裏起毛の殻
冷えたコーヒーを飲むふりをする。相槌を打ちながらボトル缶を締めた。大学のいつもの教室、見慣れた面々。パソコンを仕舞った学生が教室を後にする。僕らは先ほどの授業への文句を言い合っている。
「こんな量の課題、俺らに期待しすぎ」
「わかる」
「てかマジで眠いわ、全然寝てない」
「それな」
ボトル缶を開けてまたコーヒーに口を付けた。春から繰り返されてきた会話だ。相槌を打てばなんとなく会話は続く。僕たちの頭には穴あきのフォーマットがあって、単語を適当に入れているだけだ。僕はこいつらの好きな食べ物さえ知らない。
「じゃ、俺この後バイトだから」
皆がスマホを見始めたタイミングで誰かしらがそう言って立ち上がる。それを合図に僕らは教室から出て行く。飲みきれないコーヒーが冷蔵庫にたまる。
家に帰っても特にすることはない。入学したころは大学生らしくギターサークルに入っていた。先輩の言うままに楽器店に連れられてギターを買った。入門書には表紙にだけ折り目がついている。バイトもやってみた。居酒屋のキッチンだった。僕に合っていないような気がして一か月で辞めた。特に金には困っていない。
リュックサックを置いてそのままベッドに横になり、某キラキラ系SNSを開く。投稿はしない。やり方もわからない。春に交換した相手の写真をなんとなく眺めているだけだ。誰が誰かも知らない。何かのサークルの写真、どこかの観光地、誰かの友人との食事を義務的に目に入れる。いいねはしない。ワンルームにくだらない流行りの曲が流れる。ギターサークルの新入生歓迎会で行ったカラオケが苦痛だったことを思い出した。
スクロールする指が止まった。ヨットに乗ったガタイのいい大学生の写真だ。大会まであと一日、という文字が目元を覆う形で書かれている。ユーモアのつもりなのだろうか。指がピンと伸ばされたお手本のようなピースサイン。我が兄ながら理解できない。そのまま画面を消した。
僕には二つ上の兄がいる。小学生の頃から兄は水泳を習っていた。中学生の時、兄は県大会への出場が決まったことがあった。僕の両親は所謂親バカで、その時の生活は兄に最適化されていた。早朝にランニングする兄に合わせて僕も叩き起こされた。食卓には水泳のコーチが勧めた料理ばかりが並んだ。僕は自分の部屋で学校から借りてきた本の文字をなぞっていた。
県大会の結果はどうだったんだっけ。普通に表彰台に上ることもなく敗退していたと思う。兄の好物が所狭しと置かれた食卓で、兄が鼻をすすり続けていた記憶があるから。僕のコップが用意されていないことを言い出せなかった。色んな意味で塩気が多かった。
兄は高校卒業まで水泳に精力的に取り組み、大学からはヨットを始めたらしい。兄とは別の大学だから断片的にしか知らない。定期的に大会が開かれているそうだ。また同じアプリを開いて過去の投稿を見た。肩を組む海水でびしょ濡れの男たち、先輩の送別会のような場面、内輪ノリらしき言葉が出てくる出てくる。画面の明るさがやけに目に付く。いつの間にか日が暮れていた。秋の日暮れは早い。僕はそのまま目を閉じた。
寒さで早くに目が覚めた。早いと言っても八時だが。ベッドから起き上がり、いつものように蛇口を捻って水を飲んだ。どうしてだか喉につっかえるような感覚を覚えた。腕で口を拭いながら冷蔵庫を開ける。半端に余ったコーヒーしかない。米はあるが炊くのが億劫だ。近くのコンビニでパンでも買おうかと、僕は素足にスニーカーを履いて家を出た。
コンビニで百三十五円のメロンパンを買った。五円玉をズボンのポケットにねじ込む。秋晴れの空が寝起きの目にしみる。コンビニのためだけに外出するのは癪だったから、どこか外で食べようという気になった。メロンパンを持って適当に歩く。冷たい風に急かされるようにして足を動かした。上着を持ってくればよかった。
