悪魔に迫る絶望
重力崩壊が効かないのなら、他の魔法を試しても意味はない。
唯一可能性があるとすれば、聖霊魔法のみ。爺さんも悪魔である以上、聖霊魔法は有効なはずだ。
でも、俺が使えるのは輪廻天昇のみ。これは攻撃魔法ではなく、魂の穢れを浄化して輪廻の輪に送り出すための魔法。
穢れの塊である悪魔には効果はあると思うけど、本来の用途ではないため切り札としての期待は持てない。魔法を放った瞬間に闇の体が霧散するため、安易に確かめることもできない。
聖霊魔法にも攻撃用の魔法があると思うけど、いくら闇に干渉して情報を探っても聖霊魔法に関する知識を読み取ることはできなかった。
スクイの魂があれば他の聖霊魔法についても知ることができたかもしれないが、既に輪廻の輪に向かってしまったから干渉のしようがない。
無いものには縋れない。今あるものでどうにかするしかない。
つまり、輪廻天昇を使って爺さんを殺す。それしかもう、勝てる見込みはない。
失敗すれば終わり。
そう考えた途端、心の奥に追いやっていた恐怖が再び顔を出す。
それは死に対する恐怖。その恐怖が最悪の光景を頭に浮かび上がらせた。
魔法を発動しても爺さんには効かず、近寄ってきた爺さんに止めを刺される光景が。
……駄目だ。
輪廻天昇を使っても、爺さんに勝てる気がしない。他の魔法なんて以ての外だ。
悪魔の王の力は伊達じゃなかった。次元が違う。力を奪うなんて、無理だったんだ。
最早勝ち負けの問題ではない。生きるか死ぬか。そして、逃げなければ、確実に死ぬ。
……逃げなきゃ、殺される!
翼を広げて一気に加速した。その行先は爺さんのいる場所とは真逆。
爺さんの魔法によって逃げ道は塞がれているが、それでも少しでも遠くに逃げたかった。
頭では分かっている。爺さんを倒さなければここから出られないことは。
でも、もう向かい合うことはできない。今の俺にとって、爺さんは死そのものだ。捕まれば、死ぬ。
『来ないのなら、こちらから行くぞ』
『っ!?』
全速力で逃げているはずなのに、爺さんの声が横から聞こえた。
『"断斬"!』
恐怖を振り払うために反射的に魔法を放った。
だが、生み出した斬撃は爺さんの手刀で切り裂かれてあらぬ方向に飛んで行く。
ボトッ
音に釣られて後方を向く。
そこには俺の下半身が落ちていた。それを見て漸く胴体を切られたことを理解した。
『ああああああ!』
胴体を切られても痛みはない。だが、恐怖が止まらない。転がっている半身を見て、刻一刻と死が近づいていることを実感する。
失った下半身を修復させることなく、翼に魔力を込めて一気に加速した。少しでも爺さんから離れるために。
逃げるための、逃げるための魔法を!
飛行しながらも外部の闇に干渉しようと試みる。いつものように闇の意思が流れ込んでくるが、無駄な情報を読み取っている場合じゃない。
気持ちが焦り、無理矢理闇から情報を取ろうとする。
すると、今までは意図せずとも出来ていた情報の読み取りが拒絶された。
それだけでなく、体に取り込んでいた闇も、少しずつ放出していく。
『……ふざけるな! 力を貸せ! 知識を寄越せ! 俺に、従え!!』
感情が怒号となって空間に広がる。その怒号によって闇に強制的に干渉し、それらの闇をすべて取り込んだ。
闇を取り込んだことで力は増したが、やはり知識を得ることができない。
苛立ちのまま体内の闇に干渉する。
取り込んだ闇に無理矢理魔力を流し込み、俺の意思に同調させた。それによって取り込んだ闇は自由に動かせることができるようになった。
それなのに、情報が得られない。
……クソッ! 何でだよ! 早く逃げないと、また……!?
『どうやら、理解せずに闇に干渉しておったようじゃのう』
今度は、正面から声が聞こえた。爺さんは進行方向に佇んでおり、俺に向けて手を翳していた。そして、手を開いて上から下に振り下ろす。
すると、音もなく俺の体に5つの切れ目が入る。翼も腕も切り落とされ、空に留まることもできずに落下を始める。
急いで修復しようと内側から闇を放出する。自身の闇は問題なく制御でき、すぐに翼を形成することに成功した。
だが、その一瞬で退路が断たれた。爺さんと俺を包み込むように金色の魔力が渦巻いて球を作っていたのだ。
……もう、逃げ場がない。
いや、駄目だ。ここで諦めたら、純恋に会えない。
逃げられないなら、死ぬ気で殺せ!
