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夢・幻想短編集

匂いだけが残った夢

作者: 月見酒
掲載日:2026/01/25

この話には、解釈すべき出来事はありません。

伏線も、回収も、象徴もありません。


ただ、歩いて、匂いを感じて、終わります。


もし何かを思い出したとしても、

それはこの作品の意図ではなく、

あなた自身のものです。


歩いていた。

どこに向かっているわけでもなく、戻る場所があるわけでもなかった。ただ、足が前に出ていた。


舗道は乾いていて、靴底が静かに擦れる音だけがついてくる。人の姿はあまり見えない。見えないというより、気に留めていないだけかもしれなかった。すれ違っていた可能性もあるが、覚えていない。


角を曲がったところで、焼き立てのパンの匂いがした。

温度を含んだ、少し甘い匂いだった。店があるのかどうかは分からない。看板も、ガラス越しの棚も見えなかった。ただ、匂いだけがあった。


足は止まらなかった。

パンの匂いは、追いかけるほどのものでも、避けるほどのものでもなく、歩いているうちに自然に薄れていった。


信号のない横断歩道を渡る。

白線が少し擦れている。車は来なかった。来なかった理由を考えようとして、やめた。


少し進むと、何処からか漂う線香の匂いが混じってきた。

煙は見えない。寺も、家も、誰かの姿もなかった。それでも匂いだけは確かにあった。空気の中に、細く残っている感じがした。


歩幅は変わらない。

線香の匂いは、鼻に残るというより、通り過ぎたあとで気づくような薄さだった。振り返る理由はなかった。


道は緩やかに下っていく。

街路樹の影が、一定の間隔で地面に落ちている。風はない。葉は揺れていない。


しばらく何も起きなかった。

何かを思い出した気もするが、思い出したという感触だけがあって、内容はなかった。


次に角を曲がったとき、カレーの香ばしい香りがした。

スパイスの匂いだった。空腹かどうかは分からない。ただ、匂いがあることだけは分かった。


カレーの匂いは、少し長く続いた。

店の前を通ったのかもしれないし、誰かの家の換気扇の下だったのかもしれない。確認しようとは思わなかった。


歩いている間、時計を見ることはなかった。

時間が進んでいるのかどうかも、判断しなかった。


遠くで何か音がした気がしたが、近づくことはなかった。

足音だけが、一定のリズムで続く。


いつの間にか、匂いはすべて消えていた。

パンも、線香も、カレーも、同時に消えたわけではない。順番があった気もするが、確かではない。


それでも、歩いていたという感覚だけは残っている。

どこまで行ったのか、どこにいたのかは分からない。


目が覚めたあと、映像は何も残らなかった。

景色も、道も、空の色も思い出せない。


ただ、匂いだけが残っていた。

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