11.初めてのキスと、初めてではないキス
ハレさんとのデートを楽しみ、そしてその後に双葉から呼び出しを受けた週末が終わり、俺はいつもと変わらない平日を過ごしていた。
相変わらず朝は双葉と一緒に登校し、教室に行けばハレさんといつものやり取りをする。帰りも双葉と一緒だし、以前と違うのはたまに双葉が先輩を見かけて話に行くくらいだろうか。
いや、最近はハレさんが俺たちと一緒にいることも、少し増えたかも。
一見すると大して変わり映えのない日常を過ごしている俺たちだが、それでも俺とハレさんの関係が何も変わっていないというわけではない。表面上の言葉のやり取りはいつも通りでも、どこか浮ついたような空気が間に流れているのだ。
今までも散々「ハレさんは可愛い」と心中で感想を零してきた俺だが、最近のハレさんの可愛さときたら以前の比ではなく、しかも純粋な可愛さ以外にどこか艶のようなものも感じてしまう。
俺が彼女の魅力に陥落するのも時間の問題だろうと、否応なしに予感させられるのだった。
そんな少しだけ変わった日常をこなす俺たちだが、今日も双葉だけでなくハレさんも一緒に、学校の中庭で昼食をとっていた。
ハレさんだけが弁当持参で、俺と双葉は購買で買ったパンを食べている。
最近ではお約束になりつつある昼食の風景を繰り広げていると、不意に双葉が声を上げた。
「そーいえば、キョータローとほのかって、先週デートしてたんだよね?」
「んんっ……」
双葉が突拍子もない思い付きを口にするのはいつものことだが、この状況でそこに言及されるとは思っていなかったので、ついむせそうになってしまった。
ちらりと目を向けてみればハレさんも自分の口元を押さえているし、俺と似たような反応をしていたのだろう。
「今朝、ほのかから聞いたよ。ずるいじゃん、二人だけ出かけてさー。私も一緒がよかったなー」
「ハレさんから?」
双葉の言葉に疑問を覚えてハレさんに目をやると、ハレさんは俺の視線に気付いたのかどこかバツが悪そうにそっぽを向いた。
俺は双葉に、この間のデートのことを全く話していなかった。
当日双葉と会った時にもわざわざ「双葉がデートしている間、俺もハレさんとデートしていたんだ」などと言おうとは思わなかったし、展示会に行ったことやその後の行動はともかく俺とハレさんがあの時に話したことや感じたことを、双葉に伝えることには抵抗があったのだ。
しかし俺とは違って、ハレさんは自分の口から双葉に話したらしい。
そこにハレさんの何らかの意図――多分、おそらく、自惚れでなければ対抗心のようなものを感じないでもないが、とりあえずこの場ではつつかないでおこう。
「狡いはないだろ。先に先輩とデートに行くって決めたのは、双葉じゃないか」
「ん? あー、それもそっか。でも一緒に遊びたかった!」
「はいはい、今度な」
ハレさんとのことは後で考えるとして、ひとまず双葉に水を向けて流れを変えることを試みる。
俺の思惑通りに会話が動いたので、上手く話題を終了させることができた。
「でもデートしたんでしょー? その……キスとかしちゃった?」
「ん!? し、してないよ! ただのデート!」
「まあ、そうだな。してないな」
話題を切れたと思ったが、まったく切れていなかった。
さっきまで、あまり発言しない姿勢を貫いていたハレさんだったが、流石にキスの話題はスルーできなかったらしく、少し大袈裟に否定する。
というか、ただのデートとキスをするデートというのは、区分があるのだろうか。
「ふ、双葉ちゃんこそ。恋人とデートなんだから、先輩とキスとかしてないの?」
仕返しのつもりだろうか、ハレさんが再び問いかける。
俺としては、この話題はあまり追求しない方が無難な気もするのだが、ハレさんも年頃の女性なのでこういう話には食い付きがいい。
