救いの手
「……なんだ」
神崎勇気は戸惑っている。頭の中を整理して、して、して、それを繰り返してみても、どうあがいても今の状況が理解できないのだ。彼の体は、池の水面に仰向けになっていた。
(おかしい……俺は真正面から水面に入ったはずだ。だのにどうして……)
彼は自殺するつもりで池に飛び込んだというのに、それを達成できていなかった。つまり、自殺に失敗したのだ。
だが、彼の意志は固い。普通の人間が、何がしかの理由で自殺しようとして、何らかの要因でそれを失敗したとしよう。そうすれば恐らく、大多数はもう一度自殺しようなどとは思えないだろう。
しかし、彼はそれらとは全く違うのだ。
「はぁ……反転すればいいか」
神崎勇気はすぐに、仰向けになっていた体をくるりと回転させ、水面に全身を沈める。
だが、彼の思惑はまたも食い止められた。
「ちょちょ、ちょっと! 一回失敗したのにもう一回死のうだなんて、普通じゃないわね!」
勇気が反転し終える前に、何者かがそう言った。そして、その者は池に沈みかける勇気の体を桟橋から手が届くうちに掴み、完全な仰向けにして彼の呼吸が可能な状態にする。
(……なんだ?)
勇気は眉をひそめながら、桟橋の上の人物のされるがままになって池の水面に仰向けになる。すると、彼の目に自分を助けた人間が映りこんだ。それを勇気は、軽く顔をしかめながら眺める。
桟橋から勇気の体を仰向けにし、彼のことを助けたのは長い黒髪の少女だった。薄茶色のステンカラーコートを着こなして、勇気が仰向けになっているのを見下ろしている。その姿はまるで、小さい探偵のような雰囲気を持っていた。だが、その顔の幼さが全体の印象を和らげているような、そんな具合だ。
簡単に言って、可愛い寄りの美しい、幼い寄りの大人っぽさを持った少女。少し下品な言い方をすれば、周りの女性から見て目立つほどの美貌。
だが、勇気の目には彼女の顔面や容貌は目に映っていなかった。見るのは一つ、彼女のした行動だ。
「……お前、俺を助けたのか」
彼のその問いに、少女は顔をしかめて返す。自分のした行動を、ありがたく思わない勇気を気に入らないと思ったのだろう。
「何、もしかして人が溺れかけているってのを放っていろとでも?」
少女は言った。当たり前の考えだ。溺れている人間を助けたい、そう思うことも、それに対して感謝を求めることも。だが、勇気は全く、そういう感情を一欠片でも胸に秘めてはいなかった。
勇気は自分が助けられて、相当な不機嫌に陥っていたのだ。自分の自殺をよくも、邪魔してくれたなと。彼は少女の問いに答える。
「当たり前だ!!」
勇気は池で仰向けになったまま、腕を組んでそう言った。そう、彼の場合はそうなのだ。揺るがぬ意志を持って自殺をしたのに、それを邪魔された。不愉快極まりないという顔をして、声を張った。
それで、当たり前だが少女にとっては、その答えは導火線に火をつけたも同じこと。人を助けたのに、助けない方が良かったと逆ギレされているのだから。
勇気の発言にひとしきり戸惑った後、当然起こる憤怒の気持ちを胸に彼女は人差し指を勇気に向け、声を荒げる。
「アンタ! 助けてやったってのに何よその口はっ!?」
「だからそれが余計だったと言っているだろうがっ!」
「余計って……喧嘩売ってんの!? 私は、したいことをしただけよ! クソ、服汚した……もういいっ! じゃあ、勝手に死んでなさいよそこで! ファッキューッ!!」
少女は舌を思い切り出し、右の手も左の手も中指を立て、池に仰向けに横たわる勇気に向けた。思い切り、だ。
そうした彼女は言葉の通りに、振り返って桟橋を勇気とは逆方向へ歩き出す。揺れる肩から、その怒りが見て取れる。
勇気はそれを、呆けた表情をしながら見つめていた。興味がなかったのだ。彼にとっては、邪魔者が消えたということ。
しばらくしてもう一度、彼はゆっくりと体を水面に預ける。
「よし、消えたか。もう一度……」
だが、邪魔者……救いの手は消えていなかった。
「ああもうクソッ! 早く上がりなさいよ!!」
勇気は驚いて、張り上げられた声の方向を見た。その方向には、先ほどの少女が自分に向かって必死に手を伸ばしているのがあるのだった。




