その目には
「…………あ、くぅ」
昼時。白の中に薄い肌色が混ざったような気持ちの良い陽光が、窓から差す学び舎。学校である。そしてその内の一部屋、今も教師が声を上げている教室。その中の後ろの方の席にて、琴音は頭を抱えていた。
(……頭が、痛い。クソ……)
彼女は連日の労働による疲労と、先日の事による精神的な疲労とで疲弊しきっていた。その目のすぐ下には色の濃いクマが現れ、歩くときは真っ直ぐと背を伸ばすことが出来ない。一度座れば、すぐに瞼は落ちてくる。彼女はもう、まともに学校に来れるような状態ではなかった。
だが、それでも。彼女は自分の体に鞭を打つことをやめない。
(……一応、受けとかないと……。叱られるのも、ごめんだし……)
そんな風に自分に言って、机に向かい、その上のプリントを見る。が、彼女がまともにそれの内容を見ることは出来なかった。
(また、かよ……)
彼女の目からのみであろうが、そのプリントに書かれている内容が何重にも重なっていたのだ。疲れによるものだ。それに、それだけではない。シャープペンシル、シャーペンを握る自分の腕が、軽く震えている。
(…………やってる振り、で、いいかな……)
自分に授業をまともに受けることが出来ないと悟った琴音は、そう決心する。どうせ、自分はもう受験に合格しているのだ。そういう風に考えての事だろう。
だが、教師はそういう風に考えていなかった。
「堀田!」
「………………」
(またかよ)
教師、飯田は彼女を咎めた。離れていても、どうやら飯田は琴音のことを見ていたらしい。声をかけられると、彼女は首をもたげて教師の方へと顔を向けた。それを見止めると、彼は吐き捨てるように言う。
「後で、生徒指導室に来い」
「…………はい」
琴音は飯田の言葉に、なにも反応することなく、ただただ小さく頷いた。なにも反応することがないというのは、何の色もないということ。頷くだけだった。それを見た飯田は、もう一度口を開こうとする。
と、そこでだった。キーンコーンカーンコーン、と学校の鐘が鳴る。それは、授業の終わりのチャイムである。それを耳にした飯田は、小さくため息を吐いた後で教室の外へ向かう。その途中で、琴音に言った。
「出来るだけ、早く来い。では、授業終了だ。そのプリントは、まあ来週までに出すようにしろ」
授業が終わってしばらく。琴音は一人、自分の机で呆けていた。何をするともなく、何をなすともなく。そんな風に、ただ、座っていた。その彼女の背に声がかかる。
「なあ、琴音」
「ん……鼬」
琴音の背に声をかけたのは、鼬であった。彼は心配そうな表情をして、琴音の方に近寄る。
「お前、大丈夫かよ。すげえ……疲れてるように見えるぜ」
鼬は琴音のことを心配していたのだ。だが、琴音はそれに……
「……んなこたないぜ。別に、ほらさ。昨日結果発表だったじゃんか? だから、こう緊張が解けて、疲れが一気に来てるみたいな……な?」
力なく笑って、そう言った。どう考えても、ただの強がりだ。さっきまでの彼女の様子は、鼬を目の前にしても変わらない。彼女の疲れは、表層にまで出てきてしまうほどのものだ。それは隠せない。上っ面な言葉如きでは。大丈夫という言葉は最早、助長していた。彼女の疲れのほどを。
そんな琴音の有様を見て、更に鼬は心配そうに、琴音の座っているのへ寄り添おうとする。
「よう、琴音。隠しっこはナシだぜ」
「…………え?」
「強がるなよ。お前、相当疲れてるように見えるぜ。少しは頼ってくれよ、俺のことも、涼もマーレもよ」
そう言って、鼬は小さく琴音に手を差し伸べた。そうだ、彼は心底から彼女を心配し、助けようとしていた。そしてこれが、今の彼に出来る最大のこと。手を伸ばし、掴んでくれるのを待つ。強引に引き寄せることは出来なかった。待つだけ。
だが、物事とはうまく運ばない。人心とは、真っ直ぐなものではないのだ。
「……いやいや、大丈夫だぜ。私は全然、問題ナッシングだ。へっ、あ~んま心配すんなよ。お前は、マーレの心配だけしてろ」
「琴音……」
「ん……ああ、そうだ。飯田に呼ばれてた。行かないと。じゃ、後でな鼬!」
琴音はまた、突けば崩れてしまうような笑顔を貼って、そのまま教室を出て行く。小走りで、何かから逃げたいというように……。
つまり、そういうことである。琴音は、差し伸べられた手を掴まなかった。掴めなかった。それが、出来なかったのである。彼女は元より人に迷惑をかけない、人を気負わせないように、そういう風に考えて生きてきた少女だったのだろう。そういう生き方が、一番周りを心配させると知らず駆けてしまったのだった。
鼬は琴音が去っていく方へ、小さく手を伸ばすことしかできなかった。




