プロローグ
「にゃあ……」
「……?」
子猫が鳴いている。茂みの中で強い警戒心をその瞳に宿しながらこちらを見つめている。
朝日を浴びるために彼女は家の外へと出てきたのだが、子猫の声に敏感に耳を傾けた。
声のする方へ足を進め、茂みの前でしゃがみこんだ。
「……?」
「にゃあ……」
満月のような瞳が、薄暗い茂みの中に二つ浮かんでいる。
不思議な光を放つ小さくて大きな瞳。
「おいで」
彼女は地面に手をついて、もう片方の手を茂みの入り口へと差し出した。しかし、子猫はそれに応じようとはしなかった。人間に対する警戒心が、その低く構えられた姿勢からも読み取れた。
それでも彼女は諦めなかった。根気よく子猫を待った。
時計の針が時を刻むように、猫の警戒心も徐々に、少しづつ解き始めた。
子猫はゆっくりと、それでも確実に彼女の手の方へと体を近づけた。
もう少し……。
はじめに前足、そして鼻先が僅かに茂みから顔を出した。
子猫は茂みの外の明るさに目を細めながら、自分の小さな頭を彼女の手の平の上に乗せようと首を器用に傾けた。
「みゃあ」
子猫は一声鳴くと、彼女の指先を猫特有のザラつきのある舌で触れた。
「よっ」
「みぃ~」
彼女は子猫を両手で抱き上げると、そのまま自分の視線の高さまで持ち上げた。
鳴き声は弱々しい。かなりお腹をすかしているのだろう。肋骨が僅かだが、毛並みから浮いて見えている。
「うん?」
ふと、彼女は子猫の首に首輪がつけられている事を知った。今の猫のサイズから考えれば、ぶかぶかで、どこかに引っ掛けてしまったら、すぐに抜けてしまうかもしれない。
「飼い主さんがどこかにいるのかな?」と、思ったが、子猫のやせ具合を考え「そんなこともないか」と自分の問いを自分で否定した。
彼女は赤ん坊でも抱くかのように、子猫を抱くと、子猫も彼女の腕の中で丸くなった。
「……うん?」
今度は子猫の首輪につけられた銀色のプレートに目が行った。
「S」そこには、アルファベッドで一文字だけ、小さく書かれていた。続きは何かで削られらたように消えてしまっている。
きっと、この子猫の名前が書かれていたに違いない。
「Sで始まる名前ね……」
「うーん」と唸りながら、彼女は考えた。いろいろな名前が浮かんでは消えていく。「さ」次は「し」……だが、なんともしっくりこない。しかし最後の「そ」まで行った時、いい名前を思い出した。
「SORAにしよう」
「にゃあ」
「いい名前でしょう? 特別な名前をなんだから」
そう言って、彼女は子猫の頭にやさしく手を置きながら、新しい家族を紹介するために家の中へと足を向けた。
子猫は満足気に彼女に身を任せると、久しぶりの温かな胸に顔を埋めるのだった。