案外座ってものが食べられるような場所が周囲になかった。学生がたむろしないようにしているためか。足の疲れを感じ始めるくらい徘徊してようやく座ることができる場所を見つけた。目の前には色あせた海が広がっている。干潮の時間帯なのか水は遠くにある。砂浜へと続く階段に腰を下ろした。潮の匂いはメロンパンの甘さにかき消された。人工的な甘さ。口の水分が奪われる。夏は海水浴客で賑わっているらしい。ギターサークルの先輩が、毎年夏に花火をするんだ、と言っていたことを思い出す。ざざあ、ざあ、と地味な音が響いている。
メロンパンを食べ終わり、何とはなしに海を眺めていると背後に人の気配を感じた。僕が振り向くと同時にその人は僕の前方七、八メートルくらいに何かをほうり投げた。音もなく砂浜に着地する。空の二リットルペットボトル二本。その人は僕の側を通って砂浜へと下りた。小柄な女性で、ビニール袋を手首に掛けている。ちょうどこのメロンパンが入るくらいの大きさだ。女性のくたびれた灰色のトレーナーに色あせたジーパンとスニーカー、自分で切ったかのような短い髪に言いようもない不気味さを感じた。同年代かもしれないし、母より年上にも見える。女性はふらふらとした足取りで靴を脱ぐこともなく海へと入っていった。腰まで海に入っている。女性は海面を見つめ、何かを掴んではせっせとビニール袋に入れていた。僕は女性から目を離すことができなかった。
しばらくして、袋がいっぱいになったのか女性がざばざば海から上がってきた。ペットボトルの蓋を開け、袋の中身を移している。目立った色はなく、ここからではよく見えない。海水? 僕が目を細めているうちに女性は海へ戻っていた。また海に手を入れて袋に集めている。女性の足取りは砂浜にいた時よりもしっかりしているように見えた。
女性は海から出たり入ったりを繰り返した。少しずつペットボトルが満たされていく。女性が二本目のペットボトルに取り掛かるころ、僕はあることに気が付いた。女性は必ず右足から海に入り、左足から海を出ている。だから何だ。女性はまた海へと戻る。こっそり中を覗いてしまえよ、誰かが僕の中でそう囁く。女性は背を向けている、今なら。僕は短く呼吸しながらペットボトルににじり寄った。鼓動が波を打ち消した。砂浜に横たわっている透明の物体を覗き込む。ゆっくりとしゃがみ込んだ。ペットボトルは淡く虹色に光っている。僕は目を見開いた。クラゲだ。大量のクラゲがはちきれんばかりに詰め込まれている。中に混ざった砂粒の動きが、それらがまだ生きていることを表している。クラゲというか、物体。
ざばざ。
波打ち際に立った女性が僕を見ていた。僕ははじかれたように立ち上がり、走った。指先に温度を感じなかった。あの目は凪いだ海のようだった。喉がひどく乾いた。
帰宅し、シャワーを浴びて横になった。寝返りをうちながら昼寝した。起きたころ、部屋はオレンジ色に染まっていた。軽快な音楽が流れる。兄の大会は終わったらしい。部員みんなでこれから焼肉に行くそうだ。
翌朝、僕は自転車に乗ってあの海岸へと向かった。サンダルを履いたむき出しの足が冷えた。時刻は午前十一時。もっと早くに来たかったが寝過ごしてしまった。まあいい。探さずとも女性の姿を見つけることができた。昨日と全く同じ姿で同じ場所で同じ動作を繰り返している。ペットボトルも同じ場所に落ちている。一本は既にクラゲで満たされていた。近くで見ると、もう一方もあと一回で満タンになるくらいには入っていた。もちゃあ、もちゃあ、と緩慢な動きと共に色が変化する。タマムシの劣化版のような感じ。どれもペットボトルの蓋と同じくらいの大きさだ。
もちゃあ、もちゃ、もちゃあ。
透明な塊を無心で眺めた僕の足は、勝手に波打ち際へと向かった。湿って変色した砂の前で立ち止まり、サンダルを脱いだ。手が震えていた。かつてないほどに僕の動脈は波打っていた。
ざば。
鳥肌が立つ。体温が奪われる。それでも僕は進んだ。何度も弱い波に足を取られそうになりつつも女性がいる深さまで行くことができた。あと数センチ進めば短パンが濡れてしまう。女性は張り付いた服を意にも介さず水に手を突っ込んでいる。僕は潮風で肺を満たした。女性から潮よりも濃い海の匂いがする。僕は口を開いた。
「あの、クラゲを、捕まえてますよね」
女性はその体勢のまま言った。
「ええ。そうよ。ええ」
