差し伸べられる手、だがそれは……
「来たか、琴音。座れ」
「…………はい」
琴音は一人、生徒指導室に向かった。そうしてその中に入ってみれば、一つの横長の机の奥に飯田が座っていた。彼は、だらけた感じで座りながら窓の外に目線を寄こしている。琴音が入ったことに気付くと、首から彼女の方へ振り返り、目の前の椅子を指して示す。座れという合図だ。それを受けて、琴音はゆっくりと示された椅子に座った。
それを目で確認すると、飯田は口を開く。
「俺はお前の目の下のクマが、ずっと受験によるストレスなんじゃないかと思っていたよ」
どうやら彼にとっても全然、見えていたことらしい。つまり、琴音が疲労の極致にいること。身体的な意味でも、精神的な意味でも。
それについての考えを、俯き加減の飯田は淡々と琴音に告げるのだ。
「よくある話だ。受験期の子供が目の下にクマまで作って、自分の学力を伸ばそうともがく。倒れる者もいるそうだ。まあ、そんなことは分かっているから、だからこそ、受験による疲れなんじゃあないかと思ったのさ。いや、言い訳した。そうであってほしいと、だが……」
フッと、顔を机の方に向けていた飯田が、琴音の方へと目を向ける。その目には、何かを射抜くような鋭い光があった。それを見て、一瞬だけ琴音はたじろいでしまう。
だが、そんなのには構わず、飯田は続けた。
「お前、未だ疲れているな。いいや、ただ疲れているだけじゃない」
「……違えよ。そら、昨日の今日ので調子が全部戻るってのぁないだろ。疲れは溜まるもんだし……」
「確かに、そうだな。疲れは溜まる。だが少なくとも、精神的な疲れはその要因さえなくなれば、スッと抜けるものだ。借金に悩む男がいたとしよう。連夜、そのことで頭を悩ませていた。だがもし、そいつが宝くじを当てたとすれば、どうだ? そいつは金の事にストレスを感じるか? いいや、感じないな。……お前には、まだ受験以外のストレスの要因がある」
琴音の抵抗を、簡単に否定して飯田は目を光らせる。その目に宿る光は、敵意なんかではない。自分の持っているクラスから問題が出たら困ると、そういう黒い感情を持っているような目でもない。単純な、優しさの目。それを持って、彼は琴音から目を離し、語る。
「……そのストレスの要因が、何かは分からない。だが、まあ……まずは身体的な疲れから取り除くことだ。一日休めば、とりあえず授業中に寝ることもないだろう。それが一歩、お前がしかと前に向くための、な」
そう言った後で、飯田は席を立ち上がった。それを、琴音は呆けた目で見つめている。彼女の耳にはちゃんと、飯田の話は入っていたが……。ともかく、彼女はそこにいるのかいないのか、分からないような希薄さでそこにいた。
そんな彼女の後ろを行って、飯田は教室の外へ出ようとする。そうして、出口の戸の取っ手に手をかけた。その目には、悲しげな光が。
「何か、頼みたいことがあったら言え。……無理に手を取れば、崩してしまうかもしれないから。お前から来い。俺じゃなくてもいい。親友でもいいんだ……。じゃあ、待っているからな」
待っている、そう告げて飯田は生徒指導室から出て行った。その場に残ったのは、呆けた面をしている琴音のみであった。
乾いた、運動靴と床がぶつかる音が廊下に響く。その音は、明らかなほどに荒々しかった。その足音を立てている人物はどうやら、随分と怒っているらしい。
その足音は、生徒指導室より幾分か離れた所に鳴り響いていた。そうしてその足音の主は、生徒も教師もいない人気のない所へ来ると……
「畜生……どうしてだ。……くっ、どうして」
止まって、壁を拳で殴った。飯田は、悔しいというような表情と、悲しいような表情を合わせた表情で、コンクリートの壁を殴ったのだ。歯ぎしりする音は、離れていても耳にとれるほど。それだけ、やるせない気分でそこに立っていたのだ。
「クソ……クソ」
「飯田先生?」
「ん……あなたは」