しかし幼馴染と彼氏のキスについてなんて、聞いても妙な気分になりそうだ。
そう思って双葉の反応を窺うと、何やら苦笑気味な表情になっている。
「やー、実は別れ際に先輩から『キスしてもいい?』って聞かれたんだけど。まだキスはちょっと怖かったから、そう言って断っちゃった」
「そ、そうか……」
おそらく勇気を振り絞って言い出したであろう先輩の気持ちを考えると、いたたまれない心境になる。
恋人なんだからキスくらい気軽にしろとは言わないが、先輩がそうやって切り出すくらいなんだから、それなりに雰囲気は良かったんだろうに。少なくとも先輩視点では。
「そっか……そうだよね。ファーストキスって、やっぱりちょっと怖いよね」
「そうそう! そーなの!」
先輩の傷ついた心を慮る俺とは違い、ハレさんは双葉がキスを断ったことに一定の理解を示す。
双葉の方も我が意を得たとばかりに頷くが、俺としてはどうにも聞き逃せない点があった。
「ちょっと待て。何かファーストキスもまだみたいな口振りだけど、全然初めてじゃないだろ」
「……え?」
「えー? 別にいーじゃん。キョータロー以外とは初めてなんだし」
「俺と彼氏を別枠にするんじゃない」
あたかも俺とのキスはファーストキスに含まれないかのように話す双葉に、そんなわけはなかろうと指摘を返す。
というのも、俺と双葉は子供の頃に何度もキスをしたことがあるのだ。
もちろん愛情云々でキスをしたわけではなく、小学四年生の時に恋愛ドラマの影響で「キスしてみたい!」と言い出した双葉が、割と強引にキスを迫ってきた形である。
その後もしばらく双葉のキスブームは続き、「おはようのチュー」やら「バイバイのチュー」やらと言い出して、事あるごとにキスされる羽目になったのだ。
流石に俺以外にも誰彼構わずキスするようなことはなかったが、盆休みに数日会わなかったことで飽きて習慣が途切れるまで、しばらく付き合わされていたのは、今でも覚えている。
まあ、相手が変われば感じ方も変わるというのは、分からないでも……。
「……京太郎くん。双葉ちゃんとキスしたこと、あるの?」
「え?……あ」
双葉のキス話に何気なく応対していたが、いつになく低く聞こえたハレさんの声に、自分が大きな間違いを犯していることを気付かされた。
何で俺は他ならぬハレさんの前で、双葉とのキスについて話しているんだ。
たとえ俺にとって大したことのない、ロマンチックさの欠片もないファーストキスの思い出だったとしても、それを聞いたハレさんがどう感じるかなんて考えるまでもないだろうに。
自分の浅はかな態度を悔やんで、黙っていた俺をどう思ったのか。
ハレさんは食べ終わって広げたままだった弁当箱を、彼女にしては少し乱暴に片付けて立ち上がった。
「なんでいつも……私は、ずっと……!」
「……ほのか?」
「……っ!」
自分の中の激情を絞り出そうとしているように見えたハレさんだったが、自分を呼ぶ双葉に改めて視線を向けると、泣き出しそうな表情を浮かべて走り出してしまった。
「あっ……! ハレさん!」
いまさらながら何かを言わなければならないと、ハレさんの背中に声を投げかけたものの、振り返ることもなく離れて行ってしまう。
「…………」
「キョータロー」
ほんの一瞬だが呆けていると、双葉から声がかかる。
聞き慣れた彼女の声とは少し違う、どことなく怒ったような声色だった。
俺はすぐに立ち上がった。
ハレさんの向かった先を予想すると、すぐに走り出す。
双葉に一声かける余裕なんて、少しもなかった。
ハレさんを追った俺は、今は使われていない文化部の部室のひとつまで向かっていた。
