飯田先生 1
「来るのかな……」
「分かんねえな、そこはよ……」
晴れの日、涼と鼬は学校の一教室にて、隣り合って静かに黒板に向かっていた。そうしながら話すのは、飯田の事である。
ただ今の時刻は八時半に達さない程度。中学や、ほとんどの学校では朝の会の直前くらいの時間なわけだ。つまり、担任の教師が現れる直前、生徒一同がまだ騒いでいる時間。通常ならば二人も、マーレと琴音と共に騒いでいる時であるが……
二人を除いて、ほとんどの子供達が笑顔を見せている。普通の学校だ。だが、その中で涼と鼬は真剣な表情をして誰もいない教卓を見ていた。
「本当に……来たら、最初になんて聞きゃあいいのかな」
「聞くんじゃなくて、伝えるのよ。琴音の事」
「……そうだなぁ」
二人は、静かに教卓を睨むのであった。
そうして、しばらく。しばらくというほど時間もたっていないが、八時半を少しこした辺り。
「お前達、椅子に座れ~!」
教室の中に、ある声が響く。それを耳にした涼と鼬は、すぐに顔を見合わせた。驚愕の表情で。それに反して、周りの生徒達は当然のように声の指示を受け、サーッと自分達の椅子にまで戻っていく。
そう、教室の中に響いた声、その主は……
「さて、朝の会を始めるぞ」
飯田だった。彼は当然のようにぬるりと扉を開いて現れ、そのまま教卓の前に立ったのだった。他の日と同じように、ダルそうな目をして、ため息混じりに。その様子はまるで、仕事のうまくいっていないサラリーマンのようだ。
そんな彼の様子を見て、というか彼の登場を受けて、涼と鼬は驚愕した。そして、ほとんど同じことを思う。それは……
(さも当然かのように現れた!?)
(いつも通りの自然な登場ッ!?)
と、いうことだった。どちらも、飯田がいつも通りに教卓の前に立ったのに驚いている。
だが、教室の端の二人が驚くのには構わず、飯田は死んだ目をしながら朝の会を進める。その様子は、登場と同じようにいつもの通りの彼であった。寝ぼけているようで、手に持ったプリントを眺めながら話すその様は二人にとって見慣れたものである。
「え~今日はぁ……うん。特段何も報告することはないな。あ、いや待てよ……」
だが、飯田は話の途中でいったん、話を区切る。そうして、ダルそうな気配を消し、真剣な目になって教室を見渡す。しかし、彼は一瞬だけそうしたかと思うと、すぐにさっきまでの様子に戻って続けた。
「今日は堀田が休みだ。それと……佐々木もか? どうなんだ、鎌田、大江」
少し解説が必要だ。マーレの苗字は、外では佐々木ということになっている。すさまじくリズムの悪い名前であるが、これは偽名だ。偽名を使う理由は今は言えない。ただ、そういうことになっているとだけ、覚えていてほしい。
つまり今、飯田はマーレがいないことに気付いたのだ。そうして、彼は同じ孤児院に通っていると記憶していた涼と鼬に問いを投げた、と。
その飯田の問いに、戸惑いながらも涼が答える。
「は、はい。マーレは今日、熱で休みです」
「そうか……ふむ、分かった。じゃあ、もう特に何か伝えることもない。授業の準備をしてもいいぞ」
涼の答えを受け取ると、飯田はサッと手に持っているプリントにペンを走らせた。そのすぐ後で、生徒達に向かって許可を出す。もう自由にしてもいい、と。それを受けると、涼と鼬以外の生徒達はすぐに隣り合うクラスメート達と喋り始めるのだった。
そんな中で、飯田はさっさと教壇から下りて廊下へ出ようとしていく。それを目の端に止めた涼と鼬は、すぐに椅子から腰を上げた。
「ちょ、行っちまう……」
「話しかけに行くわよ」
目的は、言葉のとおり、そして最初の通りである。
「飯田先生!」
「……まあ、そうなるか」
鼬は涼と共に廊下へ出ると、すぐに声を上げた。それは、静かな廊下を一人で歩いている飯田の背に向けられる。
飯田は自分の教え子が声をかけて来たのに気付くと立ち止まる。だが、その様子は普通に声をかけられた時のそれではない。彼のような性分ならば普通、少し気だるいと言うように振り返るだろう。
だが、今回は違った。おそらくは、声をかけてきたのが鼬だとは分かっていたのだろう。そうして二人の間には、例のことがあった。つまり、ラーメン屋前での出来事。飯田はそのことを追及されると思ったのだろう。
だから、警戒するような目つきで後ろに振り返ったのだ。
「なんだ、鎌田……。大江もか」
鼬と涼が立つ方へと振り返って、飯田は肩を落とす。本当に、面倒極まりないという様子だ。だが、二人はそんなことに構わず、まずは伝えた。
「飯田先生。俺達、伝えなくちゃいけないことがあって、来たんだ」
「……あ? 聞きたいことじゃなくて、か?」
「ええ、そう。……琴音は無事よ。それと、本当にありがとうって」
「…………!! そうか……」
涼は伝えた。琴音が無事であると。先生が身を挺して守った自分の生徒は、無事であると。
それを聞いた飯田は、一瞬だけ驚愕の表情を見せた後、満足そうに微笑んだ。それはまるで、大きい仕事を終えた後で家に帰り、一人で満足感に浸っている時のような顔だ。
「そうか……堀田は無事か」
「ああ。あの後で、俺と涼、それにマーレのいる孤児院に匿ったんだ」
「うん、よくやってくれた。昨日から、それが心配でならなかった。だが……本当によかった」
琴音が無事であるという事を知ると、飯田は最初の警戒などなかったかのように柔らかい表情で二人に向かう。いつもは死んだような目をしているのに、その時は光って見えた。
だが、涼は飯田の表情の変化には構わなかった。
「うん、まあよかったことにはよかったんだけどさ……」
「ん、なんだ大江。堀田が無事なこと以上に、何か重要な事でも……」
「先生って何者なの?」
「……………………」
涼は問いを投げた。飯田先生、アンタは一体何者なのかと。鼬も並んで、涼と同じように目で訴えた。二人共、気になって仕方がないのだ。絶対に解決しなければならないという事はないのかもしれないが、この謎は二人にとって重大なもの。
だが、二人の視線を受けた瞬間、飯田の表情は物柔らかな感じではなくなる。元の、死んだ目に戻ったのだ。それを持って、彼は……
「ただの、教師さ。少なくとも自分の受け持った生徒くらいは幸せにしたいと願う、いたって普通の、な」




