フツヌシの憂鬱
「鉄鼠が、ヤクザの真似とはな」
フツヌシは愛音と琴音、彼女ら二人と鼠田の間に立つ。そうして、鼠田が愛音に伸ばした腕を掴んだ。その顔には、揺らぎのない怒りが存在していた。見ているだけで、こちらがすくみ上ってしまうような。
腕を掴まれている鼠田は、脂汗の浮かぶ顔でフツヌシに目を向ける。
「ぐっ……フツヌシ。テメエ……」
「生憎、刀は持っていない。だから貴様を刻むことは出来んが……」
フツヌシは鼠田の顔を見上げながら、彼の腕を掴む手に力を込める。すると、布が強く引っ張られたような音がし、同時に鼠田の顔が歪む。フツヌシは、鼠田の腕を折ろうとしているのだ。
「追い払うことは出来る。逃げ足の速いクソ鼠のことだ。素手では殺し切れん」
「ぐっ、うぅ……ふんっ!!」
鼠田は力を込めて、フツヌシの腕を振り払う。どうやら力を抜いていたようで、フツヌシは手を振り払われても何も気にしないという様子だ。
そうして、鼠田に言い放つ。
「尻尾を巻いて逃げろ、クソ鼠。鼠らしく、地に伏して歩けよ?」
「くぅ…………覚えてやがれ」
さっきまで愛音と琴音のことを恫喝するのに口をせわしなく動かしていた鼠田だったが、フツヌシが登場すると、すぐに退散しようとラーメン屋の出口の戸へ向かった。彼の威圧は、それほどまでに強かった。
結果的に、フツヌシの介入から一分もせずに鼠田は消え、愛音と琴音はとりあえず安全となる。
さて、気になるのは二人だ。
「………………………………」
愛音と琴音は、黙ったまま俯いていた。お互い、心の傷が大きすぎる。母は自分の娘が、自身のために身を粉にして働いていたという事実を知った。娘はそれを暴かれ、信じられないという表情を母に向けられてしまった。決して、すぐに癒える傷ではない。
そんな二人が、顔に陰りを差して俯くのに対し……
「す、すみません。決心が、遅れてしまって……あんな怖い人に向かうの、初めてでして……」
フツヌシは、今更必要ないだろうとツッコミを待っているかのような対応をする。つまり、さっきまでの言動や会話を無視し、見た目通りのサラリーマンを演じ始めたのだ。そうして、心の中では……
(クソが、口上を考えるのに時間を食っていなければ……こんなことには)
悔やんでいた。自分の無力を。口上とは、サラリーマンの振りのことである。実際考えるほどのものではないが、彼は人の世から身を離して生活をしている。だから、あんな一言を考えるのにも時間を使ってしまったのだ。
と、彼がサラリーマンの真似を終えた時だ。しかと、目に入れる。二人の様子を。死んだ目をした、二人を。
(……………………)
「よかったら、手伝いますよ?」
そう言って、引きつった笑みを浮かべて見せた。だが、それを受けると愛音は急に立ち上がって、フツヌシに拒否の意を示す。
「だ、駄目です。そんな、助けていただいただけでも、とてもありがたいのに……」
彼女と、琴音は普通の状態ではなかった。助けてもらった直後でも、すぐにありがとうと言えないほどに。二人が元からそういう人間という訳ではない。揃って、真っ直ぐな性格だ。だが、状況が状況。
そして愛音は、フツヌシの提案を断った。善意からである。しかしフツヌシも、彼女らがまともな状況ではないと分かっていた。無理にでもと、居座る。
「いいえ。弱きを助けるのは当然です。悪意を持たない弱きは特に。あなた方親子は、純粋な目をしている。あまり力になれませんが、片付けくらいは」
「ですが……」
「いいんです。私は無駄に身を削るただのサラリーマンですから。無駄よりは、あなた方のような人のために身を削りたい。……それにそちらのお嬢さんを、先に休ませてあげたほうがいいでしょう?」
フツヌシは琴音の方を見た。彼女は、自分に話の矛先と、優しさの矛先が向けられると立ち上がる。そして、母親と同じように善意を拒もうとした。
「い、いや私は……」
「いいんですよ。年頃なのですから、もう寝た方がいいです。今からお風呂もあるでしょう? 早めに寝た方が、美容にもいいですから」
「…………」
フツヌシの言葉を受けて、琴音は目を泳がせる。そして行き着いたのは、愛音の方である。彼女も、琴音の方を見ていた。気まずい雰囲気である。
「……母さん」
「琴音、無理はしないでね……私なんかのために、自分を犠牲にする必要はないのよ」
先に、愛音が口を開く。自分の言いたいこと、琴音への心配を吐露したのだ。それを受けた琴音は……
「……うん、分かった。分かったよ……それじゃあ、その、助けていただいてありがとうございます」
琴音は姿勢を低くフツヌシに礼を言った後で、カウンターの奥へと走っていった。その姿は、まるで逃げるようであった。




