暗い所
「さて、今日はこんなものかね」
「そうだな、母さん。もう人も来なくなってるし……」
琴音と、愛音。二人は十一時を少し回った辺りの頃、開店させていたラーメン屋を閉めようという話をしていた。もういい時間である。それに、今は客が一人しかいない。角に一人、男。確かに彼がいる場合は閉めるのはどうかと思うが、準備くらいはしてもいいだろう。
カウンターの奥での会話を終えて、琴音は店内の方へ向かう。
「さ、て……。後片付け後片付けっと……」
琴音は目の下に薄いクマを作りながらも、それを隠そうと笑顔を浮かべながらそこらのテーブルに置かれているラーメンの器を手に取る。そうして、カウンターの方へと運んで……
バタンッ
と、琴音がテーブルに置かれた器や箸を片付けている最中だった。彼女の背後、ラーメン屋の入り口から音がしたのだ。その音は、入口の戸が乱暴に開かれる音。その音を耳に捉えて、琴音は振り返る。もう閉店する時間であると、伝えようしとたのだ。
「あーすいません。外に十一時までって書いてませんでし……」
「いいや、ラーメンを食いに来たわけじゃあない。ここの主人に用があるんだが?」
「あ……」
琴音の目の前に立っている男は、太っていて且つ背の高い巨躯の男であった。パンパンの黒スーツを身にまとって、物騒な見た目である。そしてその特徴は、前に出っ張った前歯である。
その顔を見て、琴音は背の方に冷や汗が伝うのを感じる。
(こいつ、闇金の……)
と、琴音が嫌なことを考え始めたその時だ。
「ね、鼠田さん! ど、どうされたんですか?」
カウンターの奥で目の端にでも捉えたのだろう。弾かれるようにして愛音が、琴音と自身が鼠田と呼んだ男との間に立った。彼女の顔には、恐怖がある。反して、鼠田の顔には余裕が。その顔のままで、彼は言った。
「いやね、ウチの者が世話になったらしいじゃないか」
「え……そ、それは……」
「一人だけだが、鼻の頭を折られた。アンタじゃあないんだろうが、店の客の責任は、その店の主人の責任とも言えないか?」
鼠田が話しているのは、昼間に天翔が殴った男の事だろう。その責任を愛音に押し付けて、何やらまたたかろうとしているらしかった。
「慰謝料は払ってもらおうじゃあないか。二、三十万という所だ。詳細は追って説明しよう」
「そ、そんな……」
愛音は鼠田の言葉を聞いて、その場にへたり込む。彼女の目に、恨みというのはない。当然、天翔がいなければ自身と、琴音が危険になるかもしれなかったのだから。だが、逆にその目には、絶望というのが色濃く空いていた。ぽっかりと、奥が見えないくらいに。
だが、それだけではなかった。
「それと、返済期限は一週間後にまでとする」
「えっ? ど、どうしてですかッ!?」
次に告げられたのは返済期限だった。早すぎるそれを受けた愛音は、もっと絶望だけでなく、焦燥というのを目に浮かべる。そうして、鼠田に泣きついた。
しかし、こういうのは本当に、胸糞の悪いものだ。
「そんなの無理です! まだもう少し、二週間後でいいですから!」
「いつももだが、そう言って何ヶ月目だ? もう一体どれだけ待っているのか。……まあ、稼ぐ方法がないわけでもないぞ」
「え、本当ですか! な、何でもいいです! 教えて……」
「昼に部下が伝えただろう? お前達の売れるモノは……フッ、一つしかないとな」
「あくっ、う…………うぁ」
愛音は鼠田の言いたいことを理解して、一瞬見せつけられた希望をまた投げ捨てられる。彼女は膝をついて、嗚咽を漏らし始めた。そんな愛音を見て、鼠田は追い打ちをかけるように、愛音の肩に手を置いて言った。
「お前だけでも、随分な金になる。体を売れば……ふむ。見込みでは……」
と、鼠田がそこまで言った時だった。
バチンッ
「…………………………あ?」
「……か、か、母さんには……て、手を出すなよ」
琴音だ。彼女が、自分の母親のことをいやらしい目で見つめる鼠田の頬を、思い切り叩いたのだ。
彼女の足は、ガクガクと震えていた。当然だ。まだ十五の少女が、二回りほど大きい大男に手を挙げたのだから。
そうして愛音はその様を、口をあんぐりと開けて見る。驚きを隠せないという具合だ。そして、また絶望。娘に、助けられてしまったという。
