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お前は希望だ

「ああ畜生、本当に、もうっ! アンタ、名前は?」


 勇気は少女に引っ張り上げられた。彼が少女の言葉を受け取り、手を伸ばし返したのではない。

 実際、彼はクロールで池の中を少女から逃げ回った。俺は死ぬんだと、発狂した人間のようなことを叫びながらとてつもない速度で。だが、少女はそれに追いつき、なかば連れ去るようにして岸まで彼を運んだのだ。


 今は既に、二人が地面に息を切らしながら岸に立っている。少女が勇気を助けるのに成功した後だ。そんな中、彼女は勇気に名前を問う。


「はぁ……はぁ、神崎……勇気」


 彼は顔に伝う池の水を払いながら答える。それを聞いてある程度満足したのか、少女はフッと口元に笑みを浮かべた。


「はぁ……チッ、観念したのかしら? 神崎勇気。クソみたいな死ぬ、なんて気をなくしてくれたのよね」


 少女はそう言った。彼女から見れば、そう見えただろう。死ぬ気をなくしたから、名前を答えたのだと。


 だが実際は、全然、全く違った。彼は観念したから名前を答えたのではない。諦めたから、捕まったのではない。それを彼は、端的に少女へ説明する。


「いや、違うぞ」


「は?」


「観念したわけじゃない。俺は……お前に期待したんだ。だからさっき、気付いてないだろうがわざとクロールのスピードを落とした」


「……んっ?」


「名前は? お前の名前を教えてくれ」


 神崎勇気は非常に自己中心的な様子で、少女に名前を問う。彼女が自分の行動に疑念を抱いていることなど、目にも止まっていないらしい。


 彼は風になりたいと言ったが、もとより、風のような自由を持つ性格をしていたのだ。


 と、逸れたな。勇気の問いに対し、少女は不機嫌そうに眉をひそめながらも答える。


「……大江涼(おおえりょう)。それで、私に期待したってのはどういうことよ、わけ分かんない」


「分からなくていい」


「死ね自己中。アンタはよくても私が分かんないから聞いてんでしょうが。助けてやって礼もない、わけ分からんこと言う、となれば言うことくらいは聞いてくれないかしら?」


「あ、す、すまん……悪かったよ」


 大江涼と名乗った少女はあからさまに、黙って私の質問に答えろ、と勇気にそう言った。彼はそれをどうとったのかは分からないが、ともかく、涼の目を見て恐怖したらしい。彼女の目は、どんよりと黒くよどんでいたのだ。


 本当に人を殺しかねないような目を見た彼は、咳払いをして怯えるのを隠しながら口を開いた。


「オホン……ん。優しさに、期待したんだ」


「……??」


「俺は……助けられたことなんてなかった。少なくとも善意じゃ。だけど、お前は本当に俺のことを助けようとしてくれただろ? 今も、どこか安全なところに連れて行かなくてはならないと焦っている」


 勇気は理由を話した。彼の言うことに、涼は善意で自分を助けた、と。そしてそれがほとんど初めてだから、彼女に期待したのだと。


 彼は本気も本気という顔で、そう言ったのだ。目の真剣さは夢を語っている時のような、あるいは減刑を求めるための言い訳を考えている時のような、真面目そのものという言葉が一番似合うものだった。本当だろう。


