溢れ出る恍惚
勉強会の日の後、そこから一週間ほどが経った。その間、勇気の生活はあることに絞られた。
雑用、そして塾講師である。
勇気はあの勉強会の日以降、毎日涼と鼬に勉強を教えていた。そして、天翔に朝食を作っていた所を見られたのが悪かった。妖館の家事やらは勇気が来る前、当番制で回していたらしい。だが、彼が有能であるということを理解した天翔はすかさず、勉強会の次の日早朝……
「お前はこれから妖館の姑と呼ばれるほどに働け」
と、訳の分からないことを言ったのだ。そして勇気が来るまでに使用していた丸い当番表を全て塗りつぶし、勇気が全部やる、という言葉を叩きつけて全てを押し付けた。
そのせいで勇気は平日、涼達が学校へ通う日は毎朝四時から五時に起きて朝食を作り、加えて三人分の弁当。三人を見送った後は広い妖館の掃除。当然、太三郎と天翔の昼食も。夕食も全員分作り、洗濯物は上着等、下着を含まないものを全て一人で。
勇気の目の下にクマが出来たのは二日からであった。
「ぐぅ……明日から休日二日……。休める」
勇気はその日の最後の仕事を終えてベッドに倒れこみ、息を深く吐いた。疲れが体の節々から漏れ出ている。死んだ目……というほどではないが、彼は灰色の目をしているのだった。
「……激務には慣れているつもりだったが、結構……」
ベッドの掛布団に覆われながら仰向けになり、勇気は天井を見る。明かりを付けていない部屋の天井は暗い。だが、それは勇気の心はむしばまない。寧ろ、その夜の静けさは彼の心に余裕を作る。
「静かだ……。そうさ、激務と言っても、俺はあんな奴らの……」
そして余裕は、勇気の口元に笑みを作る。
「あんなに優しい奴らの手となり足となり働けるんだ……。幸せだ。幸せ以外の何だ」
掛布団を抱きしめ、勇気は頬を赤らめる。その表情は、恍惚に酔い、快楽に溺れているというような表情。彼はここまで生きてきてこの方、そんな表情を浮かべたことはなかったが初めてそういう感情に酔ったのだ。いや、涼と会った時や妖館の者達と接する時に浮かべていたが、それだけ。
だが敢えて、初めてと言う。それは勇気が、一人の時に初めてこの感覚がここまで色濃く表れたからだ。
「スゥゥゥーー……はぁぁぁ~……。俺は幸せ者、涼達の優しさに触れられて……んくっ、ああ……。どうしてだろうな、涙が溢れてくる。……いや、不思議じゃない。……今はもっと、泣こう」
仰向けがうつ伏せになる。勇気は枕に顔を押し付けて、涙を流して、嗚咽を漏らしながら眠りについた。
妖館の一室、勇気の部屋に朝の陽光が差し始める。その細いそれが、勇気の目の辺りに軽くかかり始めた。その瞬間、
「ん……憂鬱であるはずの朝さえ、こんなに気持ちいい!!」
勇気は飛び起きて掛布団を吹っ飛ばす。そうしてベッドの脇に一瞬で立ち、大声を張り上げてその頭の中に広がっている快感を発散する。彼は満面の笑みで、明るい外の窓に向かっていた。
「ああもうもうもうもう! 幸せ過ぎる……くっ、ああ……ああ」
もう、彼には舌が動かせなかった。彼にとって今の状況は、筆舌に尽くし難いほどの幸福。たとえ、これから労働が始まるという象徴の朝でも、それは変わらない。
勇気は自分の肩を抱き寄せてその場に膝をつく。まるで今の幸福という重みが、自分だけでは持ちきれないとでも言う風に。口の端から、タラタラとよだれが垂れている。
勇気が自分の恍惚に酔い始めて、しばらく……
「……ハッ! 俺は何を……朝の奉仕に向かわなければ」
彼は何のきっかけもなく正気に戻り、口の端から垂れていたよだれを一気にすする。そうして残った汁を適当に手の甲で拭った後、立ち上がって枕や掛布団を手に持ち、自らのベッドの処理を進める。
勇気が妖館で暮らし始めて、ほとんど初めての休日はそんな風に始まるのだった。




