
俺が映画をまともに見ていなかったことには、気付いているだろうに。
人によっては真面目に映画鑑賞したかったのを邪魔されたと怒るかもしれないが、特に今日の作品に思い入れのなかった俺としては、あの入場料であれだけのサービス(全年齢対象)を受けられて文句など言えるはずがない。
「じゃあ……また来ようね?」
文句は言えないが、正直色々と持たないので、もう少し手心は加えてほしい。
微笑むハレさんを見ながら、俺は本気でそう願った。
――だが、ハレさんに手心などなかった。
今のハレさんには雰囲気など関係ないらしく、歩いている途中でも「あ、そろそろキスしたいね」などと言って路地裏なんかに俺を連れ込んでくる。
不動産屋の前を通りかかれば、店頭の物件紹介を見ながら「こんな部屋に住みたいね」と笑顔で言ってくるし、本屋に立ち寄ればインテリアの雑誌を見せて「どっちのテーブルがいいと思う?」なんて聞いてくる。
ショッピングモールで幼児向けのおもちゃコーナーを覗き始めた時は、周りの目が気になって仕方なかった。
まさか昼飯の食べさせ合いが、俺にとって一番平和な時間になるとは……。
「はぁー、今日は本当に楽しかったね、京太郎くん」
「そ、そうだね、ハレさん」
そろそろ薄暗くなってきたので、まずはハレさんを自宅まで送ろうと歩き出す。
正直何度も危ない場面はあったが、どうにか最後まで理性を保つことが出来た。
今日ばかりは、自分の我慢強さを褒めてやりたい気分だ。
そんなことを考えていたら、不意に隣を歩いていたハレさんが立ち止まった。
「ハレさん、どうかした?」
俺の声に応えるように、ハレさんは顔をこちらに向けてから口を開く。
「京太郎くん……このまま帰りたくないって言ったら、どうする?」
「え、そ、それって……」
ハレさんは潤んだ瞳で、俺を見つめてくる。
今はまだ歩き始めたばかりで、繁華街からは離れていない。ここから少し歩けば、そういう建物が立ち並ぶエリアがあるのも知っている。
ああいう場所は意外にザルだと聞くし、私服なら入ることも出来るだろう。
正直に言えば、今日はずっとハレさんから煽られていたようなものだから、俺としても我慢の限界ではある。
だけど――。
「ハレさん。間違ってたら申し訳ないんだけど、なんか焦ってない?」
確かにデートで浮かれている部分はあっただろうけど、それでも今日の――少なくとも今のハレさんは、俺との進展を焦り過ぎているように思える。
「……やっぱり京太郎くんは、全部分かっちゃうんだね」
俺の予想は正解だったらしく、ハレさんはふにゃっと力ない笑みを浮かべた。
眉尻を下げたまま、ぽつぽつと語り始める。
「時々、まだ夢じゃないかと思うんだ。私が京太郎くんの彼女になれたなんて」
「夢……? それって、もしかして……」
「うん、双葉ちゃんのこと。……まだ思うの。本当は京太郎くんの隣にいるのは双葉ちゃんで、私は何かの手違いでこうしていられるだけなんじゃないかって。目が覚めたら、私の隣には京太郎くんはいないんじゃないかって」
ハレさんは笑っているけど、笑っていない。
ただ顔が笑った形をしているだけだ。
「だから私は、消えない何かが欲しいんだと思う。痛みでも、熱さでもいいから、京太郎くんが隣にいるって感じたいんだと思う。京太郎くんの隣で眠れば、きっと目が覚めても隣にいてくれるから」
ハレさんを――ほのかを見て、俺は思う。
もしかしたら俺は、四の五の言わずに彼女を抱き締めるべきなのかもしれない。
責任とか将来とか難しいことは後に回して、今目の前で泣きそうになっている彼女を、俺の全てで泣き止ませるのが正しいのかもしれない。
それで失敗したって、俺たちなら二人で乗り越えていけるはずだ。
だから、俺は――。
「ほのか、俺は君が好きだよ。双葉じゃない、ほのかが好きなんだ」
ほのかに向かって、俺は手を伸ばした。
俺は彼女を抱かない。慰めのためなんかじゃ、きっと後悔するだろうから。
だから今は、ただ抱き締めるだけで我慢してほしい。
「ずるいなあ、京太郎くんは」
泣き笑いのよう表情で、ほのかは呟いた。
「どうせ後でまた不安になるに決まってるのに、こうして抱き締められてる間だけは、これで十分かもって思っちゃうんだもん」
今になって気付いたけど、ここは普通に道端だった。
それほど混み合う道ではないとはいえ、通行人が明らかに俺たちを見ている。
だがまあ、そんなのは知ったことじゃない。
泣いてる彼女を抱き締める以上の仕事なんて、男にはないんだから。
「帰ろう、ほのか」
「……うん」
しばらく抱き締めた後に声をかけると、ほのかは素直に頷いてくれた。
勢い任せに済ませなくて良かったと、心の底から安堵する。
とはいえ、ほのかの不安を取り除くために、これだけは言っておこう。
「その……そんなに待たせるつもりはないから」
「え?」
「俺も男なので、まあ我慢の限界はあるというか……。とりあえず、こんな慰めのためとかじゃなくて、もっと幸せな時にしようよ」
どうせ俺だって、いつまでも我慢していられるわけがないのだ。
それを遠回しに伝えると、ほのかはいつもの花が咲いたような笑顔になる。
「じゃあ、京太郎くんが我慢できなくなるように、もっと頑張るね? 京太郎くんともっと深く繋がりたいって気持ちも、嘘じゃないから」
……どうやら俺はこれから、さらなる苦境に立たされるようだ。
ようやく冷静になった俺たちは、通行人から見られまくっていることに気付いて、そそくさとその場を後にした。
今は当初の予定通り、ハレさんの自宅に向けて歩いているところだ。
うーむ……冷静になると、少しだけ惜しいことをした気がしないでもないな。
とはいえ、やっぱりまだ責任は取れないのも事実だし……。
「ねえ。稲瀬 京太郎って、アンタだよね?」
そんなことを考えながら歩いていると、背後から聞き慣れない声がかかった。
一瞬、ハレさんと顔を見合わせた後、二人で揃って振り返る。
そこにいたのは、燃えるような目をした、長身の女性だった
「話があるんだけど。アンタの幼馴染と、その彼氏について」
無事にノクターンを回避しました。




