偶然の重なり、奇妙な縁
「何だ……この、異様な雰囲気は……」
天翔は一人、雨の中で黒い傘を差していた。そんな風にして彼が立っていたのは、愛音の店のすぐ前である。その前で、天翔は眉をひそめて思考していた。どう考えても、普通の状態ではないのだ。
(おかしい……何だ)
店の出入り口の戸は、雨だというのに開きっぱなしになっていた。その中の店内には誰も人は入っていない。これだけでも、充分な奇妙さである。普通の状況でも開けっ放しにするはずはない出入り口、加えて店が開いているはずの時間に客が一人もいない。確かに雨で、客があまり入ってこないというのはあるだろうが、一人もなどという事はあろうか。それに、灯りがついていない。
(人がいない? いつもはこの時間、店は開いているはずだ。なのに灯りがついていない。それに、前に雨の日にここへ寄ったときは、もう少し人がいたはずだ。加え、出入り口が開け放たれている。……異様な点を数えれば、果てがない……)
天翔は、店に入りかねていた。何かが、あったのかもしれない。自分はラーメンを食いに来たのに、もしかしたら、何かしらの事件に巻き込まれるのかもしれないと。
しかし天翔はすぐに、店内へ入るために足を踏みこんだ。揺るがない意思を持って、である。
(もし堀田さんや、堀田さんの娘さんが危険なのであれば、行かなくては……私なら、相当なことがない限り……)
だが、天翔が店内へ足を踏み込もうとした時だった。
彼の両足の間を、太ったネズミが走り抜ける。そいつはラーメン屋の中から飛び出てきた。加えて、そのネズミには特徴的なところがあるのだ。天翔は思わず、振り返ってそのネズミを見直してしまった。その特徴とは……
「っ……何だ、今の。目が、片方潰れて……」
天翔の優秀な目は、雨粒の中でもそれをしかと捉えた。彼の足元を走り抜けたネズミには、片方の目がなかったのだ。詳しく言えば、潰れていた。血が流れていたのだ。外傷である。決して、自然に生きていてつくはずのない、深い切り傷が目をえぐっていた。
「…………」
(……鉄鼠? だとすれば、あいつは……)
だが、天翔が思考を長く巡らせる時間はなかった。
「お前はあの男の部下か、それとも上司か……」
「っ!? …………誰だ」
天翔の背、さっきネズミの方を振り返ろうとしたから、つまりはラーメン屋の店内の方。そちらから、声がした。天翔が振り返り、声のした方向に目を向けると……
そこには、口と頭から血を流す飯田が、死んだ目をして立っていた。
「つ、繋がった!」
「……はい、もしもし。こちらは妖館ですけど……」
琴音は、ある小さい店屋の狭い軒下で、電話をかけていた。母親が残した手紙、その最後に書かれていた電話番号である。二日前に、自分と母親を鼠田から助けてくれた男が、母親に残したという電話番号。期待を持って、自分が救われるかもという希望を持って、琴音はその電話番号に賭けたのだった。
だが、その電話に応じた声に、琴音は聞き覚えがあった。
「は……マーレ?」
「え……その声は、琴音?」
しばらく、二人の間に電話越しに沈黙が広がる。それだけ、二人にとっては意外だったのだ。マーレにとっては、自分のケータイならともかく、妖館のスマホの番号をどうやって琴音が知ったのかという疑問。琴音にとっては、自分達を助けてくれた人が教えてくれた番号にかけたら、どうして自分の親友にかかったのかという疑問。
だが、思考していてもしょうがないとマーレが口を開く。とにかくは、口にしなければならないと思ったんだろう。
「ちょ、琴音。どうやって、この電話番号を……」
「よがった……」
「は?」
電話の奥でマーレが口を開くと、琴音は……目と口から、雫を垂らし始めた。泣き始めたのだ。肩は揺れ、手は握られて、震えている。その姿は、まるでやっと光を見つけることが出来た、植物のようだった。動くことが出来ないはずなのに、自分はもう立てないほどに傷を負っているのに、少しでも光に近付こうとするそれに似ていたのだ。
泣きじゃくりながら、琴音は自分とその周りに起きたことを話そうとする。
「今ぁ……かっ、かあ……グズッ、さん、がぁ……う、うぅぅ……あ」
だが、言葉になっていない。電話の奥のマーレは、琴音の言葉を聞き直す。
「ちょっと琴音? なんて言ったの? ていうか……」
(泣いてるの?)
マーレは妖館の自室で、スマホを顔の横にあてがいながら冷や汗を浮かべていた。琴音と電話していて、彼女は察したのだ。今の、琴音の状況を。そうして、唾を飲み込む。
(……分からないけど、鼬達が辿り着く前に、何かが起こったの? だから泣いて……それに、雨の音が聞こえる。電話の奥から……)
マーレは電話の奥に、異音を耳に留める。それは、雨音だ。ラーメン屋の中で電話していたなら、流石に壁の奥のそれをケータイが捉えることは出来ないだろう。マーレは、そのことを琴音に問う。
「琴音。今もしかして、外にいるの?」
「うぁ……ぁう、ぅ……うん」
「……一体、何があったの琴音。アンタがそんなに泣いている理由を、教えてほしい」
マーレは電話しながら、額に血管を浮かべる。彼女は、随分と怒っているようだった。暗い顔をして、赤い髪に覆われる瞳は、血のように光り輝いている。
(誰が……一体、誰が……)
だが、怒りの気を頭に蔓延させることはなかった。
「マーレ……助けて」
「えっ?」
琴音が、異常なことを言ったからだ。
異常というのは、決して普通の状況から言った異常ではない。つまり、琴音が絶対に言わないだろう、という意味で異常。だって、彼女は今まで、絶対に自分から助けてとは言わなかったはずだ。その日に手伝いに来てくれというのは、実際、マーレ達から言い出したこと。自発的に言ったことではあるにせよ、それは根本からというのとは少し違う。
だからこそ、マーレは耳を疑った。琴音は、本当に根っから、自分から私に助けを求めに来たのか、と。
「琴音……アンタ」
「助けて……マーレ……。私を、助けてほしいんだ……もう、どうすればいいか、分からないから……何をすれば、お母さんが返ってくるか分からない。何をすれば、どうすれば、幸せになれるか分からないんだぁ……ぅ……先生に言われたから、絶対にぃ……生ぎなぎゃいげ……うっ」
電話の奥で、琴音は泣いていた。どうしようもないほど、何も救いがないって風に。
「場所は……?」
「ふぇ?」
マーレは、自然と口を動かしていた。そうなるまでに、琴音に手を差し伸べようと……
「アンタがいる場所よ。今から、迎えに行く。ダッシュで。だから……さっさと教えなさい」
マーレは電話を顔の横にあてがいながら、部屋の出入り口辺りに置いていた傘を手に取り、窓を開け放つ。すると、外から土砂降りの雨が部屋に入ってくる。同時に、マーレの体が雨に晒されそうになった。だが、マーレは傘を開いてそれを防ぎ、そうして……外に顔を向けた。
外では、吸血鬼の弱点たる水が、天から降り注いでいた。
(雨はヤバい……。水は……ヤバいけど……)
「教えなさい琴音! 泣きじゃくんのは後でも出来るでしょ!!」
怒号を上げて、自分を奮い立たせる。そうして、マーレは涙目になりながら、空を見上げた。
「今からアンタを、助けに行くから」




