第1章 ❀࿐
❀࿐ 短い物語ですが、楽しんでいただけたら嬉しいです! ❀࿐
世界が止まったように感じた。
ほんの一瞬。
周囲の音も、空気の流れも、すべてが消えて――
そこに残ったのは、私と彼だけだった。
彼が私を見る。
私も彼を見る。
視線が絡んだまま、どちらも動けない。
逃げたい、と思った。
部屋に閉じこもって、
布団に潜って、
全部なかったことにしたかった。
でも、一歩下がるより先に――
彼は突然、背を向けて走り出した。
呆然とした。
正直言って、
46歳の男があんな速さで走れるとは思っていなかった。
でもそれ以上に理解できなかったのは……
あの表情だった。
三年間一緒に働いてきて、
一度も見たことのない顔。
「ヴァル、この書類確認お願いできる?
息子を迎えに行かないといけなくて」
大勢の人がいるオフィスで働くって、
なんとなく理想的に聞こえる。
みんな真面目に働いていて、
静かで、
整然としていて。
書類はきれいに揃っていて、
キーボードの音だけが規則的に響く。
……まあ、
そんなのは想像の中だけの話だけど。
現実では――
誰もまともに働いていない。
特に17時以降は。
上司は自室にこもって昼寝。
しかもその昼寝、
なぜか夜まで続く。
そのせいで私たちは帰れない。
上司が帰るまで待機。
理不尽そのもの。
もちろん「急用」がある人だけは例外。
まあ、そういう人に限って
午前中も大して働いてないけど。
私は疲れていた。
コーヒーでどうにかなるレベルじゃない。
体の芯に沈むような疲労。
目は乾いて痛いし、
肌もカサついてる。
喉も渇いていた。
昼食はリンゴ一個だけ。
今欲しいものは一つ。
家。
デリバリー。
ベッド。
そして数時間の無。
周囲を見渡すと、
オフィスはまるで退屈な戦争の後みたいだった。
机に突っ伏してる人。
スマホいじってる人。
隠す気もなく寝てる人。
そんな中――
唯一仕事してるのは。
やっぱり。
彼だった。
さすがルー課長。
会社の最後の良心。
私は頬杖をついて、
少しだけ長く彼を見てしまった。
三年前からずっと思っていることがある。
あの顔で――
ここにいるのは違和感しかない。
俳優でもいけたはず。
モデルでも。
少なくとも、
壊れたプリンターとエクセルに囲まれる人生じゃなくてもよかったはず。
でももしかしたら――
レポート作成とか、
データ分析とか、
そういうのが楽しい人なのかもしれない。
……まあ正直、
彼が何かを楽しんでいる姿なんて、
想像できないけど。
彼は表情を変えない。
本当に、一度も。
トラブルが起きても。
誰かが冗談を言っても。
先月、
上司が重要書類にコーヒーをこぼした時ですら。
無反応だった。
何も。
時々思う。
この人、
感情の感じ方が普通と違うんじゃないかって。
映画選びの時だけは便利そうだけど。
コメディ。
ホラー。
恋愛。
全部同じ。
全部興味なし。
入社したばかりの頃、
どう接すればいいのかわからなかった。
自己紹介した時――
小さく舌打ちされた気がした。
……気のせいかもしれないけど。
ただあの顔が、
「面倒が増えた」
そう言ってるように見えただけかもしれない。
当時はただ、
冷たい人だと思っていた。
近寄りがたい人。
必要最低限しか関わらないタイプ。
でも三年経って――
少しだけ理解した。
彼は距離を置いている。
冷たい。
そう見える。
でも――
年齢も部署も関係なく、
みんな彼に近づきたがる。
正直、
意味がわからない。
誕生日の日、
クッキーを焼いたことがある。
ちょうどお菓子教室を終えたばかりで、
少し自信があった。
いい口実になると思った。
でもその朝――
オフィスに入ってすぐ見たのは。
列だった。
彼の机の前の。
そしてクッキー。
大量のクッキー。
形も色も違う、
丁寧に包装されたもの。
まるで神様への供え物みたいだった。
私は数秒立ち止まって――
静かに方向転換した。
結局、
何も知らないふりをして、
他の人に配った。
その方が楽だった。
安全だった。
もし渡していたら――
あの氷みたいな視線で、
心臓まで凍ってた気がする。
不思議なのは、
他の人はそう思ってないこと。
誰かが彼の机の近くをうろつくたび思う。
(……既婚者だよね?)
(普通に)
(よくやるなあ……)
ルーさん、
絶対疲れてると思う。
「はぁ……」
椅子にもたれてため息をついた。
謎すぎる。
ふと視線が、
キーボード横のフォトカードに落ちた。
ヒョヌ。
それだけで、
顔が緩んだ。
「まあ……
ヒョヌがいるならいいか……」
思わず小さく笑った。
「ルーさんとか、
どうでもいいし……」
腕を伸ばして伸びをする。
気づけば、
勤務終了まであと十分だった。
「……帰ろ」
PCの電源を落とし、
荷物をまとめる。
最近、
オフィスの雰囲気が少し変わった。
灰色で無機質だった空間が、
今は少しだけ柔らかい。
天井から吊るされた紙のハート。
ピンクのリボン。
小さなライト。
明らかに場違いな装飾。
仕事はできないのに、
こういうのだけ妙に本気。
もしかしたら前世、
インテリアデザイナーだったのかもしれない。
入口を出た瞬間、
十一月の冷たい風が顔を刺した。
その時――
声が聞こえた。
「指輪してないよね」
「いつも残業してるし」
「既婚者なら無理でしょ、バレンタイン前だし」
……またルーさんの話。
もはや日課。
たぶんその頃彼は、
上の階で黙って誰かのミスを直してる。
……認めたくないけど。
少しだけ気になった。
指輪なし。
残業常連。
バレンタイン前日も出社。
証拠ではない。
でも。
「……ルーさんの話?」
全員こっち見た。
ちょっと怖かった。
でも噂話は止まらない。
❀࿐ それじゃ、またね! ❀࿐




