暴れる悪魔
黒い光に線が入り、それが開かれて大きな目が現れた。
赤黒く血のような色は、俺の目と同じだ。
目が開くと同時に、黒い光が弱々しくなり、ぽてっと床に落ちる。
俺は腕を振り上げたまま、必死に感情を抑え込んでいた。憎悪は少しも衰えることなく、俺の心を染め上げている。今すぐに、これを消し去りたい。
……だが、今目の前で起こっている変化は確認しなければならない。これはおそらく、人が悪魔に堕ちる瞬間。
床に落ちてすぐ、光が消え、靄の塊だけが残った。塊は薄く、透けて床の魔法陣が見えるほどだ。
靄は少しずつその濃度を上げていき、魔法陣が見えなくなると、アメーバのような仮足が生えてくる。
感情のない虚ろな目をした醜い悪魔が、その足をニョロニョロと蠢かす。人から外れたその姿は、哀れだった。
俺は再び腕に力を込める。哀れと思っても、それで憎悪が薄れることはない。せめてもの情けとして、一撃で消してやる!
床に蠢く悪魔に向けて、感情のままに拳を叩きこむ。
無音の世界で、空間が破裂した―――
拳が当たった瞬間、悪魔の靄が弾け飛び、眼球が潰れた。勢いは止まらず、床が陥没し、衝撃が床を伝って四方の壁を砕く。
衝撃には目もくれず、俺は悪魔のいた場所を見つめていた。そこには潰れた眼球だけが残っている。
それらがさらに黒く染まり、最後には崩れ落ちて灰になる。灰は意思を持っているように吹き上がり、俺の拳に吸い込まれていく。すると、光の玉に触れたときと同じように、光景が流れ込んできた。
『アリミュ、別れてくれ』
思いを寄せている男性、シュームに突然別れを告げられた。その言葉の意味をすぐに理解できず、理解できた途端、ざっと血の気が引いた。
『なんで? なんで別れようなんていうの?』
『他に女ができたんだ。だから別れてくれ』
『……そんなの、許せるわけないじゃない! 赤ちゃんも、もうすぐ生まれるのよ!?』
何を言っているのかわからない。わかりたくない。アリミュは俯いて両手で目を押さえる。それでも、溢れ出る涙は止まらず流れ落ちる。
アリミュは涙を流しながらも、震える声で問いかけた。結婚して間もない、それも赤ちゃんがもうすぐ生まれるというタイミングで、何故別れを告げたのか、と。だが、シュームはそれに答えず、ゆっくりとこちらに歩みよってくる。
ゆっくり顔を上げると、シュームは冷めた目でこちらを睨みつけていた。
『じゃあ、子供がいなきゃいいんだな?』
意味が分からず、アリミュは呆けたままシュームを見つめた。シュームは躊躇うことなくアリミュの髪を掴んで引き上げる。頭に痛みが走り、顔を顰めて立ち上がる。髪を引っ張ったまま、アリミュの腹を蹴り上げた。強烈な痛みが腹部を貫く。
蹲ってお腹を抱えたが、シュームは手を緩めない。呻いても、叫んでも、気にせず殴り続ける。嘔吐して痙攣し始めても、まだ止めない。
意識が朦朧となり、仰向けで倒れこむ。シュームはアリミュを見下ろしながら、片足を上げた。
『これで後腐れなくていいだろ?』
片足に体重を乗せて、アリミュの腹部を踏み抜いた。
……
黒い光に触れたときとは別の光景。その内容は、あまりにも衝撃的なものだった。
アリミュは子宮破裂となり、三日三晩死の淵を彷徨った。危篤状態から復活して目を覚ました時、医師から赤子の死を告げられた。医師から見ない方がいいと言われたが、アリミュは懇願して赤子の亡骸を持ってきてもらった。
小さな木箱の中、布に包まれて寝かされていた赤子を両手で持ち上げる。片手に収まるほど小さな体に、温もりはない。
その冷たさに、自然と涙が零れ落ちる。愛していた人との間にできた子。これから幸せな未来が待っていると思っていた。けど、それは残虐な未来へと塗り替えられた。もう、未来に希望はない。
アリミュは泣きながら笑みを浮かべ、正気を捨てた。
……
アリミュは、暴力をうけてなお、シュームを愛し続けていた。
だから、シュームを殺すという考えは持てなかったらしい。だが、我が子が死んで空いた場所に、他の子が入り込んだことが許せなかった。
正気を失っていようが、子を殺した奴に同情なんてしない。
アリミュの記憶が流れ込んできたせいで、シュームの愛を深く感じる。それが、心に虫が這っているようで気持ち悪い。
俺の中で、シュームへの愛情が憎悪へと変わった。
俺の目の前に現れたら、惨たらしく殺してやる……
ここにはいないシュームに殺意を向けて、行き場のない憎悪を振り払うように俺は暴れまわった。