昨日が積もる町、明日をふむ靴
この町に降る雪は、空からの贈り物じゃない。
それは人々の胸の奥からこぼれ落ちた想いだ。
ある人は恥ずかしい後悔を、ある人は届かな
かった言葉を、空へと放り出す。それらは雲
の上で凍りつき、真っ白な結晶になって再び
地上へと降り積もる。だからこの町の冬は、
どこよりも切なくて、どこよりも静かだ。
私が歩く道には、まるで地面に穿たれた傷口
みたいな、深い足跡が刻まれていた。五年前、
幼馴染だったハルに言えなかった一言。そし
て、些細なすれ違いから彼と離れてしまった
日の記憶。その足跡は泥みたいに黒く濁って、
どれほど新しい雪が積もっても、翌朝には底
なしの穴になって私を待ち受けている。私は
その黒い轍を、毎日同じ歩幅でなぞり続けて
いた。そこを外れて新しい場所を歩こうとす
ると、過去の私が裾を掴んで、冷たい闇へと
引きずり込もうとするから。
「お嬢さん、またその古い傷を覗き込んでい
るのかい」
不意に声をかけられて顔を上げると、一人の
老人が立っていた。おじいさんは古びた竹箒
を手に、道端の雪を丁寧に均している。驚い
たのは、彼の後ろ姿だった。そこには足跡が
一つもなかった。まるで今、この場所に魔法
で現れたみたいに、歩いてきた道は滑らかな
白一色に塗り潰されている。
「……おじいさんの足跡は、どこへ行ったん
ですか?」
「足跡はそこにあるよ。ただ、見えないだけ
だ」
おじいさんは穏やかに笑って、箒を一振りし
た。
「過去は消せない。でも、埋めることはでき
るんだ。私は前を向いて歩くために、一歩ご
とに自分の足跡を新しい『今』の雪で掃き清
めているのさ。過去はいつか道しるべになる
けれど、それに縛られて足を止めちゃいけな
いよ」
おじいさんは私の黒い足跡に歩み寄り、傍ら
に積もった真っ新な雪をさらさらと被せた。
あんなに深く私を縛っていた黒が、一瞬だけ
白く隠れる。その時だった。
サク、サク、サク……。
凍てついた空気の向こうから、聞き覚えのあ
る足音が近づいてくる。雪を噛むそのリズム。
心臓が跳ねた。現れたのは、ハルだった。五
年という月日は、彼の背を高くし、その横顔
をいくぶん大人びさせていた。でも、彼の足
跡を見た瞬間、私の胸は締め付けられた。
彼の足跡は、透き通るような「氷の青」をし
ていた。触れたら指先を切りそうなほど鋭く
て、見るだけで凍えそうな、拒絶の色。彼は
私との別れを、あんなにも冷たくて硬い痛み
として、抱え続けてきたんだ。
「君の足跡……ずっとここにあったんだな」
ハルが足を止め、静かに言った。その声は、
かつてぶつけ合った鋭い言葉を、長い時間を
かけて溶かしたみたいな優しさを含んでいた。
私の「黒い後悔」と、彼の「青い拒絶」。二
つの色が、雪原の上で向き合う。
「ずっと、埋めたかった。この穴を、ずっと」
私が震える声で言うと、ハルは何も言わず、
一歩、私の轍の方へと足を踏み出した。
その瞬間、足元からじわりと熱が立ち上った。
私の黒と彼の青が重なった場所から、雪が溶
け出したんだ。泥のような色も、氷のような
冷たさも、互いの体温が触れ合った場所から
順に溶けていく。それは春みたいな、柔らな
雪解けだった。固まっていた過去が透明な水
に変わって大地に吸い込まれ、私の心を自由
にしていく。
並んで歩き出した私たちの足元で、雪が鳴る。
「あのさ。五年前、あそこで僕が言おうとし
ていたこと、覚えてる?」
あの日、駅のホームの刺すような寒さと、言
いかけて飲み込まれた言葉。
「……ううん。雪がひどくて、聞こえなかっ
た」
私が嘘をつくと、ハルは困ったように笑った。
「嘘だ。君、あのとき僕の目を見て、泣きそ
うな顔をしてたじゃないか。僕はね『待って
る』って言おうとしたんだよ。君が遠くの大
学に行くって決めたとき、応援したい気持ち
と、行かないでほしい気持ちが混ざって……
結局、変な言い方になっちゃったけど」
胸の奥で、ずっと凍っていた何かが崩れ落ち
た。私の「黒い足跡」の正体は、彼に嫌われ
た恐怖じゃなく、自分勝手な夢のために彼を
置いていった罪悪感だったんだ。
「私こそ、ごめんね。ハルの気持ちを知るの
が怖くて、わざと怒って、離れちゃったの」
私が俯くと、ハルが振り返って私を見た。
「ねえ、見て。あのおじいさんが言ってたこ
と、本当だったみたいだ」
彼が指差した先には、町外れの展望台が夕闇
の中に浮かんでいた。そこへ続く道には、も
う喧嘩の跡も空白もない。ただ、私たちが今
作ったばかりの、温かなオレンジ色の足跡が
二列、仲良く並んでいるだけ。
「これからは、埋める必要のない足跡を増や
していこう」
ハルが繋いだ手に少しだけ力を込める。かつ
て言えなかった「好き」という言葉は、雪解
け水と一緒に土に還って、これからの私たち
を支える新しい大地の一部になった。
展望台に立つと、夜の帳に包まれた町が星屑
みたいに瞬いていた。紺碧の空には、たった
一つ、一番星が凛として輝いている。
「これからは、明日消えちゃう雪の足跡じゃ
なくて、春になれば花が咲くような、そんな
土の上を歩いていこう」
ハルが隣で一歩、新しい足取りを踏み出す。
私もそれに合わせて、自分の足を重ねる。冷
たい雪の町にも、もうすぐ本当の春がやって
くる。私たちの胸の中で溶け出した水は、い
つか芽吹く種を育てるための、温かな約束に
変わっていた。
私たちはもう一度、まっさらな白の上に、最
初の足跡を刻み始めた。




