第三一話……日倉皐月1
「……」
彼女が何を見ているのか。
彼女自身何を見ているのか自分でもよくわからなかった。彼女の中に別の彼女がいて、それを見させているのではないかと思えるほどに。
「……」
姿勢よくベンチに腰かけ、その大きな瞳はなんの変哲もない天井に向けられていた。しばらくすると視線を落として誰もいない通路に向けられる。
長い直線の通路。誰も歩いていない。
その通路の奥から一人の少年が自分の部屋にかえるために歩いてくる。
うん? なんだ、あの子?
彼女があまりにまっすぐに彼を見つめていたために、彼は思わず視線を外す。すると、なんだか妙に意識してしまい、歩き方が不自然な感じになっているような気がする。
いまさら彼女の方に目を向けるのも変な気がするし、どうにもおさまりが悪い。
遠くから見た感じでは、冴木と同じくらいの年齢だったか、それよりも少しだけ幼くもみえる。
「……」
なんでこっちを見ているんだろう?
「あっ」
突然彼女が声を上げた。
幼さを残すような声に、彼は一瞬、美奈が声をかけてきたのかと錯覚した。しかし、何がおきるわけでもない。
無視して行こう。
もう少しで彼女の前を通る。彼女まで五メートル、四メートル……。
「……」
三メートル、二メートル……。
ほら、何もない。何も起きない。
彼女の前へと差しかかり、彼女の前を通り過ぎた瞬間、急に何かに重心を取られた。
そこは、わずかであるが床の一部が捲れていたのである。普段ならばつまずくことなどないような僅かな凹凸であったが、不運にも彼は足をひっかけ転倒したのであった。
「やっぱりぃ、転びましたねぇ」
「……?」
やっぱり?
彼女のやけに間延びしたような、ゆったりとした口調に彼は思わず振り返る。
彼女は楽しそうに笑うと、彼に駆け寄り手を差し伸べる。彼は少し考えてから彼女の手をかりて立ち上がった。
「これはどういうことだ?」
「?」
立ち上がると彼は彼女の事を見下ろした。どうやら彼女はあまり背は高くない。
彼の文句ありげな口調に彼女は不思議そうに首をかしげた。
ここに足をひっかけたのか。
彼は自分が足をかけた床を見た。本当にわずかな凹凸だ。普段なら、いや、もし気が付かなくともここで転ぶことなどありえないように思える。
だとすれば、さっきの彼女の「やっぱり」という発言と転んだことは何か関連があるに違いない。
「わたしぃ、日倉っていいますぅ、日倉皐月ですぅ」
「ええ?」
思わず聞き返す。しかし、聞き返してから彼は後悔した。彼女はにこにこ笑いながら、また同じ口調で同じ台詞を繰り返すのだから。
「ですのでぇ」
「ちょ、ちょっと」
彼は慌てて言葉を遮ろうとする。これでは話が進まない。
「あらぁ?」
「待ってくれ、質問をしたいんだ。さっき、やっぱり、って言ったよな? 俺が転ぶのがわかっていたのか、何か……」
「ええとぉ、あなたのお名前はぁ?」
「……」
皐月の言葉が終わらない内にしゃべり始めたのがよくなかったようだ。彼は仕方なく、彼女の言葉を最後まで聞いてから答えた。
「俺は、風見空」
「空さんですかぁ」
「ふーん」と皐月は独特な間で頷くと、空が話し始めようとする調子を崩してしまう。
やりづらいな……。
「ええとぉ……」
「ちょっと待て。次は俺の番だ」
しゃべり始めようとする皐月の口を手で塞ぎ、空は深呼吸して頭を切り替える。
理解したのか皐月は何度か頷く。
「さっきやっぱり、って言っただろ? それはどういうことなんだ?」
空の質問に、皐月はサヤが空の言いつけを理解していない時のような目で首を傾げる。
「俺が転んだ時に、やっぱりって……」
「んん~」
皐月は口を押さえられたまま、かまわずしゃべり始める。空は慌てて口から手を離した。
「転ぶのがぁ、わかってましたからぁ、やっぱりぃっていいましたぁ」
「なるほど」
わかっていたならば仕方がない。