呪いの味
ルカは、呪いしか美味いと思えなかった。
生まれつき味覚が壊れているのだと、村の者は言った。塩も、蜜も、煮込んだ肉も、薬草を混ぜた温かな粥も、ルカには濡れた布を噛んでいるようにしか思えない。甘いとも辛いとも感じない。空腹はあるのに、食事に喜びがない。
その代わりに、呪いだけが舌に乗る。
古井戸に沈んだ、誰かの嫉み。道端の石にこびりついた、転んで歯を折った子供の泣き声。死んだ山羊の骨に残った、冬を越せなかった寒さ。そういうものは、舌先で舐めるだけでよくわかった。酸い呪い、苦い呪い、痺れる呪い。古いものは干からびた豆のように粉っぽく、新しいものは生焼けの内臓みたいにぬるかった。
村の者はそれを気味悪がった。
だが同時に、便利がった。
「ルカ、井戸を見てくれ」
「ルカ、その納屋、変な音がするんだ」
「ルカ、この人形、捨てた方がいいかい」
ルカは十五になっていたが、村ではもう半分、道具のような扱いだった。人の顔色をうかがう必要はない。誰も最初からまともな少年だと思っていないのだから。
その日、ルカは朝から裏山の祠へ向かっていた。
村長の孫娘、ミオが、三日も目を覚まさない。熱もない。呼吸も安定している。ただ眠っているだけだ。神官を呼んでも理由がわからず、母親は泣き疲れて声も出なくなっていた。そういう時だけ村の者は、神官より先にルカを呼ぶ。
祠の前には、白い花がいくつも供えられていた。こんな花、昨日まではなかった。誰かが夜のうちに持ってきたのだろう。花弁がやけに瑞々しい。朝露にしては濡れすぎている。
ルカはしゃがみこんで、花の一枚を摘んだ。
舐める。
甘い。
胸がひやりとした。
呪いの甘さは厄介だ。飴のように舌にまとわりつき、もっと食べろと誘ってくる。たいていは執着の呪いだ。愛情のなれの果てか、祈り損ねた願掛けか、とにかく人を留める類のものに多い。
「起きるなって、言われてるなあ」
独り言が漏れた。
祠の扉は閉じている。鎖もかかっている。だがルカには、板の隙間から中に溢れ出す黒い靄が見えていた。見えるというより、味がする。砂糖を焦がしたみたいな粘つく気配が、朝の空気に混ざっていた。
ルカは鎖を外した。
中は薄暗く、小さな木像が一体。山の神だか、子を守る神だか、代が変わるたびに呼び名だけ変わる古い像だ。その足元に、見覚えのある赤い組紐が巻かれていた。
「これ、ミオのか」
去年の祭りで、村の娘たちが揃いで腕に巻いていた飾り紐だった。
ルカは眉をひそめる。あの子が自分で置いたのか、誰かが置いたのか。どちらにしろ、祠の中には呪いが根を張っている。しかもずいぶん質が悪い。人ひとり眠らせる程度で済んでいるのが不思議なくらいだった。
木像の台座に手を置く。
舌の奥が疼いた。
食える。
そうわかった瞬間、喉が勝手に鳴った。
ルカは自分のその反応が嫌いだった。人が高熱で苦しんでいる時も、子供が取り憑かれて泣き続けている時も、まず最初に浮かぶのが「美味そう」なのだ。助けたいより先に、食べたいが来る。最低だと思う。だが、思うだけで止まるわけではない。
「あとで気持ち悪くなるやつだなあ」
誰に言うでもなく呟いて、ルカは木像の足元に口をつけた。
冷たい。
そして甘い。
冬の夜に煮詰めた果実酒を、そのまま喉に流し込まれたような濃さだった。甘さの底に、じっとりとした孤独がある。抱きしめられなかった子供の夜みたいな味だ。飲み込んだ瞬間、喉が焼けた。
祠の空気が軽くなる。
木像の目が、ひび割れた。
ルカは勢いよく口を離し、その場に手をついた。胃の中で何かが蠢く。今食べた呪いが、自分の中のどこへ落ち着けばいいのかわからずに暴れていた。
吐くかもしれない、と思ったところで、背後から声がした。
「おや。ずいぶん乱暴な食べ方だ」
ルカは振り返った。
祠の入り口に、見知らぬ男が立っていた。白に近い灰色の髪。年の頃は三十くらいに見えるが、目元だけ妙に古い。旅装は上質で、村では見たことがない布地だった。腰に剣はない。杖もない。だが、ひと目でわかる程度には、場違いだった。
「誰」
「通りすがりの魔術師」
「うさんくさい」
「よく言われる」
男は笑った。気軽な笑い方だったのに、祠の空気は少しも和らがなかった。むしろ、さっきまで木像の下にあった呪いが、全部その男の足元へ吸い寄せられていくように感じた。