自ら殺意を焚き付けて爺さんを睨みつける。だが、それとは対照的に、体が動こうとしない。
すでに何度も心を折られている。どれだけ薪を足そうとも、種火がなければ炎にならない。
思考が絶望に染まり、体の動きを止めた。それを見て話しを聞く気になったのだと判断したのか、爺さんは更に話を続けた。
『闇の中には強い意思を持った悪魔の粒子が存在する。それらが収束して核を形成することで、魔の者が誕生することは知っておろう?』
この話が終わったら殺される。そんな漠然とした恐怖に包まれながらも、爺さんの話に聞き入る。
『魔の者が悪魔の粒子を取り込めば力を増すことができる。じゃが、それは保有する魂の総量が増大する為じゃ。お主のように悪魔の粒子から魔法の知識を得ることができる者はそうおらぬ。まして、悪魔の粒子を使って自動で魔法を放つことなど、悪魔にはできぬじゃろう。それは何故か、わかるかのう?』
質問を投げかけられ、放棄していた思考を再び巡らせる。それでも答えは出てこない。
『……俺が、御子だから?』
咄嗟に思い付いた当たり障りのない答えを返す。
それを聞き、爺さんは頷きつつ解答を告げた。
『それも関係しておるな。じゃが一番の理由は、お主が弱いからじゃよ』
淡々と告げられる言葉に反応する。
弱い。痛感させられている現実を明確に叩きつけられる。
『お主が弱いのは当たり前じゃ。お主は悪魔ではないからのう。悪魔は皆、その成り立ちから強い意思を持つ。そのせいで、悪魔の粒子とも反発してしまうがの。相手を知るには、敵対していては不可能。相手を受け入れて、初めて相手の意思を理解することができる。つまりは感受性が必要不可欠なんじゃが、癖の強い悪魔で持っておる者はかなり少ないじゃろう』
それを聞いて、脳裏にスクイが浮かんだ。スクイは悪魔を救うために多くの闇を取り込んでいた。
魂魄隷化により隷属した悪魔や魔獣の魔法を使っていたが、それはスクイが他の者の意思を受け入れていたからだったのか。
『お主には人並みの感受性があった。それに加え、お主には強い意思がない。じゃから強い意思を持つ悪魔の粒子に感化されやすい。そして、感化された悪魔の粒子に無意識に手を差し伸べていたんじゃ。悪魔の粒子が、その意思を発現させるためにのう』
そうだ、俺には強い意思はなかった。
今まで魔獣や悪魔を倒せてこれたのは、闇のお陰。体も魔法も、闇がなければ使えなかった。
『今お主が闇に干渉できないのは、お主の意思に変化が生じたからじゃ。お主は悪魔の粒子に共感を示さず、ただ従わせようと藻掻いておったな。それでは干渉できるはずもない。己の意思を押し付けて反発させ、取り込む前から相手の意思を否定しておるのじゃから。あぁ、勘違いしておるかもしれんが、弱さが必ずしも悪いものという訳ではない。弱さを知るから、他者に共感して尊重し、思いやることができる。弱さを持つから、他者の手を取り、助け合うことができる。それらは欠点ではない。むしろ、人間の美点じゃよ。人間を捨てたお主には、もう理解できぬかもしれんが』
人間の美点? そんなの、美点でも何でもない。
人間は醜い。自分勝手な行いで他者を傷つける。恩を仇で返す者だっている。平気で手の平を反す裏切り者だって。
そんな弱さはいらない。弱いままじゃ、何もできない。
感情任せに針を射出する。でも、最早爺さんは避けることすらしない。その身に纏った魔力を貫くことすらできない攻撃なんて、避ける価値もないのだろう。
だが、針によって爺さんの視界を塞ぐことができた。この一瞬で決める!
『"輪廻天昇"!』
両手を前に翳し、自爆覚悟で魔法名を叫んだ。
『……え?』
魔法は、発動しなかった。
それどころか、魔法陣すら形成されない。ただ手に魔力を込めて前に翳しただけ。
一度魔法を使えば複雑な魔法陣でも記憶できる。それは脳ではなく魂に書き込んでいるためだ。だからこそ、魔法陣が脳裏に浮かび上がらないことが異常なんだ。
……万に一つも、勝ち目はなくなった。
最後の賭けである聖霊魔法は使えない。
聖霊魔法無しでは、いくら戦略を練ようと、不意を突こうと、目の前の悪魔には勝てない。
死は、もう免れない。だが、まだ希望はある。
ここで殺されようとも、悪魔なら復活できる。復活できるなら、地獄から抜け出す機会もあるはずだ。
むしろ、爺さんとの力の差を知ることができたのは僥倖だった。爺さん以外の悪魔なら、まだ勝ち目はあるはず。いかにして爺さんを避けて第一下層に行くかを考えればいい。
死を前に、僅かな希望に縋りつく。ただ、その希望は仮初だった。
『どうやら、聖霊魔法も使えなくなったようじゃのう。しかし、お主はそれほどまでに必死になって、どこに行くつもりじゃ?』
『……地獄の外に、決まっている』
『ほう、現世にか。そこは悪魔の住む場所ではないぞ? お主は人間に戻りたいのか?』
『違う! 俺は、悪魔のままでいい。悪魔のまま、純恋に会いに行く!』
明確に意思を告げる。それが、今の生きる意味だから。
それを聞いて、初めて爺さんは表情を曇らせた。そして、俺にとって残酷な現実を突きつけた。
『それは不可能じゃよ』
『……は? 何、で……』
『お主は死んだ後、魂だけがここに送られた。それから目覚めるまでに、どれほどの歳月が過ぎたと思っておる?』
狼狽える俺に、爺さんは問いかけた。その言葉に思考が止まる。
それは一拍の間だったのかもしれない。でも、俺にとっては世界が停止したと錯覚するほどの時間が流れていた。
ゆっくりとした時の流れで、爺さんの口がゆっくりと開く。
聞いちゃだめだ。言わないでくれ。それを知ってしまったら、もう、俺は……。
心の中で懇願する。表情は歪み、悲愴が滲み出る。だが、それでも爺さんの口は止まらなかった。。
『千年じゃよ』