この教室は双葉がふとした切っ掛けで見付けた穴場で、昼に活動しているような部も周囲にないので、昼を含む休み時間なら気兼ねなく過ごすことができるのだ。
あまり入り浸っていると他の生徒や教師にも知られてしまい、使いづらくなりそうだったので頻度は多くなかったが、一年生の頃から遊んだり適当に過ごしたりと利用していた。
『ここ、校内デートにぴったりだよね』
この教室を行き先に選んだのは、確信があったわけではないが、いつだったかハレさんがそんなことを言っていたのを思い出したからだ。
その時のハレさんは、校内デートという言葉にどんな情景を思い描いていたのだろうか。
その中には既に俺がいたのか。それとも曖昧なイメージに過ぎなかったのか。
「……本当に、ここは校内デートにぴったりだね。ハレさん」
扉の閉まっていない教室の中に立つ、こちらに背を向けたままのハレさんに、俺はそんな言葉を投げかけた。
当たり前だが、ハレさんの表情は見えない。
泣いているのか、怒っているのか。あるいは幼馴染に気を取られて目を向けてくれなかった、どうしようもない男に呆れているのか。
「ハレさん、ごめん」
ハレさんは答えない。こちらに視線も向けない。
それでも今は立ち止まる時ではないだろうと思い、俺は話し続ける。
「多分、ハレさんを傷付けたと思う。あんな話を聞かされて、嫌だったと思う」
よく考えなくても分かるはずだ。
俺だって、ハレさんが誰かとキスしたことがあるなんて、たとえ冗談でも聞きたくない。
自分のファーストキスの思い出が大した意味のない、軽いものだったことなんて棚に上げて、本気で嫌がるだろう。
「それでも、言い訳にしかならないけど、俺と双葉にとっては大したことじゃなかったんだよ」
不格好に過ぎる釈明をしながら、ハレさんに近付く。
「小四の頃、双葉がドラマを観て、キスに興味持ってさ。まあ、今と同じで大体は俺と一緒にいたから、俺にするのが当たり前だったっていうか」
何が当たり前だと、自分の言葉にひどく苛立つ。
ハレさんに同じことを言われたら、みっともなく嫉妬を覚えるのだろうに。
「俺と双葉のキスは、特別なんかじゃなかった」
いい加減に見苦しいと自分で思いながら、俺はハレさんの傍に立った。
まだハレさんは話さない。
肩が震えたりはしていないので、泣いてはいないのだろうか。
決して間違えたくないなんて言いながら無様な体たらくを晒した俺に、この先に進む資格があるのかと怖気づくが、それでも立ち止まるわけにはいかない。
俺はあのデートの日。あの展示会場での分岐点で、ハレさんと「そうなりたい」と選んだのだ。
「だから、俺はハレさんと、特別な――んうっ!?」
唇に、俺のものではない体温を感じた。
懐かしい感覚を覚え、咄嗟に歯がぶつからないよう勢いをいなす。
これも双葉を相手に回数を重ねた成果だと気付き、自分がどうしようもないクソ野郎なのだと実感してしまった。
目の前には、ハレさんの顔がある。
ハレさんは目を強く閉じ、俺の制服の襟を掴みながら、背筋を伸ばして唇を重ねてきていた。
ほんの少しの時間が経ち、ハレさんの方から唇を離してきた。
軽くつま先立ちだった姿勢を戻したハレさんは、俺を軽く睨み付けたかと思うと、今度は自身の顔を少し下に向けて視線を彷徨わせる。
そして一瞬迷うような素振りを見せた後、ようやく俺に対して口を開いた。
「私は、ファーストキスだから」
少し、どころではなく安心してしまった俺を、できれば責めないでほしい。
不満げながら恥ずかしそうに言う彼女に、俺は何も感じずにはいられないのだ。
「ハレさん――――」
最後の分岐点が、俺の前に姿を現していた。
俺の心に、もう迷いはない。
「まだキスは早かったかな」と、帰りの電車で落ち込む先輩。