飯田が一人、無力感に打ちひしがれているとその背に声がかかる。飯田がその声の方へ振り返って見れば、知り合いの男性教師であった。それを見止めると、一応だけ見た目を繕ってから、その教師の方へと目を向ける。
「……オホン。すみません、佐々木先生。お見苦しい所をお見せしました」
「いえいえ。思いつめている様子で歩いていましたので、少し気になっただけです。……“あの子”の事ですか?」
「……ええ」
佐々木という教師の確認に、飯田は頷いて応じた。あの子とは、つまり琴音の事であろう。それを確認すると、佐々木はフッと笑って言った。
「あまり、気遣い過ぎるのもよくないですよ」
一瞬の後、
「は?」
飯田はつい、自分の立場を忘れ、頭に上って来た疑問を口にした。それを目にすると、佐々木はそのまま、何でもないという様子で語る。
「いやいや、堀田さんはきっと、もう立ち直りませんよ? 少なくとも、私達の手では。育たない芽は、無視するのが一番です。駆除できない腫瘍に関しても、騒いでもしょうがないんですから。それに、あなたは最近彼女に時間をかけすぎています。他人から見て、そう思うほどに。ですから、もし何か有事の際、もしかしたらあなたに目が行ってしまうかもしれません」
「……有事の際、とは?」
「もしもの話です。堀田さんが、ここから不登校になったとして。高校にも姿を現さないとか、そういうことになった時ですよ。そうなった時、真っ先に目が行ってしまうのはあなただということです」
冷酷なことを、佐々木は淡々と告げる。何でもないという様子のままだ。まるで、日常に流れる何もない一ページを過ごすように。悪気は、ないのだろう。だが、それでも冷たく、彼は鉄のようであった。
「親友ではないんです。やはり、社会というのは大人に責任を負わせたがる。親御さん達もそうでしょう。いじめとか、明らかに子供だけの問題なのに、教師まで問題があるとされてしまう。差し伸べられた手を掴まないのは、被害者の勝手なのにです」
(………………………………こいつ)
「ですから、あまり気をかけすぎるのもよくないですよ? あなた自身、気が滅入るでしょう。それに、もしもの時にあなたに被害が行く。これは、一応先輩の私からの、アドバイスです」
佐々木は小さく、胸を張って言った。それを、飯田は信じられないという目で見つめた。
だが、そうだ。佐々木はこれを、善意で言っているのだろう。顔に悪意が一欠片でも映っていない。それを見た飯田は……
「ご忠告、痛み入ります。参考にさせていただきますね」
笑顔で、何事もなかったかのように振舞った。
それを真正面から、実直に受けた佐々木は軽く笑って応えた。その後で、何事もなかったような日常へ……
「いえいえ。ああそうだ。これから、昼を食べるのですが一緒にどうです?」
「ああ、私はこれから仕事がありますので」
「そうでしたか……。では、一緒に戻るだけでも」
「……あっ、そういえば。私は生徒指導室に忘れ物をしていたのでした。すいません。お話はありがたいですが……」
「ふむ、そうでしたか。分かりました。では、私は先に戻っていますね、飯田先生」
「ええ、では……」
そんな教師の中でありそうな会話をした後で、飯田は廊下を歩いていく。佐々木はそれを、見えなくなるまで見送って、その後で歩き出すのだった。二人は全く、違う方向へ角を曲がる。
そうして、飯田が角を曲がって佐々木と離れた後。飯田は一人で呟きながら歩いていた。
「……善意なのだろうな。悪意はない、ただ俺への気遣い。あれこそが普通。関係ない者を見放して、関係のある者とは強く手をつなぐ。それは、世の中において善人と呼ばれる類の人間……」
そんなことを言いながら歩く飯田の顔には、凄まじい苛立ちがあった。顔に差す翳りが、ハッキリと黒として視認できるほどの。そうして、それを持ったまま口を開いた。それは何のためか。ある一つの目的のためだ。
自分の決心を、口にして確認するため。
「俺は教師だ。善人でなくていい。教師とは、自分の受け持った子供を、ちゃんと前に向かせて笑えるようにするための者だ。俺は違わないぞ」




