藁などではない。もっと、しっかりと根から……
「……う、うぅ……」
琴音は変わらず、小さい店の小さな軒下で、体を打ち振るわせていた。その震えは冬終わりの雨に打たれた寒さもあるだろうし、自分の今の状況への恐怖でもあった。ともかく、彼女は危険な状態だった。精神的にも、身体的にも。
だが、そんな彼女にも頼りはあった。それをしかと確認するように、琴音は懐からケータイを取り出して、見つめる。少し前にマーレと電話するのに使った、あのケータイである。
(場所は教えた……来てくれる。来てくれるんだ……)
「うぅ、グズッ……ふぅ…………」
顔を舐める涙をずっと流しながら、琴音は一人、震え続けていた。自分の頼る者が、救ってくれるはずの者が、現れてくれるのを。
彼女にとって、それは今、唯一無二の光だった。母親は失踪、教師は少なくとも彼女の意識下では危険な状況に。もちろん、涼達が彼女の救いにならないというわけではない。
しかしマーレは、彼女にとってしかと確認することが出来た助けなのだ。圧倒的不幸を目の前にしたその後で、それでも自分に可能性を残してくれるその手。
(来てくれる……。来てくれるんだ……)
ガチガチと、奥歯が鳴る。震えが止まらないのだ。来てやるとマーレは明言したのに、それでも。
琴音は信じ切ることが出来なかった。決してマーレを信じないわけではない。自分の幸福になる可能性を、信じられなかったのだ。例えば、彼女は今、マーレが走って自分の所まで来る途中、急いでしまったために彼女が車に引かれてしまうというような想像をしていたのだ。
そんな想像をしてしまった琴音は、首をブンブンと振ってそれを頭から吹き飛ばす。
(嫌だっ! そんな、そんな……私に関わったからって、そんな……でも、先生も、母さんも……私に手を差し伸べようとして、不幸に……いやだ、いやだぁ……)
最早、立っていられなかった。震える膝が崩れ落ちて、地面に彼女はへたり込んでしまう。その様子はまるで、幼児が母親が来ないのに不安を覚えて、幼稚園で崩れ落ちるような、そんな危うさを持っていた。
(私がいけなかった……いけなかったんだ……夢なんて追いかけて時間を無駄にして、受験なんてしなければよかった。お金がかかる。母さんは未来のためなんて言ってたけど、違うんだ。違う……結局私に関わったことは全部、全部、関わった人は……不幸に……あぁ、マーレ……ごめん)
まるで、マーレがもう故人になったとでも思っているかのようだ。そんな風に思ってしまうほど、彼女は追い詰められていた。
だが、そんなのは初めから、有り得ない事だ。
「琴音ッ!!!」
声が、通りに響く。明瞭に。それは、琴音の耳のすぐそばで発せられたのかと思うほど、彼女の耳に、心に伝わった。土砂降りの雨など、関係ないのだ。
「マー……レ…………?」
思わず、琴音は目を開いた。涙で目の前がほとんど見えなくとも、それでも、目の前を見ずにはいられなかった。希望が、手が、藁にもすがる思いですがったその手が……いいや藁などと。それは根から琴音に絡みついて、救おうとしていた。元から、転げ落ちることなど許さないと言うように、しっかりと絡みついていたのだ。
琴音の目の前には、黒い傘を差したマーレが立っていた。
「琴音……来て、やったわよ……」
「…………っ!」
マーレは、息を切らして肩を揺らしながらも、そこにしかと立っていた。顔には、琴音に対する心配のみ。
彼女がどうやってここまで来たのか、さっきから全然時間がたっていない、異常だ。電話してから十分もしていない。なのにどうやって……
そういう考えは、琴音の頭に一瞬でも浮かばなかった。彼女がマーレを目の前にして思ったのは、芯から湧き出る安心と、底なしの感謝だ。それを持って彼女は……
「マーレッ!!!!」
マーレの胸に飛び込んで、彼女を強く抱きしめた。涙を、今振っている土砂降りの雨よりあるんじゃないかというほどに流して、表情を崩して。
琴音を受け止めたマーレの手から、傘が落ちる。だがそんなことにも気付かずに琴音は、グズグズと鼻を鳴らしながら、マーレに自分の感情を吐露するのだった。
「ほんどうにぃ……じんばいだったぁ……マーレがぁ……っ……死んじゃうんじゃ、ないがっでぇ……」
「フッ、どうしてこの私が死ぬのよ」
「だっでぇぇ……ぅ、うぅ……私の周りじゃ、いろんな人がぁ……不幸にぃ……うっ、ズズ……ぅぅ」
「うるさいわね。誰が不幸よ。笑えないくらい下手な冗談ね。……琴音」
マーレは呆れたようにして琴音の言葉に答えながらも、満足げな表情をした。その胸に抱いている温度が、確かなものだったからだろう。冷えている。震えている。だがそれは、琴音は確かにそこにいるのだ。自分という綱に手を伸ばしてくれたのだ。
一度息を吸ってから、マーレは自分の胸に抱き着く琴音の頭をなでる。
「よかった……。もしものことがあったらって、走って来たんだから」
「……ありがどぅ……ありがとう……ありがとぉ……」
マーレの言葉に、琴音は彼女の胸に顔を押し付けながら、小さい声で答えた。それを耳にして、マーレはフッと天上を見上げて笑う。そうして、呟いた。
「……いつか、返してもらうから。とは言っても……返してもらってるみたいな、ものだけどね」
そう言うマーレの顔は、満足が支配していた。それ以外の感情は全く、含まれてないほどに。それほどまでにマーレは琴音を助けることが出来たのを安心し、喜んでいたのだった。
雨の中で膝をつく二人は、抱き合ってどちらも離さない。絡みついているなどというレベルではないのだ。一体だ。一体なのだ。片方が痛いと思えば、もう片方も同じように感じる。そこまでに近い、二人は。
雨が降りしきる灰色の街、その中で二人が抱き合うその周りは、オレンジの温もりが包んでいたのだった。