 だが、どうしてかそれを認めたくないらしい涼は、腕を組んで口をとがらせる。


「……分かんないわよ? 礼さえ言わないアンタを、一番に今から突き落としてぶっ殺したいと思ってるかもしれないわ」


「いいや、イラついているが、殺したいとは思ってない。……言い当ててやろうか」


「は? 何をよ」


 勇気は自慢げに、人差し指を立てて涼に示す。彼が、自殺した者がそんな表情をすると思ってもみなかった涼は、少し驚きながらも彼の話を聞く。


「少し話が変わるが、今、お前が一番、頭の中を支配されていることだ」


「……言ってみなさいよ」


 人の心を言い当てるとは、妙な話だ。何故こうなったのか。だが、勇気は止まる気もないらしく、誇らしげに胸を張ってこう言った。


「パンツが濡れてしまって、身動きする度に……」


 刹那


「死ねボケッ!!」


 涼の神速の回し蹴りが勇気の首元に突き刺さる。その威力たるやすさまじく、勇気の体を軽々と浮かし、数メートル離れた池に放り込むほど。


 かくして勇気は、初めとは全く別の理由で池に放り込まれたのだった。初めは自殺、二度目はセクハラ。何とも珍しい構成である。











「く……初対面の人間を蹴る奴があるか」


「初対面の人間、それも女子にパンツがどうのこうの言う奴はいないわよっ!」


 勇気は死に物狂いで池から這い上がり、涼の前に立った。だが涼は、それを褒めたたえる気もなく、逆に見下ろして差別的な目を向けている。


「チッ、この俺が見初みそめてやったと言っているだろうが……」


「なに? アンタ、ナルシストなの? なんで自殺なんかしたのよ」


 当然の疑問だ。さっきまでのやりとりを受け、少女はそれが疑問でならなかったらしい。


 つまり、何故に神崎勇気は自殺のための一歩を踏み込んだのか。およそ、自殺未遂をした後の精神状態ではない。普通なら混乱し、嗚咽おえつしそうなものだ。しかし、それどころか勇気は通常の状態より大分機嫌がいいのだから、さらに謎めいている。


 だが……


「……すまない。それは言いたくないんだ。どうしても……」


 勇気はその自分の上機嫌があっても、口を割ることはなかった。目を伏せて涼に見せぬようにし、歯を食いしばって……1メートルから2メートル離れていてもそれが聞こえてきそうなくらいの音量だ。それだけ、悔しさや悲しさというのを孕んだ青い目をしている。


 それをどう思ったのだろうか、涼は話を無理に前へ進めようとした。


「……アンタが死のうとした理由は分からないけど、ともかく」


「危険なのか?」


「……! そうね」


 涼は少し驚くも、落ち着いて言葉を紡ぐ。彼女が驚いた理由、それは彼女の言葉を遮ってまで言った勇気の言葉が、的確に彼女の心情を捉えていたからだろう。彼女は急いでいたのだ。


「さ、行くわよ。察しがすごくいいって言うなら、それに合わせてくれる?」


「ああ、しばらくはお前に従うよ」


 ナルシストの勇気は意外にも、素直に同年代ほどの少女に従って池を離れた。







 そうして、二人が涼の目的地にたどり着く途中だった。灰色の、人が通らない住宅街を歩く最中さなか


「なんで?」


「ん?」


 涼は背につく勇気に、振り返らずに問う。そうして、また言葉を紡ぐ。


「アンタ、私と顔を合わせた時は死ぬつもり満々だったのに、二回目はどうして……」


 どうして自殺をやめたのか。次の涼の疑問はそれだ。


「もしかして、この私に一目惚れ……じゃないわよね。それだったら、一回目の時に……」


「ああ、それは……あながち、間違っちゃあないよ」


「……?」


 涼は目に見えて疑念を顔に浮かべる。勇気の答えは、そう考えてみると普遍的なものなのかもしれない。助けてくれた子に一目惚れしたから、生きなくてはならないと決心する。なくはない話だ。だが……


「男女としてじゃない。人間として、お前に一目惚れした」


 勇気は尊ぶように言う。その言葉をかんがみるに、彼の生きようと決心した理由は恋ではない。的を外した涼は首を傾げる。


 その涼の疑問を解消しようと、また勇気は口を開いた。


「俺は他とは違う。恋心如きで、死ぬのをやめたりしない。それだけの決心を持って、飛び込んだ。だがな……」


 勇気はおもむろに、ポケットに突っ込んでいた右手を抜いて、涼を指差す。そうして、言った。


「俺はお前に希望を見たんだ。人の世では欠片かけらも見ることのできなかった、揺らぎなき希望! お前の、なんというかこう、純粋な優しさに! 希望を見出してしまったのさ。……フッ、違うな。お前じゃなかった」


 また手をポケットに入れ、顎をクイと上げる。そうして上から見るようにして涼に言う。


「お前達なのさ、俺が希望を持ったのは。……お前、どうやら人間じゃないらしいな」


 勇気はそう言った。お前は人間ではない、ならなんだという問い。それを受けた涼は、目に見えて驚く。抑えようとはしていたが、息を飲んでしまっていたのだ。


 二人の衣服と肌から、水が滴り落ちて地面のコンクリートに染み込んだ。それは池の水だろうか、それともどちらかの、焦燥しょうそうの汗だろうか。

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