やわらかいが独特の抑揚がある話し方だ。波に揺られる海藻が思い起こされた。
「あー、っと、どうして捕まえてるんですか。クラゲ」
「どうして? 決まってるわ。どうしてなんて」
女性は手を海から引き揚げて、軽く閉じられた拳を僕に出した。女性の目線は自身の手に注がれている。恋でもしているかのような瞳で見つめている。凪いだ海がきらめいたようだった。目尻は垂れ、比較的大きな口は緩く弧を描いている。女性が手を開く。蓮の花のようだった。その上には十センチにも満たないくらいのクラゲが横たわっていた。母なる海。その手は揺蕩うように、しかし確実に女性へと引き寄せられた。
「とれたて」
薄く開いた口にクラゲは消えていった。女性は目を閉じ、右頬、左頬、右頬、とそれを転がしていた。暗闇の中、波に揺られるクラゲの画が浮かんだ。ごくん、と喉を鳴らす音がどこからか聞こえた。女性は片手で大きな口を隠して、少女のようにはにかんだ、ように見えた。
「あの砂浜のも、全部ですか」
「小食なのね、あなた。小食ね」
僕が言葉を探しているうちに女性は砂浜へとまっすぐ向かう。本だけは読んできたくせに。僕も続こうとしたが女性はさっさと左足からあがってしまった。
「あの! どうして、そっちの足から出るんですか」
女性は上半身だけを捻ってこちらを向き、朗らかに答えた。
「戻るためよ!」
彼女はペットボトルに袋に残ったクラゲを移し替えて、小魚のように走り去っていった。階段を駆け上がっているときにもう一度僕の方を振り返り、ほほ笑んだように見えた。僕も砂浜にあがりサンダルを履いた。足の指に入った砂も大して不快ではないように思えた。太腿がざらついた。
兄は打ち上げの写真を上げていた。ピースした男らの変顔に笑ってしまった。
「これ提出いつ?」
「金曜」
「うわ来週までと思ってた。危な」
代り映えのしない奴ら。僕はちらちらとスマホを見る。東京のパンダがどうとかいう興味もないニュースをスクロールしながら様子を伺っていた。お、ラリーが途切れた。僕はさりげなく言葉を発した。
「昨日一人で海行ってきたんだよね」
「へえ、お前そんな趣味あったんだ。てか俺もどっか行きてー」
「わかるわー」
僕は視線を画面に戻した。パンダを惜しむ人々へのインタビュー。フォーマットに適さなかっただけだ、大丈夫。今日、コーヒーはなかった。
「用事あるから先帰る」
僕はリュックサックを引っ掴み足早に教室から出た。彼女の姿を思い浮かべた。あいつらに話したところで意味なんてない。人間が海を理解することなんてできないのだから。彼女の口に飲まれていくあれは、何という名なのだろう。今度尋ねてみよう。いや、自分で調べるべきか。僕は歩きながらスマホの検索欄を開いた。クラゲ、秋、浅瀬、と打ち込んだ。
その週の土曜日、僕は海へと自転車を走らせた。脳内でインターネットの情報を反芻する。彼女が捕まえていたのは、おそらくカブトクラゲだ。日本沿岸で比較的よく見られる美しいクラゲ。板状に並んだ繊毛の生む反射で虹色に見える。他のクラゲとは異なる有櫛動物らしい。曇り空の下、風が頬を冷ましていく。潮の匂いが濃くなるにつれてペダルがよく回った。
予定していたより早くに到着してしまった。彼女の姿はまだない。自転車を停め、砂浜をうろついた。今日の波は、ざばっ、ざばっ、といった具合か。波に砂が混ぜられている。波打ち際でカブトクラゲを探してみた。いくら探そうが見つけることはできなかった。
浜の一面に僕のサンダル跡がついた頃、静かな足音が聞こえてきた。階段を見上げる。彼女だ。一週間前と変わらぬ恰好でペットボトルを抱えていた。それらを投げ、彼女は階段を下りてきた。彼女に歩み寄るにつれて海の香りが強くなった。
「あの、あなたが捕まえていたのってカブトクラゲですよね。属名が」
「えっと」
彼女は乾いた砂の上でぴたっと歩みを止めた。水槽で戸惑う金魚のようだった。彼女はうつむいていて、僕からは表情が見えなかった。
「ごめんなさい。誰かしら。ごめんなさいね」
彼女は海へ右足から戻っていった。
兄は誕生日を祝われたらしい。洗濯したズボンから五円玉が出てきた。




