減るのです
その日は朝から雨だった。あたしは雨は嫌いじゃないけど、仕事に出かける日はやっぱりちょっと憂鬱になる。それでも、仕事は特にトラブルもなく、定時であがれそうだなと思っていたら
「あのさ、今日予定なかったら、ちょっと飲みにいかない?」
そう言ってきたのは、あまり交流のない先輩だった。あたしと違って、とてもおしゃれできれいな人だ。そんな人があたしと飲みたいというので、なんだろうと思って承諾した。仕事のことかと思っていたんだけど。どうも、そうじゃないようだ。
連れて行かれたのは、こじんまりした居酒屋だった。チェーン店を避けたということは、他人には聞かれたくない話ということかとあたしは思った。
店に入るとレジの側でかわいらしいおばあちゃんがいらっしゃいと笑顔で迎えてくれた。先輩はこんばんわと親しげな笑みを見せた。
「ねぇ、おばあちゃん。上、空いてる?」
空いてるよとおばあちゃんは答えて、カウンターに大きな声で
「お二人様、二階ね~」
といった。
はーいと言って、二十歳そこそこの女の子があたしたちを二階の個室に案内してくれた。
先輩は適当に頼んでいいよねと言って、注文を始める。
「あの…」
「あ、なんか頼みたいものある?」
「出羽桜あります?」
先輩は意外そうな顔で言った。
「日本酒党?」
「ええ、まあ、ビールは苦手なんで……あと、煙草すっても構いませんか?」
「うん、大丈夫。あたしもスモーカーだから。遠慮しないで」
そういって灰皿をこちらに押してくれた。ものすごく意外そうな顔してるな。まあ、よくあることなので、あたしは気にせず、煙草を取り出して一服した。
「会社じゃ吸わないよね?」
「そうでもないですよ。たまに吸ってますし……最近は喫煙室に行ってる暇がなかっただけですね」
まあ、そんなこんなで料理とお酒がやってきて、適当に仕事の愚痴や上司の失態話で盛り上がりつつ、程よく酔いが回ってきたところで、あたしは切り出す。
「先輩、なんか相談でもありますか?」
先輩はほんのり酔いが回ってうるんだ瞳をちょっと伏せた。そして、意を決したように口を開く。
「こんなこと……人に聞くもんじゃないと思うんだけど……」
と前置きをする。
「最近、彼の考えてることがわかんないのよね」
「まあ、そういうこともあるんでしょうね。全部わかりあえるなんてこと、ほぼありえませんからねぇ」
「だよねぇ……でね。なんか、エッチしたいときだけ会いにきて、やるだけやったら帰っちゃうのよ。仕事が忙しい奴だから、仕方ないかなって思ってたんだけど」
「うーん。先輩はそれ拒まないんですか?」
「なんか、好きとか愛してるとかいわれちゃうと……拒めなくて。でも、さすがにあたしも疲れてて、今日は無理っていったらさ……」
そこで先輩はビールを煽る。
「今更、何言っての?減るもんじゃないだろ。マグロでかまわないし……とか、言われちゃってさぁ」
先輩はその言葉に納得できなかったのだろうなということは、その口調と表情でわかる。
「減りますよ」
あたしがそういうと先輩はぽかんとした。
「いや、だから減りますって」
「な、何が?」
先輩はすごく不安そうな顔になった。
「【愛しさと切なさと心強さ】です」
先輩はあんたねぇってあきれたような苦笑を浮かべる。
「それって、昔流行った歌じゃない」
「そうですよ」
「あれって、確か格闘ゲームのアニメかなんかの主題歌だったんじゃない?それとあたしと何の関係があるのよぉ」
びっくりさせないでよといいだけに、先輩はさらにビールを煽る。
「だって、先輩の彼氏、減るものじゃないって言ったんでしょ」
「言ったけど……」
「じゃあ、確実に減ってますよ」
「だからぁ、何が減ってるのよ」
「先輩と彼氏さんの気持ちです」
意味わかんないと先輩はすねた。たぶん、自覚するのが怖いんだろうな。とりあえず、説明はしておこうかとあたしは思った。
「要するに相手の言動に愛しさを感じたり、逢えない時間が切なかったり、そばにいてくれるだけで元気になれるような心強さってものが、お互い減ってるんじゃないかと思うんですよね」
先輩は黙ってビールを煽る。
「先輩の話から、あたしなりに推察すると、すでにセフレ領域ですよ。ま、これからどうするかは先輩と彼氏さん次第ですから。あんまり、あたしの言葉は気にせずに。とりあえず、話し合うっていうのはどうですか?」
先輩は急にテーブルに突っ伏した。しばらくして、肩が小刻みに震えだす。
