堀田親子、そのいく先
琴音は風呂に入り終えた。疲れからか、ゆっくり湯船に浸かることはなく体と髪を最低限だけ洗ってすぐに出た。そうして下はパンツ、上はタンクトップという格好で自分の部屋に戻る。
琴音の部屋は、何もなかった。いや、何もないというのは言い過ぎだったか。机、椅子、ベッド。机の上の勉強道具、脇に放られたバッグ、ゴミ箱。それだけだ。何もないと言ったのは、他の同い年の者達から見たら発するであろう感想である。実際、そうであろう。
だが、一つだけ娯楽の類のものがあった。机の陰に隠れるようにして置いてあった、ギターである。質素な見た目のギターだ。それを目の端に入れて、呟く。
「………………やれるか?」
自分の部屋に入ってすぐ、項垂れながらも彼女は椅子に座る。そうして、机に付属されている棚に手を伸ばし、ある紙の束を引っ張り出した。
その紙には、五線譜がびっしりと書かれていた。手書きで、少しづつガタガタしている所がある。そして、五線譜の上に刻まれている音の印も少し揺らいでいる。人がその手で書いたと、うかがわせる見た目だ。琴音はそれを机の上に広げると、机の端に置いてあった鉛筆を手に持つ。そして、足を組んで机の脇に置いていたギターを膝の上に置いた。
「…………」
そうして、弦を一本一本を弾き始める。音の確認をしているのだ。そうして、それが終わると目を閉じ、集中し始める。その姿たるや、瞑想をしている僧のようであった。それも大層な徳を積んだ。まるでそう見えるようなほど、集中しているのだ。
だが、疲れというのは重なり、時間がなければ人の体から剥がれないものだ。
「……………………」
ゴツッ
「痛ッ! …………寝てた、のか」
琴音は座って集中している間、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。そのせいで、前方の机の棚、その角におでこを打ち付けてしまう。人の体重を、ほとんど乗せる形で。
彼女は意識がハッキリしてくると、額にできた赤いたんこぶをさする。そうしながら、五線譜を見おろした。寝てしまいそうかどうか、確認をするためである。
そしてその答えは、すぐに出た。
(……ああ、これは駄目だ)
琴音の目には、五線譜が何重にも見えた。疲れによるものだろう。それを見て、確認して、琴音は諦めた。そしてギター、鉛筆、紙の束を全て元の場所に戻す。
(……毎日、一回は触れなくちゃならないと決めてたけど……。駄目だ。夢よりも……現実、なんだから)
琴音は片付けの途中で、具体的にはギターを机の脇に置く時にら考えてしまった。現実が、目の前に迫っていると。
「………………」
気付かないふりをして、ベッドに倒れこむ。そして、布団にくるまった。髪もまだ少し濡れまま、ドライヤーをかけていない。だが、そんなのに構うほど彼女に余裕はなかった。うつ伏せに、枕へ顔を押し付ける。
「…………………………」
そうしていると、彼女の頭に、心に、さっき考えてしまったことが首をもたげてくる。夢よりも、現実。彼女はうつ伏せのままで少し体を回転させ、目の端にギターを入れた。
「…………うっ、ズッ……」
ギターは、何重にも重なっていた。
「本当に、ありがとうございました」
「いえ、大丈夫ですよ」
愛音とフツヌシは、ラーメン屋の後始末をすべて終えた。今は、愛音がフツヌシに頭を下げ、彼がラーメン屋を立ち去ろうとするのを送っていたのだ。それに対して、フツヌシはまだサラリーマン風に応えていた。
「自分、暇なものですから。大丈夫ですよ」
「いえ、そんな……」
フツヌシの言葉を受けて、また愛音は身を縮めてしまう。それを目に入れたフツヌシは、また彼女を気の毒にと思った。
そうして、あることを思い出す。その後すぐ、自分の懐からペンと手帳を取り出した。もちろん、何かしらを手帳に書くためである。
そしてペンを手帳の上で少し走らせると、何かを書いたと思われる紙を手帳から手でちぎって愛音に差し出した。
「これをどうぞ」
「え……何です、これ」
愛音が受け取って見れば、その紙にはナンバーが書かれていた。十桁の。電話番号だろう。愛音が首を傾げるのに、フツヌシは説明を加える。
「その電話番号に問いかければ、もしもの時、あなた方を助けてくれますよ。しがないサラリーマンではありますが、頼りになる友人を知っていまして。心苦しいですが、私にそういうのは出来なくて……」
(…………友人などと……)
「え、あ……ありがとうございます」
少し顔をしかめるフツヌシの言葉を受け取って、愛音はまた礼を言って頭を下げる。それを見送ったフツヌシは、ようやく、ラーメン屋の出口の方へと顔を向けた。そうして最後、言いたいことを言う。
「では、これで。……人に頼るというのも、大事ですからね。ゆめ、忘れる事なきよう」
そうして、戸を引いてフツヌシはラーメン屋から去った。残された愛音は、しばらく呆けてしまう。だが、その後で……
「……手は、借りられません」
そう呟いた。彼女の目には救いの手は入っても、それを掴むということが出来ないのであった。




