三十話「勇者、勇者になれないのなら誰かの勇者にならんと欲す」
勝山恵はある事務所で就労支援などの仕事をして働いているという。僕は深く訊かなったが、それでも彼女の環境が決してその名の通り『恵まれた』ものとははなはだ言えないものとは理解しつつあった。
僕は職場があるというマンションの下で彼女を俟っていた。日は当たらず、影が地面と道路に覆いかぶさる。
「やっぱり、来てくれたんだ」
夏という季節の割には、やけに風が冷たい。
長袖を着た方がよかったか。
「……あんまり家が散らかってるって言ってたっけ?」
「うん。私は整理整頓が苦手だから。それに、家にいてもやることないしね」
家にいても、やることがない。
この点でも僕と似ているなあ……ゲームやったりテレビ観るだけであって。
「趣味とか、ないの?」
「趣味?」 頭をかしげてしまう恵。
「趣味をするだけの余裕がない、というか……私、趣味とか、何かを楽しむことがさっぱりなくて」
「楽しむことが、ない、か」
僕には恵をわらってやることができない。
僕が多趣味な人間であったなら、その一を紹介してやることもできたろうが。
「私、何か楽しもうと思っても、すぐ別の、昔の記憶とか召喚せてしまうもの」
「昔の記憶」
口調から、いい記憶でないと瞬時で理解。
「私自身が多分暗い奴だからなのかな……過去を引きずってばかりで。喜んだりうれしくなったりしたこと、ほとんど経験したことがない。その点、少数派なんだよね」
少数派。ああ、みんな昔の嫌なことはけろりと忘れちゃってるからな。どいつもこいつも、そんな様子は露も見せない。僕はそう信じていた。たとえ、偏見だとしても。
「……今はどうなんだ? 最近喜ばしいこととか……なかった?」
第一、僕自身がそう思われてるかもよ。
恵が僕より苦難に満ちた心持でいるかどうか、確証はとれないけれど。
「夢だよ」 すると恵は、またもや投槍な口調ではくのだ。
「夢みたいに人生終わっちゃうんじゃないかって気分でならない。悪い夢みてて……それに惑わされるがままに生きてるんじゃないのか? 惑わされてる私に……生きる価値は……」
僕は、恵のどこかあきらめた境地に若干、鼻白まずにはいない。
だから、まるで火に油を注ぐみたいに、ささやきかける。
「まるで、そんな悲しいこと言わないでよ。僕にとっては恵に会えただけでうれしいんだから」
恵は僕のなぐさめに、耳をかさない。
「今だってそう。昨日も、私は叱られた」
心臓の鼓動が速くなり、悪寒が底から生まれてくる。
「内の職場は狭いのに混淆んでるからさ。移動が大変だし部署の位置も覚えにくい。だから何回か間違って文書を配達してしまったり。私以外に車椅子の子はいないから、どうしてもみんなの扱いに差が出る」
体が、揺れている。……同様に身を委せるな!
