3 そうでもなかったようだ……
自分がこの車両に乗るまで、他の人間が移動してきた気配はなかった。ということは、今まで自分が気づかなかっただけで、少女は元からこの車両の座席に座っていたということだ。
どのくらいの時間、乗っているのかは定かではないけれども、
もしかしたら、酔ってしまったのかもしれない。
そう心配したのは本心だが、介抱を理由に、ほんの少しは仲良くなれるかもしれない……という下心をわずかながらに抱いていたのは確かだった。
少女の銀色の瞳が、ゆっくりと自分の方へと向けられる。
瞬間、心臓が身体の中で激しくステップを踏み始めた。
心拍数の音だけで、なんか死にそうだ。
「はう」
途端、フラッと傾く少女の身体を慌てて支えた。
羽のように軽く、マシュマロのように柔らかい肢体が自分の腕に、体重をかけている。布越しに感じる体温に、心臓が口から飛び出しそうである。ドドドド……と、血流の音が聞こえてきそうだ。
「だだだだだだだだ大丈夫?」
至極冷静に、などと自分に言い聞かせながらも、口から出た言葉は、かなり踊っていた。
ああ、いい匂いがする……カスミソウにも似た甘くて爽やかな匂いだ……などと、思った不謹慎な自分を、とりあえず今夜は懺悔しながら寝ようとグイズは思う。
「大丈夫ですわ。あたくし、乗り物に弱くて……」
容姿にぴったりの、澄んだ柔らかな声だった。
口調から考えて、しっかりとした家柄の少女なのかもしれない。
眉間にそっとしわを作り、どこか申し訳なさそうに言う少女は、わずかに苦しそうだった。
「それだったら、あまり読み物は……」
控えた方がよいのではと、やや控えめに言いつつも、我ながら真っ当なことを言ったよなと考える。乗り物に酔いやすいのならば、読書などは控えるのが定石のはずだ。
これもまた、幼馴染から譲り受けた知識である。
しかし少女はゆるくかぶりをふり、
「意識を集中していたら、平気ですの。でも、ほら…なんと言いましょうか、集中が途切れてしまって……」
ひどく言いにくそうな彼女の言葉に、自分が声をかけてしまったことが原因かと合点する。
つまり彼女は雑誌に集中することで、酔いへの緩和をはかるタイプだったのだ。
彼女からすれば、自分のとった行動は余計なお世話以外の何ものでもなかったのだろう。
思わず乾いた笑いをもらしてしまいそうになる己を自制して、少女をもとのように座席に座らせてあげた。
「こう話している間にも、なんだか胸の奥からせり上がってくる甘酸っぱいものは恋心? えれえれえれえれえれ」
擬音を口にしている時点で多少の余裕は感じられるのだが、えれえれと今にも嘔吐し始めようとする少女にギョッとなる。
が。慌てるグイズとは裏腹に、少女はえれえれ言うだけで、実際に口から嘔吐物が吐き出されることはなかった。
「けれど、また、集中することができれば問題解決ですわ」
それはすなわち、
(もう話しかけるなってことね)
内心ガックリしながら、「そうかい?」と答えるのが精一杯だった。
後ろ髪をグイグイと引っぱられる思いで、会釈したのちに元の席へと戻る。
彼女と仲良くなれるのは、きっとこれが最初で最後のチャンスだったのだ。
(それに、乗っている間に短い時間だけだったしな……)
彼女が、自分の故郷である村で降車でもしない限り、この糸のように細い縁など、ぷっつりと切れてしまうのだ。
そんな都合のいいことが、起こるはずはない。
(俺の村で、客が降りるなんて、滅多にないことだもんな)
あの夫婦だって休憩に降りただけで、本格的に立ち寄ったわけではない。平和だけがとりえの小さな、何もない村なのだ。
あの少女が、降りるわけがない。理由も考えられない。
ならば、自分たちの縁を結ぶことができなかったのは必然的にも思えた。交わることのない縁だったのだろうと、深く息を吐いて帽子を顔に当てて、村の駅まで目と閉じることにした。
彼女の目的地が自分の村で、村の中で何か事件が起こり、二人してその事件に巻きこまれるなんて……――
あるはずはない。起こるはずはない事象。
あの平穏そのものの退屈な村に、イレギュラーなど、不似合なのだから。




