第六六話……森の王3
彼女は一度深呼吸をして気合を入れると、思い切ってアクセルを踏み込む。
茂みの抜けた先に溝口の言った通り、ひらけた空間になっていた。
上村は予定通り、車を乗り捨て、身を潜めた。走って行ってしまうローンの残る車を見つめながら守衛団の車両をうまくやり過ごす。一瞬茂みで視界を遮ったために、上村が脱出した事は悟られてはいない。これで少しは時間が稼げるはずだ。
上村が身を潜めていると、すぐに溝口達が駆け付けた。
「よかった無事に撒けたみたいですね」
「まあね、色々複雑な気分だけど」
上村は四人の顔を見ながら肩を竦めて見せた。どうやら彼らにケガはないようだ。
車の事はあとで考えるとして、この子ら能力には驚きだわ……。
「君達は大丈夫なの?」
圭祐をはじめ、美奈も茜も全く問題ないのようすで「うん」と頷いた。映画のような出来事に三人は少し興奮気味に顔を紅潮させている。その横で溝口は遠足に引率の先生のような冷静さで声をひそめて言った。
「僕らは平気です。上村さんは足をケガしたんですね。血が出ているみたいですから。一先ずここを離れて応急処置をしましょう」
溝口の言う通り、車から脱出する時に着地に失敗して足をケガしていた。それに、ここにいつまでも留まるのは得策とはいえない。
上村は溝口の手を借りて立ち上がる。
「やれやれ、君だって目が見えないのに……うん? どうしてケガをしたってわかったの、見えていないはずなのに?」
「血の匂いがしましたから」
事もなげに言う溝口に上村は「すごい嗅覚ね」としか言えなかった。
「目が見えない分、他の感覚は結構敏感なんですよ」
上村は頭を掻いた。彼のこの感覚と能力があれば、目が見えないことなどそれほどのハンデでもなかったはずだ。ずっと子供らの管理役をやっていたにも関わらず、彼らの事が全くわかっていなかった。
「全く……」
初めて来たどこに何があるかわからないような足場の悪い森の中で、本来ならば彼の手を引いて案内するはずの自分が手を引かれているとは何とも情けない気分になってくる。
「どこに向かうの」
「森の奥に、そこなら時間を稼げると思うんですよね」
一行は目の目の見えない溝口を先頭に歩き出した。
この森は深い。富士の樹海のようなものだ。元々は存在しなかったが、生態系に異変が起きたあと植物が急成長をして出来上がったものだった。そのため、この先がどのようになっているのか解明されていない部分もある。
彼の能力があれば問題ないんだろうけど、それにしてもこんな所まで着た事がないわ。
上村もサバイバル訓練などで訪れた事はあるが、全体から見れば三分の一程度の所までしか入る事はなかった。
「もうすぐですね……」
「もうすぐ?」
「王様がいるんでしょう?」
オウム返しする上村の横で美奈が元気よく言った。溝口は「ああ、そうだよ」と笑顔で返す。
「王様?」
「うん、さっきね。あそこにいた鳥さんが言ってたんだよ。こんな所に人間が来るなんて珍しいな、そっちは森の王の方向だなって」
「そ、そうなんだ……」
「王様の所で、休めると思うんだ」
「近いの?」
「近道を歩いているはずです」
上村は足を引きづりながら、ふと後ろを振り返る。中に行けばいくほど、樹海は深くなっていく。
歩くほどに、進むほどに植物の様子も変わってきているように思える。葉の茂り方や木の幹の太さ、それに咲いている花など、まるで色鮮やかに、濃く、太く、濃密に生育している。
夏だというのに、蒸し暑さなどはなく、なぜか心地よく快適だ。足を進めるほどに増して行っているようにも思えた。
しかし……。
これだけの大森林がほんの数十年でできてしまうなんて……。
しかもここは、元々は市街地だったはずだ。
上村はケガを忘れるほど快適さとは裏腹に何とも言えない畏怖を森に感じ始めていた。