ルカは警戒した。こういう手合いは、たいてい面倒だ。
「村の人?」
「違う」
「じゃあ関係ない。今忙しいから」
「いや、かなり関係がある」
男は祠の中を見回した。割れた木像、しおれた花、赤い紐、そして片膝をついたままのルカ。
「君、呪いをそのまま食べるのか」
「そうだけど」
「下処理なしで?」
「……下処理って何」
男が目を見開いた。
その顔が、ルカには少し愉快だった。村の者は皆、ルカを見て困るか気味悪がるかのどちらかだ。だが今の男は、明らかに驚いていた。そして驚きの中に、恐れではなく興味が混ざっている。
「なるほど。完全な天然か」
「悪口?」
「褒め言葉だよ」
男はしゃがみこみ、割れた木像の破片を拾った。指先で軽く弾く。かすかな音が鳴る。
「執着の呪いだ。おそらく願掛けの失敗。誰かが『ずっと一緒にいたい』とでも祈って、神格未満のものにくっつけたんだろうね」
「それでミオが寝たままになる?」
「祈った相手が神様ではなく、空になりかけの依り代だったなら、十分起こる」
ルカは胃の中の重さをこらえながら立ち上がった。
「難しい言い方するなあ」
「難しいのではなく、君が知らないだけだ」
「それ悪口じゃん」
男はまた笑った。
「そうだね。じゃあ訂正しよう。君は、知らないままでここまで来てしまった珍しい人だ」
祠の外で風が鳴った。遠くから誰かの呼ぶ声がする。たぶんミオの母親だ。結果を急かしているのだろう。
「ミオは起きる?」
「今すぐは無理だろう。君が呪いを食べたせいで、彼女の身体からは抜けた。でも食べた君の中で消化不良を起こしている」
「最悪」
「まったくだ」
男は木像の破片を放り、代わりに懐から小瓶を取り出した。中に水みたいな透明の液体が入っている。
「飲みなさい」
「毒?」
「私はわざわざ辺境の村まで来て、君みたいな珍味を毒殺するほど暇じゃないよ」
珍味と言われたのは気になったが、胃の重さはもう無視できなかった。ルカは小瓶を受け取り、一息に飲んだ。
無味だった。
それが逆に効いた。
胃の中で暴れていた甘い呪いが、急に輪郭を失う。ほどける、というより、薄まっていく。痛みはない。だが、今まで呪いを食べた後に必ずあった胸焼けが、すっと消えた。
「……何これ」
「緩衝液」
「わかんない」
「呪いをそのまま胃袋に落とす馬鹿のための薬だ」
「悪口だ」
「今度は正真正銘の悪口だね」
ルカは少しだけ考えてから、男に言った。
「ありがとう」
「素直でえらい」
その言い方が少し腹立たしくて、ルカは顔をしかめた。
「それで、何しに来たの」
「君を探しに」
「僕を?」
「そう。呪いを食べる子供がいる、しかも味で区別しているらしい、と噂を聞いてね」
そんな噂があること自体、ルカは知らなかった。村の外のことはほとんど知らない。村も、ルカを外へ出す気はなかった。便利な道具を遠くへやりたがる者はいない。
「……変な噂」
「とても良い噂だよ。私は二十年くらい、それを探していた」
男はそう言って、真顔になった。
「君、名前は」
「ルカ」
「姓は?」
「ない」
「いいね。身軽だ」
いいのか悪いのかよくわからない。
男は祠の入り口に腰を下ろした。
「私はエヴァルトという。見ての通り魔術師で、呪いの研究者でもある。もっとわかりやすく言うと、呪いに取り憑かれて人生を駄目にした側の人間だ」
「自分で言うんだ」
「言うとも。事実だから」
ルカは祠の柱にもたれた。胃はもう平気だ。代わりに、頭の奥に薄い眠気がある。食べた呪いが完全には消えていない時に出る感じだ。
「研究者って、神官とかと一緒?」
「全然違う。神官は呪いを遠ざける。私は近づく」
「なんで」
「面白いから」
その答えに、ルカは初めて少しだけ男に親しみを覚えた。
面白い。ルカも、たぶんそれで食べている。人助けのためと言えば聞こえはいいが、呪いが身体の中でほどける感覚は、どうしようもなく面白い。
「でも今、危なかったよ」
エヴァルトが木像の台座を靴先で叩く。
「この程度ならどうにかなったが、いつか食い合わせを間違える」
「食い合わせ?」
「呪い同士の相性だよ。甘い執着に、鋭い憎悪を重ねたらどうなると思う」
「……美味しくなくなる」
「最悪の発想だな。正解だけど」
ルカは腕を組んだ。
