助けられたかもしれない立場
「お前はあの男の部下か、それとも上司か……。まあ、どちらでもいい」
愛音のラーメン屋の中から、飯田が出てくる。彼は口と頭から血を流して、随分と物騒な様子で雨の中に身を晒した。彼を目の前にした天翔は、思わず後ろに下がって距離を取る。だが、飯田は死んだ目をしたまま飯田を睨み、距離を話すことを許さない。ゆっくりと、天翔と同じ速度で雨の中を歩く。
「俺の生徒に、手を出してくれたんだ。ただで済むと思うんじゃあないぞ」
雨の中を歩きながら、飯田はこう言った。彼の言葉を受けると、天翔はハッとして口を開く。
「まさか、この店に来ていたヤクザの事か? なら、違うぞ。私はただ、この店の常連で……」
「本当かな……。証拠がない。こんな時間に、こんな人気のないところで。フン、一人は現場に出て、片方は見張りをする。よくあることだろ」
天翔の言葉を、飯田は受け入れるつもりがないようだった。その黒い、どこまでも暗い目で、天翔を睨んだまま間合いを計っている。
そんな風に相手がしてしまっていては、天翔も、ある程度身構えざるを得ない。飯田から出来るだけ距離を取るようにして、雨の中を歩く。二人は、円を描くように通りを回った。
そんな中で、飯田は懐に手を突っ込みながら言う。
「生徒の手前、本気を出して、人が死ぬ様を見せることも出来ないから片目だけで逃がしてしまったが……」
そうして飯田が懐から取り出したのは……黒いナイフであった。どう考えても、料理に使うようなサイズではない。人を殺すための、心臓に届かせるための大きさがあった。
それを見た天翔は、冷や汗を浮かべて口を開いた。その時、飯田の持つ黒いナイフが、雨を伝わせてキラリと光る。
「お前……何者だ。私からして見れば、お前の方が奴らの仲間に見えるぞ」
「言っていろ……。そのつまらん仮面も、顔ごと引き裂いてやればすぐに剥ける!!」
飯田は気合の声を上げると、雨の中を駆けだした。天翔の方へ、その手に持つナイフの切っ先を向けて。明らかに殺すつもりの目をして。
(こいつ、こんな往来で本気か!?)
天翔は目くらましのために手に持っていた傘を前に向けて、後ろに飛び退く。だが、そんなのは長続きする訳もない。飯田はその手のナイフで傘を切り裂いた後で、迷いなくそれを天翔の首辺りにめがけて突き出した。が、それは通らない。天翔はナイフを手に持っている飯田の腕を途中でつかみ、止めたのだ。
「………………」
「………………」
二人の間に、沈黙が走る。雨の音がそれを紛らすようであるが、そんなのは全然だ。二人の間には、濃密な緊張があった。
そんな緊張を、フッと笑って飯田が崩す。
「やはりな。どう考えても、落ち着きすぎている。それに、動きもだ。訓練していなければ、こんなことを軽々とやってのけるはずもない。……才能と言い訳しきるか? こんな雨の日、住宅街に仕事がある訳も無かろうにスーツを着て、なぁ? ある程度、戦い慣れた男が偶然、偶然! ヤクザが子供を連れ去ろうとしていた現場に現れると……」
飯田は天翔に腕を掴まれながらも、その目を見開いて天翔へ尋問をする。つまり、お前は鼠田の仲間だったのだろうと言わせようとしているのだ。
だが、天翔にそんなつもりは全くない。苦虫をかみつぶしたかのような顔をしながら、飯田に言う。
「落ち着け。違うと言っているだろう。私はただの常連だ。逆に私が本当にお前の言う通りだったとして、だ。そんな状況証拠がそろっていて、わざわざこんな嘘を通そうとする必要もないだろう?」
「…………」
天翔の言葉を受けて、飯田は黙り込む。ナイフを引っ込ませるには至らないが、動揺をさせているようだ。それを僥倖と見たのか、天翔は次いで、問う。彼自身が知りたかったことだ。
「お前はさっき、子供を連れ去ろうとしている現場、と言ったな。つまりここで、ヤクザが子供を連れ去ろうとした、ということか」
「…………」
飯田は答えない。だが、天翔は続ける。聞きたいが、聞きたくないことを問うのだ。つまり……
「もしかしてその子供は……堀田、堀田琴音という名前か。母親の名前は、堀田愛音!」
「…………ああ」
答えは、天翔が嫌だと思っていたものだった。自分の行きつけのラーメン屋、ある程度の親交があったそこの店主と、その娘が、危険にさらされた。
その事実は、ひどく天翔を動揺させた。ナイフの切っ先であるにもかかわらず、そのまま掴み、飯田の顔面に向けて大声を上げる。そうして、質問したのだ。飯田が動揺するのにもかかわらず、必死な目をして。
「お、お前……手が」
「どうでもいいんだそんなことは! 堀田さんはどうした!? 娘さんは!? 無事なのかッ!!?」
「…………」
血がドクドクと流れる。飯田のナイフを握る天翔の手から、とめどなく。それは、飯田の心を動かした。
「……恐らく、お前の言う娘は助けた。俺は、あいつの教師だ……。最近、あいつの様子がただならぬ様子だったから、家までつけていた。それで、ヤクザが入って行くのを見て、心当たりがあったから助けようと入ったんだ。だが、お前の言う堀田愛音とやらは……分からん」
「っ! ……そうか」
天翔は、飯田の口から答えが聞けるとナイフからだらりと手を下ろす。その手からは、血と一緒に力までドンドンと抜けているようだった。それを、飯田は何とも言えないという様子で見つめていた。
「…………私のせいだ」
「?」
ふと、土砂降りの雨の中、天翔が呟いた。自分のせいだ、と。……話は繋がっていなくとも、飯田は何となく理解がついていった。つまり、琴音と愛音の身に、ヤクザの手が伸びたのは自分のせいだ、と。
次の言葉で、飯田はそれを確信した。
「前に下っ端が来たのを見た時、本当に完膚なきまでに叩き潰しておくべきだった……。そうすれば……」
「いいや、お前だけじゃない」
「…………?」
飯田はつい、口を開いた。地を睨むようにして、吐き出したのだ。その言葉を。
「俺が、学校で異常を目にした時点で、家にまでついて行くべきだった。張り込みでもして、何でもいい。なんでも、するべきだったんだ……」
「……そうか、お前も……“助けられたかもしれない立場”だったんだな」
「…………ああ」
天翔と飯田は、互いに全然、知り合っていなかった。分かりあっていないし、今日が初対面だ。言うまでもなく。だが、そんな二人は同じ思いで、地と天を睨んでいた。雨の降る、雨に穿たれる、天地を見て。
「ああ、分からないな……」
天翔が言った。それに呼応するように、飯田が口を開く。
「まったくだ。本当に……」
そうして二人は、天から水が降り注ぐ中で、涙を流して言うのだった。
「どうして弱者が虐げられるんだろうな……」