「仲が悪い子に陰口を言われたり」
以前、魔王には聞かせなかった程の、声の低さ。
僕は、できれば耳を塞ぎたい所だった。
「もう……限界にきてる」
恵が以前彼らとどんな関係にあったかは知らないが、僕は恵からよじれるほどの既視感を感取った。
僕はあいつら相手に、自分を偽った。叩かれ、写真に撮られようが、ただ笑っていることしか。
誰かがこのことを報告しておかなければ、一体今僕の命はあったかどうか。
「だめだよ。ちゃんと解決しておかなくちゃ」
僕は断固として主張した。
「僕は自分に課された問題を解決にしないままに放っておいてしまった。気づいたら僕はこんな重苦しい、頑固な奴に零落れちまった」
「恵には……そんな目、観てほしくない」
「私は翔吾君がうらやましい。だって、魔王様と毎日楽しい日常送ってるんでしょ?」
「えっ!?」
「だってあの子、私みたいに悩んだことなさそうなんだもん。それに翔吾君だって!」
「ぼ、僕だってあいつがどんな過去を持ってるかなんて知らないよ」
「でも、僕だって苦しいんだ。僕と魔王を一緒に……しないでくれ」
僕は懇願する。決してあんな奴と仲のよくなる資格のある人間ではないのだから。
けど、恵の
「こうなったら、私が全て壊してあげるの」
僕は恵のそばから逃出したくなっていた。この時僕が脳裏に浮かべていたのは魔王のこと。
一体、魔王だったらこの時どう行動するのかと。三茅に一度やったみたいに――どう喝を下すのかと。
もし醜態をさらせば魔王から大層なお叱りを受けてしまう。
「そんなことした所で、誰も報われない」
僕は恵の正面に周り、立膝ついて瞳を見すえる。ともっていた光が、沈みつつあるかのよう。
「僕は恵にそんなことしてほしくない。僕みたいになってほしくないから」
「もう晩いよ! これまでどれくらい私が苦しんできたか、見てるっての?」
なんて僕は運が悪いのだろう。自宅の時より、険悪な状況。
そこに、向こうから一人誰かがアスファルトの上、近づいてくる。
「君は、恵ちゃんのお友達かい?」
眉間にしわをよせる、恰幅のいい中年の女性だ。
僕は突然の言葉に一瞬戸惑うが、意に介さず答える。
「はい」
女は恐怖と嫌悪感のないまぜになった言葉でまくしたてる。
「その子は昔、施設で残暴を受けてたの。もう長い間、性格がねじ曲がるくらいにね」
あんたに恵の何がわかる――と言い出しそうになって、また恥じる。
「私はこの子が怖い……だって家族が行方不明だし、誰とも口をきこうとしないんだもの。だから私もこの子がいじめられてるのを見て見ぬふりしかできなかった。もちろん私も悪いと思ったよ! でもまずあなたが――」
正直に言って、気分が悪かった。あたかも、悪意を持っていないかのように振舞ってやまないのだから。
恵が急に車輪を回しだす。
「何を一体――」
不毛だ。こんな事態を、僕らは、というより人類はいつまでくりかえすんだ。
「恵!!」 僕が自分の意思で叫んだというより、魔王が叫ばせたみたいに。
「僕はこの子を……守りたいんです」
「翔吾くん……」
「お願いですから……この子にそんなよくない言葉、かけないでくれますか?」
「でないと……僕、本当にどうにかなっちゃうと思いますから」
そう告げて、目の前の女に歩きだしてぐっかと頭を近づける。
段々、この女の輪郭が僕にはまるであの日々の忌まわしいあいつらに重なった。
僕は思いきり、拳をにぎりつぶしていた。揚げようとして……途中で止まる。
こんな奴を……僕は、僕は――
「そ、そうか。じゃあ、近づかなければいいんだね」
「近づかなきゃいいんです……」
自動車の通り抜ける音が何回も響いた。信号機がむこうで鳴いていた。
「君は恵ちゃんに偏見を持たないんだね! けったいな心だよ。私なんて他の子を遠くで憐れむことしかできないんだからね……」
なぜこんな風に僕はえらそうに構えているのだろう。ほめられたいからか? 認めてほしいから?
くだらない。
女は、また小走りで帰っていく。
「……恐ろしいことをしたよ」
わなわな震える体。
「……命びろいしたね」
目がせばまって、恵の瞳がぎらついている。
「本当に、翔吾くんは優しいのね。私、少し見直した」
心ならずも、恵から目をそらしてしまう。決して、怒っているとか悲しんでいるという風ではなかった。それ以上の……虚無感と言うべきものが、瞳の奥に去来していた。
「魔王から聞いたけど、合宿があるんだったね?」
「ああ」
「……がんばっていってね」
僕は恵相手に、もう何も言えなかった。言いたくはなかった。