「じゃあ、どうすればいいの」
「学ぶんだよ。分類、抽出、希釈、保存、移し替え、分解、相殺」
「多い」
「全部必要だ。だって君は、食べるしかないんだろう?」
その一言で、ルカは黙った。
そうだ。自分は食べることしかできない。神官のように祓えない。魔術師のように封じられない。ただ舐めて、味を見て、飲み込むだけだ。
それしかできないことが、急にみっともなく思えた。
エヴァルトはそんなルカを見て、少しだけ声を柔らかくした。
「気にするな。専門が狭い人間ほど、上手く伸びる」
「慰めになってない」
「慰めてないからね」
祠の外から、今度は本格的に人の気配が近づいてきた。村長、ミオの母親、神官、他にも何人かいる。
ルカは舌打ちしたくなった。これから面倒になる。ミオが目を覚ますかどうかもまだわからないのに、結果だけ先に求められる。
「私が話そうか」
「やめて。余計こじれる」
「賢い」
エヴァルトが立ち上がる。
「じゃあこうしよう。私は君の遠縁の親戚で、旅の薬師だ」
「絶対怪しい」
「君の村の人間から見れば、何を言っても怪しいよ」
それはその通りだった。
村人たちは祠の前で足を止めた。ルカが出てくるのを見て、皆一斉に顔色を変える。ミオの母親だけが、ルカの肩を掴まんばかりの勢いで詰め寄った。
「どうなの、うちの子は」
「起きると思う。たぶん今日の夜には」
「たぶんって何だ」
神官が険しい顔で言う。
「祠の像が壊れているではないか」
「壊したのは呪いです」
ルカが言うと、神官は露骨に眉を寄せた。いつもこの調子だ。ルカが正しいことを言っても、言葉の出どころがルカだというだけで三割減になる。
そこでエヴァルトが前に出た。
「初めまして。ルカ君の親戚で薬師をしております」
「聞いておらんぞ」
「そりゃあ突然来ましたから」
よくもそんなすらすら嘘が出るものだと、ルカは少し感心した。
エヴァルトは壊れた木像をちらりと見て、神官へ穏やかに告げた。
「依り代の劣化と感情残滓の凝固ですね。子供が触れてよいものではありません。今後は封を二重にした方がいい」
「……感情残滓?」
「執着です。恋慕か、親愛か、そういうものが未処理のまま祠に流れ込んだ。娘さんは繊細なので当てられただけでしょう」
神官は半分も理解していない顔をしていたが、わからないことをわからないとは言いたくない人種だったので、難しげに咳払いした。
「ふむ。見立ては、まあ、そう大きく外れてはおらん」
「そうでしょうね」
とエヴァルトはにこやかに言った。
ルカは口元を押さえてうつむいた。笑うと後で面倒だ。
結局、ミオは日が落ちる頃に目を覚ました。ぼんやりしていたが、熱もなく、泣きもせず、水を欲しがった。村人たちは奇跡だの神の導きだの勝手なことを言い出したが、ルカは聞き流した。
その夜、ルカの家には村長が来た。礼として卵を持ってきた。食べても味のしない卵だ。母は恐縮し、父は黙って受け取り、ルカはどうでもよかった。
村長が帰ったあと、ルカは縁側で空を見ていた。山の上に細い月が出ている。
隣にエヴァルトが腰を下ろした。
「怒ってる?」
と聞かれた。
「別に」
「嘘だ」
「別に、期待してないし」
「それは怒ってる時の子供の台詞だよ」
ルカは膝を抱えた。
「……僕が食べたのに」
「うん」
「僕があれを片づけたのに、神様のおかげ、みたいな顔してる」
「うん」
「でも僕、そういうの、前からだから」
エヴァルトは少しだけ黙った。
「だから怒らないようにしてる?」
「怒るだけ無駄」
「そうだね。無駄なことも多い」
月明かりの中で、魔術師は横顔だけで笑った。
「でも、無駄だとわかっていて研究するのが私たちだ」
「僕、研究者じゃない」
「なるよ」
その言い方があまりに自然で、ルカは返事ができなかった。
「君は呪いを味で判別できる。おそらく経年、発生源、感情の混ざり方までわかるようになる。しかも食べられる。そんな人間は、私が知る限り一人しかいなかった」
「いたの?」
「いた。死んだ」
「役に立たなそう」
「大いに立ったよ。死ぬまではね」
ルカは少し考えた。
「その人も、普通のご飯がまずかった?」
「いや、むしろ大食漢だったな」
「じゃあ僕の方がすごい」
「基準がひどい」
エヴァルトは小さく笑って、袖の中から紙片を一枚取り出した。びっしりと細かい字が書かれている。
