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ひび

 ジリリリリリ――――ッ


「……時間か」


 琴音は一人、自分の部屋で目覚まし時計に起こされる。すると彼女は、パッと上体を起こして時計の音を止め、立ち上がった。その動きには、キレがある。具体的に言えば、寝起きということを感じさせない動きだ。それに表情もだ。シャキッとしている。そんな顔で、彼女は部屋を出る。


「さて……母さんの財布……」


 彼女の目覚まし時計の短針が指していたのは四時。琴音はそんな時間に、母親の財布を探し出そうするのだった。









「…………」


 琴音は自分の母親の部屋の前に立って、息をひそめていた。狭い廊下には、外から入ってくる雨の音が響く。そんな中で、彼女はその雨を僥倖ぎょうこうと思って部屋の扉を開けた。


(雨の音で、ある程度なら足音がごまかせる……よし、行こう)


 琴音は決心をして、開いた扉の奥、つまり自分の母親の部屋に忍び込んだ。ゆっくりと、忍び足で音をたてぬよう。傍から見れば、完全に娘が親の金をくすねようとしているような絵に見えるが……


 琴音は部屋の中に入ってまず、辺りを見渡して部屋の中の様子を確認した。最初に目が行くのは、部屋の主が寝ているのであろう。愛音は、部屋の端のベッドで泥のように眠っていた。そのままにしていれば、地面にまで沈み込んでしまいそうなほどに。琴音は愛音のそんな風な姿を見て、唇をかみしめる。


(母さん……無理してんだよな。今、助けてやっから……)


 そんなことを思って、また部屋の中を見渡す。そうしてすぐに彼女は、ベッド脇の小さい棚の上に横長の財布を目に留めた。


(見つけた……不用心だな、こんなとこに置くなんて……まあいっか。よし、さっさと済ませよう)


 母親の財布を目に入れると、琴音はすぐにそれに手を伸ばした。そしてそれを開く。その後で、次は自分の懐に手を突っ込んだ。何かを取り出すようである。そうして、彼女が懐中から取り出したものは……


 一万円札の束である。


 それを、愛音の財布の中にそろえて入れるのだ。ざっと数えてみても、二~三十万はある。それを、母親の財布に突っ込んだのだ。満面の笑みで。


(よし……これで、これで……)











「やった……やったんだ。私は……」


 琴音は事を終えた後ですぐ、自分の部屋に戻って来た。そうして、力を抜いて倒れこみ、ベッドに寄り掛かる。そうする彼女の表情には、安堵と達成感があった。その顔で、彼女はこう呟く。


「“あんなこと”でこんなに稼げるなら……毎日。毎日やってみせる。全部、母さんのため。……母さんは私のせいで苦労してんだ。私が不甲斐無いから。だったら、そんな恩を返せるくらいに私は、頑張らなくっちゃあいけないんだ……」


 そんなことを呟いた後で、彼女は思い出したように顔を上げる。彼女の視線の先にあったのは、何もない部屋の中の机に立てかけてあったギターだ。それを目に入れると、琴音はそちらに歩み寄って、手に取る。


「今日くらいは……」


 そう言って、手を振り上げる。そうして、静かな笑みで机に置いてあったピックを取って、それを弦に……


「……いや、母さんが寝てる。雨が降ってるって言っても……」


 ……ギターを弾く、その直前で琴音は体の動きを固まらせる。彼女の懸念は、自分の母親であった。母親が眠っているのだから、音を立てるわけにはいかない。そう思った彼女は、息を吐いて手を下ろす。


「ごめんなベイビー。触れるのは帰って、手伝いが終わって、夜になりそうだ。悪い……ん……っと」


 そう言って、ギターにキスをした後でそれを机に立てかける。その様子は、本当に楽しくてならないという、普通の少女のようであった。まるで、これから親友と服を見に行く女の子のような……。


「よし、母さんが寝てる間に、仕込みでもやっておくか」


 琴音は楽しそうな表情のまま、自分の部屋を飛び出した。今度は、足音を殺すことはない。ルンルンと、スキップ手前の楽しそうな歩き方で、階下の店に向かったのだった。











 極限状態というのは、人の判断を鈍らせる。例えば、雪山で遭難し、長い間を食事なしで過ごした人間が二人。その二人は、お互いを食べようとすることもあるのだ。互いが人ということは覚えているのかもしれない。だが、それでも。倫理という判断条件を無視してしまう。度合いにもよるが、そういう自分が死ぬかもしれないといった状況は、人の頭を鉛のようにする。

 ある種、琴音はそれにやられていた。そうでなければどうして、愛音が財布の中の金が増えていることに気付かないなどとと思ったのだろうか。それは、彼女が白痴だったからではない。彼女自身が長い間、相当に過酷な状況に身を置いてしまったためである。つまり、栄養剤を飲んでいないとやっていけないような労働。そして、自分達を脅迫する男達の存在による、精神的なダメージ。











「帰ってきた時、多分、母さんは笑って仕事をしてるはずだ……。今から楽しみだ」


 琴音は、本当に楽しみでならないという様子でラーメン屋へ降りてきたのだった。そうして、彼女は手近なところからラーメン屋の仕込みを始める。


 外では、壁にその身を打ち付けるようにして雨が降っていた。

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