あたしは言い過ぎたかなと思いながら、煙草をくゆらせる。
どれくらいの沈黙が続いただろうか。あたしは通りがかった店員さんに出羽桜を注文する。すると先輩がそれっておいしいのと顔をあげる。
「あたしは好きですね。口当たりいいし」
じゃあ、あたしもと先輩も注文する。これが、今夜のラストオーダーとなった。先輩は赤い目をこすりながら、出羽桜をちびちび舐める。
「悪くないわね。確かに飲みやすいかも……」
「越乃寒梅とかになるともっと飲みやすいですよ。そのかわり、一気飲みすると大変ですけどね」
「そうなんだ」
先輩は弱弱しい微笑みを浮かべながら、ちびちびと飲んだ。
あの雨の日からひと月ほど経ったころ、先輩が結婚するらしいという噂を聞いた。そして噂を聞いたその日に、先輩に食事に誘われた。今回は、居酒屋ではない。ちょっとおしゃれなイタリアンレストランだった。
「会わせたい人がいるの」
先輩は職場では絶対見せないようなかわいらしい笑顔でそういうので、だいたい予想はついた。たぶん、結婚相手に逢わせたいのだ。
レストランにつくと、キレイな立ち姿の中年のギャルソンがあたしたちを案内してくれた。ちょっとしたステンドグラスの仕切りがある半分個室のようなテーブルには、すでに一人の男が座っていた。彼はすぐに立ち上がり、はじめましてと微笑んだ。なかなか整った容姿である。先輩とも釣り合うくらいには、いい男だなとあたしは思った。
例の彼氏と別れて、こっちに乗り換えたってことかなと思ったんだけど、それはどうやら違ったらしい。先輩が例の彼氏よと言ったのだ。そう、減るもんじゃないと言った、あの彼氏である。
とりあえず、あいさつして席に着くと、二人はあたしに声をそろえてありがとうございますと言った。
「えーっと……何のことですか?」
あたしはお礼など言われる筋合いはない。すると、彼氏さんのほうがバツの悪そうな顔をしながら、ことの次第を話し始めた。
「俺はこいつしかいないから、とにかく会いたくて、で、まあ、あったら欲がでるっていう調子だったんです。君がこいつに気持ちが減るっていわれたって泣いて怒って……正直、そのときは君を恨みました。人の女泣かせやがってってね。でも、そうじゃなかった。泣かせたのは俺だった。拒まれたのがショックで言葉を間違えて、こいつを不安にさせて……馬鹿でしょ」
彼はそういって笑った。そして先輩も苦笑しながらいった。
「あたしもバカだったの。話し合う時間を作ろうって言えばよかっただけなのに。喧嘩して嫌われるのが怖くてちゃんと向き合わなかったから。でも、あんたのおかげで、あたしたちちゃんと話し合えたの。だからありがとう。すごく、感謝してるわ」
あたしはそういうことですかとつぶやいた。
「じゃあ、減ってた気持ちは取り戻せたってことですね」
「そう、だから結婚するの。あたしたち」
「それは、おめでとうございます」
「ありがとう。それで、一つお願いがあるの?」
なんでしょうとあたしが尋ねると、嫌な答えが返ってきた。
「スピーチしてくれないかな。キューピッドとして」
嫌ですとあたしは即答した。
「え~なんでよぉ」
「なんでも、何も……スピーチとかプレゼンとか大嫌いなんですよ。あんな恥ずかしくて面倒なこと……お断りです。どうしてもっていうなら、結婚式は欠席させていただきます」
そういうと彼氏さんが爆笑しやがった。
「ご、ごめん。本当に君って不思議な人だね。わかった。スピーチはなし。だから、俺たちの結婚式にぜひ来てください。お願いします」
丁寧に頭を下げられる。
「それなら、喜んで出席させていただきます。じゃあ、そういうことで、帰ります」
「え?まだ、食事が来てないわよ」
「どうぞ、バカップルでゆっくり楽しんでください。この状況は独り者には辛すぎますから」
あたしは皮肉と友愛を込めてにやりと笑ってみた。ひどいなぁと彼氏さんが笑い、先輩は真っ赤な顔して悪かったわねバカップルでと言った。
「先輩、そういう顔は他の人にみせちゃだめですよ。それじゃあ、失礼します」
あたしはそういって席を立った。
レストランを出て、一人で歩く。なんだかよくわからないけど、どうやら少しは役に立ったらしい。
「今夜は晴天だなぁ」
ひとり呟き、空を見上げれば満月がきらきらしていた。ああ、そうかとあたしは思い出した。今夜はミラクルムーン。奇跡の起こる夜なのだ。
【終わり】