「見えるか」
「文字は読める」
「呪いの分類表だ。仮のものだけど」
「こんなにあるの」
「まだ増える」
ルカは紙を受け取った。甘味型執着呪、乾性怨恨呪、湿性喪失呪、反響型信仰呪。意味のわからない名前がずらりと並んでいる。だが不思議と、嫌ではなかった。むしろ少しわくわくした。
「……全部食べたの?」
「もちろん違う。食べたら死ぬ」
「じゃあどうやって調べた」
「観察と採取と失敗の積み重ね」
ルカは紙を見たまま言う。
「これ、全部覚えたらどうなる」
「少なくとも、今みたいな無茶は減る。あと人を助けやすくなる」
「助けるの、僕が?」
「いや、ついで。君はきっと、味を知りたい方が先だろう」
図星で、ルカはむっとした。
「……悪い?」
「全然。最高だよ。そういう人間が一番伸びる」
風が吹いた。夕方に食べた呪いの甘さが、まだ少しだけ喉の奥に残っている。それなのに今は、不思議と気持ち悪くなかった。小瓶の薬だけではない気がした。
「君、村を出る気はある?」
とエヴァルトが聞いた。
ルカはすぐには答えなかった。
村を出る。そんなことを考えたこともない。ここには味のしないご飯と、気味悪がる大人と、時々助けを求める村人がいて、それで終わる生活しか知らない。
「……出たら、何がある」
「呪いがある」
「それはもうある」
「もっと良い呪いがある。古い呪い、深い呪い、神殿の奥で瓶詰めにされた呪い、王族しか触れられない呪具、都市一つを眠らせる祝福崩れ。君が今まで知らなかった味が山ほどある」
最悪の誘い文句だった。
ルカの喉が鳴った。
「ずるい」
「悪い大人だからね」
「悪い魔術師」
「気に入った」
ルカは膝の上の分類表を見下ろした。今まで自分がやってきたことは、ただ舐めて、食べて、気持ち悪くなって終わりだった。けれどその向こうに、名前があり、法則があり、まだ知らない味があるのなら。
それを知りたい、と思った。
自分の中にあるのは人助けの立派な志ではない。ただ、知りたい。味わいたい。どうしてこうなるのか、ちゃんとわかりたい。
それはきっと、村人が嫌う種類の欲望だった。
でも、ルカは初めてその欲を嫌いではないと思った。
「もし行くなら」とルカは言った。「一つ条件」
「聞こう」
「食べたあと気持ち悪くならない薬、いっぱい作って」
「そこか」
「大事」
エヴァルトは空を仰いだ。
「なるほど。たしかに君は逸材だ」
翌朝、ルカが村を出ると決まった時、母はひどく泣いた。父は長く黙ってから、「死ぬな」とだけ言った。村長は露骨に困った顔をした。神官は「外で妙なことをするな」と言った。
ミオだけが、目を覚ました翌日の顔で笑った。
「また眠くなるようなのは持ってこないでね」
「次はもっと上手く食べる」
「そこ反省するところ?」
「するよ」
村外れまで見送りに来たのは、結局その三人だけだった。
荷物は少ない。着替え一組、分類表、乾いたパン、味のしないゆで卵二つ。エヴァルトはやけに軽い足取りで先を歩く。
「最初はどこ行くの」
「北の街だ。古い修道院に、百年ものの呪いが寝てる」
「百年」
「美味いかもしれない」
「急にやる気出た」
エヴァルトが笑う。
「それでいい。ルカ、君はまず自分の舌を信じなさい」
「舌だけ?」
「今はそれで十分」
村の境界石を越えたところで、ルカは一度だけ振り返った。
いつもの景色だった。味のしない朝。変わらない畑。気味悪がられ、便利がられ、それで終わる小さな村。
けれどもう、自分はそこに収まりきらないのだとわかっていた。
ルカは前を向いた。
「ねえ、先生」
「まだ先生じゃない」
「じゃあエヴァルト」
「うん」
「呪いって、本当に全部食べられる?」
「さあ。そこを確かめるのが人生になる」
ルカは少しだけ笑った。
悪くない人生だ、と思った。
たぶん初めて、自分の欲望にちゃんと名前がついた。
腹が減った、ではない。
知りたい。
食べたい。
わかりたい。
それだけを抱えて、ルカは村の外へ出た。
味のしない世界の中で、呪いだけがやけにはっきりした輪郭を持って、彼を待っていた。
よかった悪かった 感想ください
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