悲鳴を上げていた愛は、希望を胸に
「と、鳥山さん……どうして、ここに……」
愛音はとある背の高い建物の上で、後ろにいる天翔に目を向けた。その表情には、驚愕のみが張り付けられていた。本当に信じられないという様子で……残念ながら、それ以外はない。感謝や、安心はまだ。
ただ、愛音は天翔がそこにいるという事に気付いて少し、フッと笑った。それは安堵からだろう。その表情を持って、彼女は天翔に少しだけ歩み寄った。建物の端、生の端から彼女は少し離れる。
「……ありがとうございます。その節は。本当に……琴音を助けてくださって」
「……あの時に俺が助けたのは、アンタと娘さんだ。娘さん一人じゃない」
「…………もう、どうでもいいんですよ」
天翔の言葉に対して、愛音はフッと笑って言った。その笑いは、卑屈の極みだ。自分のことを重要と思っていないのでなく、忌み嫌い、本当に死ねばいい存在と思って笑ったのだ。
「私は娘に捨てさせてしまったんですよ! 夢も、安全も、時間も……体でさえも!! 奪ってしかいないんです……。私は琴音に、何も与えられていない……」
「……そういうもんじゃないぞ、言っておくがな」
「は? ……よく、分からないのですが」
愛音の言葉を聞いていて、思わず天翔は口を開いてしまう。だが、愛音はそれにもっと食いついた。本来ならば有り得ない疑問の表し方をして……額にはしわが寄っている。自分のことが嫌いだと言っているのに、それでも、何が気にくわないのかとそう顔で言わんばかりの顔だ。
「私は奪ってきたんです! あなたのような他人じゃ分かりません。……分からないんですよ。私が何をしてきたのか。琴音が……最後に笑っているのを見たのがいつだったか……」
そこまで言って、自分を虐め続けて、耐えられなくなったのか愛音はその場に崩れ落ちる。そうして、目から涙を流し始めた。地面に手をついて、肩を震わせて、穴の開いた水槽のようだ。中に泳ぐ魚は、もう息が出来なくなる。
「私は……私は笑顔すら。笑顔すら、与えてやれなかった! 一緒に並んで、笑うことが出来なかったんです…………ぅ、ぅふ、ぅっ……ううぅ……」
愛音は拳を握りしめ、嗚咽した。その拳の握りしめる音が、天翔の元にまで届く。
だが、
「……いいことを教えてやろう」
「……?」
天翔は言った。いいことを教えてやると。愛音はそれを耳の端にとめて、顔を上げる。その顔は、疑問に染まっていた。不意打ちだったためであろう。どうして自分が嗚咽している最中、いいことを教えてやるという言葉が予想できようか。心配や抗議なら有り得るが……
だが、天翔は断固とした口で言った。
「今、アンタの娘、琴音は生きている。笑ってな」
「……!」
「どうやら、アンタと俺、それに子供達には奇妙な縁があったらしい。アンタ、俺が店に来た時、娘の話をしたろう? そん中で、親友がいるとも言った。その親友が俺のとこで預かっている子供達だったらしい。……まあそんな訳で、これは一番、最低限アンタに伝えなくちゃいけないことだ。アンタの娘は笑っている」
天翔はそこまで言い切って、はあと息を吐く。ここまでは、事実だ。事実なのだ。
「そう、ですか……琴音は……よかった……ですが」
だが、愛音はそれだけでは意志を変えることはなかった。ですが、その言葉の先に続く言葉は恐らく、自分は消えた方がいいとかネガティブなものだろう。それを察した天翔は、思考を走らせた後で、口を開く。
(……彼女に後ろを向かせてはいけない。自虐以外の感情を、無理にでも)
「本当にアンタは、自分自身が必要ないとでも思っているのか!」
「…………え。いや、私は……」
「言ってみろ! 家庭で男が女に言っちゃいけない事ナンバーワンと言われる言葉を思い出して言ってみろ!」
「え……ぁ、分から、ない……です」
急に、天翔は訳の分からないことを口走り始める。今のセリフ、どう考えてもこの状況で言うべきものではない。だが、動揺しきった愛音はそれを真に受け、分からないと答えてしまう。
それを見て、天翔はゆっくりと口を開いた。答えを教えてやるのだ。
「誰のおかげで飯が食えているのだ、という言葉だ」
「…………だから?」
天翔は静かな表情で先ほどの自分の問い、その答えを告げた。が、愛音はそこの辺りで正気に戻り、だから何なのだと天翔に真顔で問う。それを受けて、天翔は……静かに語り始める。