反して、鼠田はその額に血管を浮き上がらせていた。怒り、という感情だ。その表情で、琴音の方へ向かう。
「お前……自分の立場が分かっているのか?」
低い声で自分に投げられた言葉に、琴音は震えながら応える。
「う、うるせえよ。慰謝料とか、そ、そんな……難癖つけやがって。手ぇ上げてきたのはアンタらだろうが」
「………………」
鼠田は一旦黙る。そうして、一瞬した後だ。彼は突然、琴音の方を殴った。
ガッ
「ぐっ……」
カラン
琴音の小さい体は、鼠田の殴打に軽く吹っ飛んでカウンターにぶつかる。嫌な鈍重さを感じさせる音が響いて、琴音の顔が痛みに歪んだ。それを見て、愛音は絶望などを顔から飛ばし、心配でたまらないという親の表情をして琴音を見る。
「琴音ッ!!」
「く…………ぅ」
琴音は口から血を流して、その場にぐったりとする。口内を切ったのだろう。顔に痣は残らないように殴られたようだったが、それでも。
だが、彼女の心配はそこではなかった。一瞬だけ耳に捉えた、カランという音。その主が、彼女には理解できていたからだ。
しかし、地面に落ちていたそれを先に目に留め、手を伸ばしたのは鼠田だった。
「ん、何だこれは」
「あくっ、み、見るなッ!!」
それは、床に転がったエナジードリンクだった。琴音が弾かれるようにして取ろうとするのよりも早く、鼠田がそれを拾って興味深そうに見つめる。どうやら、彼が殴った時に琴音の服の懐から出て来たもののようであった。
そのことから、彼はある推測を立てて、鼻で笑いながら愛音に向かう。
「お前、娘にこんなのを飲ませるほどまでの労働をさせているのか」
「え…………?」
「いやな、これは……」
「やめろッ!!!」
鼠田が語ろうとするのに、琴音が割って入る。どうやら、話されたら都合が悪いと思ったらしい。つまりは、鼠田の言ったことは正しいということだろう。
要するに、琴音は愛音の手伝いをするために、エナジードリンクを飲んでまで体を酷使していた。目の下に出来るクマ、学校で教師の飯田に指摘された疲れているという様子。それは、彼女が自分の体に鞭を打って、少しでも母親のことを支えようとした結果であった。
それを理解した鼠田は、口元にいやらしい笑みを浮かべた。
「堀田愛音さん。アンタ、本当に駄目な人だな。娘にこんな無理させるとは……」
そうして、愛音と琴音を見比べた。
愛音は琴音の方を向いて、信じられないという顔をする。それを受けると、琴音はその空気に耐え切れず、俯いてしまう。
だが、二人がどれだけ傷ついても鼠田は口を止めなかった。寧ろ、その傷を抉る。利用する。
「ま、いい。子とどう接するかは親次第。だが、愛音さん。やっぱりやった方がいいんじゃないか、ビジネス」
どうやら鼠田は、愛音を本当に金の成る木としてしか見ていないようだった。そんな彼に、彼の言葉に、琴音は反抗する。
「か、母さん! そんなこと、絶対しなくていい! 耳貸しちゃだ……」
だが……
「うるさい! ガキが首を突っ込むことじゃあないんだ。さて、どうだ愛音さん」
「………………」
鼠田は言葉を吐き出すのを止めない。加えて、愛音はもう……
「か、母さん……」
鼠田の差し出した手を、掴もうと腕を動かし始めてしまっていた。彼女の精神には、娘が自分の体に鞭を打って、母親たる愛音に尽くしていたのが随分と効いたのだ。
「止めて……何か知らないけど、絶対に碌なことじゃあ……」
琴音はもう一度、愛音に呼びかけた。だが、それを途中で止めてしまう。それは、愛音の目に意思の光というのが感じられなかったからだ。
「………………」
(どうして、こんなことに……)
琴音の頭の中には、それだけが渦巻いていた。どうして自分はこんなに努力したのに。どうして自分達だけ。どうして火種たる父親はいないのか。問いかけは数多。そのどれもが、泥のように彼女の目と心に溶け込んでいく……。
だが……
「待て」
三人の意識の外から、そう声がかかる。誰もが、その声のした方向へと意識を向けた。そちらには……ラーメン屋に一人残っていた男が立っている。黒いスーツに、黒の四角の眼鏡。
その男を見て、鼠田はわなわなと震え始めた。
「お、お前は……何故、こんな所に……?」
ラーメン屋に残っていた男とは、フツヌシであった。




