匂いだけが残った夢
この話には、解釈すべき出来事はありません。
伏線も、回収も、象徴もありません。
ただ、歩いて、匂いを感じて、終わります。
もし何かを思い出したとしても、
それはこの作品の意図ではなく、
あなた自身のものです。
歩いていた。
どこに向かっているわけでもなく、戻る場所があるわけでもなかった。ただ、足が前に出ていた。
舗道は乾いていて、靴底が静かに擦れる音だけがついてくる。人の姿はあまり見えない。見えないというより、気に留めていないだけかもしれなかった。すれ違っていた可能性もあるが、覚えていない。
角を曲がったところで、焼き立てのパンの匂いがした。
温度を含んだ、少し甘い匂いだった。店があるのかどうかは分からない。看板も、ガラス越しの棚も見えなかった。ただ、匂いだけがあった。
足は止まらなかった。
パンの匂いは、追いかけるほどのものでも、避けるほどのものでもなく、歩いているうちに自然に薄れていった。
信号のない横断歩道を渡る。
白線が少し擦れている。車は来なかった。来なかった理由を考えようとして、やめた。
少し進むと、何処からか漂う線香の匂いが混じってきた。
煙は見えない。寺も、家も、誰かの姿もなかった。それでも匂いだけは確かにあった。空気の中に、細く残っている感じがした。
歩幅は変わらない。
線香の匂いは、鼻に残るというより、通り過ぎたあとで気づくような薄さだった。振り返る理由はなかった。
道は緩やかに下っていく。
街路樹の影が、一定の間隔で地面に落ちている。風はない。葉は揺れていない。
しばらく何も起きなかった。
何かを思い出した気もするが、思い出したという感触だけがあって、内容はなかった。
次に角を曲がったとき、カレーの香ばしい香りがした。
スパイスの匂いだった。空腹かどうかは分からない。ただ、匂いがあることだけは分かった。
カレーの匂いは、少し長く続いた。
店の前を通ったのかもしれないし、誰かの家の換気扇の下だったのかもしれない。確認しようとは思わなかった。
歩いている間、時計を見ることはなかった。
時間が進んでいるのかどうかも、判断しなかった。
遠くで何か音がした気がしたが、近づくことはなかった。
足音だけが、一定のリズムで続く。
いつの間にか、匂いはすべて消えていた。
パンも、線香も、カレーも、同時に消えたわけではない。順番があった気もするが、確かではない。
それでも、歩いていたという感覚だけは残っている。
どこまで行ったのか、どこにいたのかは分からない。
目が覚めたあと、映像は何も残らなかった。
景色も、道も、空の色も思い出せない。
ただ、匂いだけが残っていた。