「これは、子供に対しても言えることだ。母親や父親、彼らは絶対、自分の子供に誰のおかげでなどと、言ってはいけないのだ。それは教育の義務があるとか、そういう問題じゃない。人として、だ」
「……はい。そこは、なんとなくわかりますけど……だから?」
また、愛音は問う。彼女はどうやら、イライラし始めているようだった。自分が決心したことを否定されたかと思えば、訳の分からないことをペチャクチャと喋られているのだ。キレもするだろう。
だが、天翔は彼女がそれを口にする前に、話した。要所を。
「だが、ある域に達した人物達にはそれを言う権利がある。また、達している人物は、だ」
「………………? それは、どんな」
「……子供のことを思い、尽くしてきた、尽くしている者達だ」
そこまで言って、天翔は手を灰色の空に振り上げた。そうして、愛音のことを指差す。
「アンタには、その権利がある」
灰色の空に、青空が指し始める。だが、愛音は天翔の言葉を聞いて……
「………………ハッ!!!??」
と大声で疑問を表した。その疑問は、ただの疑問ではない。例えば、数学が分からなくてペンを壊したがる子供のような、分からないだけでなく、そのことが憎くて憎くてたまらないという疑問だ。そうして、それをためらいなく口から吐きだす。
「意味が分からないですよ! 何言ってるんですか、何知ったような口をきいてるんですか!!? 私は琴音に何も与えられてない! なのにどうして、どうしてそんなことをあの子に言えると!? バカにするのもいい加減にしてくださいよ!! 私は……私はぁ……」
途中で、愛音は嗚咽を抑えられなくなった。そうして、崩れ落ちる。灰色の床に、両手をついて。肩を揺らして泣きじゃくるのだ。
天翔はそれを見ながら、彼女の疑問に答える。
「尽くした人物だ。決して、子供を幸せにしてやれた奴らのことを言ってるんじゃあない」
「……え」
「例えの話……いや、見た話をしよう。あるところに、貧しい親子がいた。母親と、娘。二人はもう生きられなかった。どちらか片方ならば、食料の問題も乗り越えられるだろう。それを分かっていた母親は、娘にずっと、手に入った食料や水を優先して与えていた。だが……先に体力が尽きたのは娘だった。病気だったんだ」
天翔は語り始めた。内容は、不幸な親子の話。愛音はそれを、最初は怪訝そうな表情で、途中から同情の表情を浮かべて聞いた。自分達の境遇と、ある程度重ねたのだろう。
それに構わず、天翔は静かに続けた。
「倒れ行く娘を抱きながら、土の色に染まりそうになる娘の顔を見ながら、母親は言った。お前はどうして、私のおかげで食べていたでしょ。なら、生きてよ。生きて、笑ってほしかった……と。結局、二人はそのまま死んでしまった……。それで聞くが、堀田さん。アンタはこの母親の言っていたことが、やっていたことが、間違っていたと思うか?」
「…………」
天翔は、軽く話を終えた。その後で、愛音に問う。話に出て来た、娘に尽くしてきたが助けられなかった母親が間違っているのか、と。
その問いに、愛音は言葉を詰まらせた。それはきっと、正しいと思っていたからだろう。母親は娘のために尽くした。だが、それはならなかった。しかしそれでも、母親は娘のことをずっと心配して、尽くしていたのだ。その精神が、キラキラと輝くようなその意思が、間違っているなどとは有り得ない。
ただ、それを肯定することは……
「アンタと同じだぞ、堀田さん」
「…………っ」
天翔が、愛音の思考を先取りした。つまり、その通りだ。彼女は自身を肯定しまうのだ。自分を無価値と言って死のうとしているのに、自分と同じような境遇の人間を……
そこまで言って、天翔はたたみかける。
「アンタは、無価値なんかじゃあない」
「っ! それは……!」
「娘を助けようとした母親の精神が! 間違っているとでも? それは、アンタも同じなんだぞ堀田さん」
「ち、ちがっ……」
「本当のことを言うんだ。アンタもきっと、あの時の母親と同じことを思っているはずだ。娘の笑顔が見たい、と」
「…………ぅ、ぅ……うう」
天翔の言葉を受けて、愛音は、崩れ落ちていたのから更に俯いた。そうして、肩を揺らす。建物の屋上に、涙が落ちる。その涙は、黒くはない。透き通った、綺麗な……。
彼女は、自分の気持ちに向き直った。
「琴音が、笑っている所を……見たい」




