第九七話……柏原さゆり2
さゆりは舌足らず口調で一生懸命その事を伝えようと話しかけた。
彼女の母は料理をしていた手を止め、さゆりと視線の高さを合わせてウンウンと聞いてくれた。
そして母は言った。
「じゃあ、お母さんの中にも入れるかな?」
冗談っぽく笑う母に、さゆりは「うーん」と首を傾げて考えた。
「……できるとは思うけど……」
さゆりは悩んだ。子犬には入れた。しかし、人間には入ったことはない。そもそもできるかどうかすらわからない。
「じゃあ、やってみて」
母はほんの戯れのつもりでそう言った。さゆりは「やってみるね!」と気合いを入れる。
「……」
目を閉じ、意識を集中させると、自分の心から何かが分離する。別れたものも別れる前のもの同じようにさゆりだ。その別れたものは弾丸のようにさゆりの意識から放たれ母親の中へと侵入した。
あ、は、入れた!?
ドクンッ!
突然、母の体が大きく脈打ち、何かに反応したように反射的に直立した。
さゆりはハッとした。
「お母さん!」
「……」
母は茫然と立ち尽くす。
大きく見開かれた瞳は虚ろに宙を漂い、笑顔は抜け落ち、その顔に表情は欠落した。
「どうしたの! どうしたの!? お母さん!?」
「……!!」
母は突然奇声を上げ、さゆり突き飛ばすと猛烈な勢いで走り出した。部屋のあるものを撒き散らし、何度か部屋の壁に体と頭を打ちつけた。
「……お、お母さん……」
さゆりは恐ろしいものでも見るようにヘタリとその場に座り込み、恐怖で身を固めながら暴れる母を見ていた。突き飛ばされた身体の痛みも驚きも、一瞬の内にどこか遠くへと遠ざかっていってしまう。
「お母さん!?」
割れた食器や家具に体を打ち付け、体が傷ついていく。やがてバランスを崩し、母は窓から転落した。ここは二階。さゆりはガタガタと震える足を無理やり立たせ、窓へと近づいた。
「……っ」
すでに母の動きは止まっていた。
二階から転落したが、母は一命を取り留めていた。しかし、もう二度と目を開ける事も、起き上ることも、話す事もできなかった。
「……」
それから多くの人間がさゆりに憐れみと同情の言葉をかけた。しかし、彼女にはわかっていた。母をこんな風にした原因が自分であると。
同じ日、近所の犬が子供達を突然襲いだし、周辺の大人たちによって捕獲されていたという話をあとから耳にした。
さゆりは自分の能力に対して大きな恐怖感を持った。そして、何よりも恐れたのが、能力の暴発だった。コントロールが付かなければ、またいつ同じ事が起きるかわからない。
幼くして覚醒した彼女だったが、能力を把握し、コントロールしできるようになったのは十二歳の時だった。
彼女は試行錯誤を繰り返し、そのまま使えば強力すぎる能力のコントロールと普段の抑制方法を発見した。
それは、能力を自分自身に向けるというもの。力の大部分を使い、自分の体内の奥深くまで浸透、作用させ、普段使える能力を抑制したのだった。
精神に作用する力はそのままではさゆり自身が持たない。そこでその負荷を体の方に転写することにより、うまく自分の方に向ける事ができた。ただ、その副作用として、性格と性器をのぞいた身体的な特徴は男性化する事となった。
さゆりは何年も何年も、自分の能力で眠ったままの母の意識を引き上げようと試みたが、母のバラバラになった断片的な想いをくみ取り、母の内面に触れ、後悔と感謝をするだけで、意識を引き戻すことはできなかった。
やがて母を失い、彼女は一人で生きていかねばならなくなった。それならば、むしろ男の方が都合がいい。
……もう女には戻らない。
あの時、錯乱しながらも、娘を守るために突き飛ばした母にそう誓ったのだ。
その誓いの半年後、柏原さゆりは柏原宗次郎として研究所諜報部によって発見された。
「……」
誰にも話さない。
話すつもりもない。
ただ、彼には話してもいいと思っていた。
いつか話を聞いてもらいたい思っていた。
もしかしたら、彼の前だけなら、女に戻れるかもしれない。女に戻りたいと思うかもしれない。そう思っていた……。




